あばれる

 父とゆきちゃんが、実際いつから関係を続けているのかはわからない。けれど二人の雰囲気から決して短くない期間を過ごしていると思う。

 父に直接口止めされたわけではないのに、母にゆきちゃんのことは話してはいけないと、私は本能で理解していた。母のヒステリーにはとうに嫌気がさしていたし、なによりひみつにすることで、私がゆきちゃんを守れるような気がしていた。


 中学二年生の夏休みは、毎日時間が有り余っていた。ゆきちゃんに会えるんじゃないかと思っていたけれど、父はつねに仕事で忙しそうにしていて私を一度も誘ってくれなかった。はじめて会ったときに新しいお母さんになってくれるのではないかという期待は、時間が経つにつれ萎んでいき、けれど完全に消えることはなく、ただただ私の奥底で燻っていた。

 母は父の帰りが遅いとすぐに泣く。 

「絶対不倫してる絶対不倫してる絶対不倫してるの」

 藁人形が似合いそうな物々しい母の雰囲気は、惨めにみえればみえるほど、同情心より優越感を私に与えた。

「みよりはなにか知ってるんでしょ。いつもあたしだけのけ者にする。ひとりにしないで絶対あたしをひとりにしないで」

 次から次へと飛び出てくる恨み言は、私を安心させる子守唄だった。母はいつでもかわいそうだった。自分よりもかわいそうな人間がいれば、私はかわいそうではなくなった。

「ただ仕事で遅いだけだよ。そんなことしてないと思うよ」

 知っているのになにも知らないふりをするとき、つい愉快な気持ちになってしまう。母のかわいそうさが増して、私は元気になる。

 本当は私もゆきちゃんに会いたかった。父とゆきちゃんと私の三人の時間を満喫したい。それなのに中学校に上がってから、父はあんまりゆきちゃんと会わせてくれなくなった。

 家はただの牢獄だった。だからせめて母が囚人で私が看守でありたかった。


 学校の図書室でその二人を見たのは本当に偶然だった。家にはいたくなくて、私は夏休みになっても学校へ行っていた。

 運動場も体育館も校舎の中も、部活に励む生徒がたくさんいた。教室では、ちらほら補習を行なっている。冷房がついていない校舎は、ただひたすら暑かった。その中でも日陰になって涼しい教室が、校舎の三階にある図書室だった。

 鍵はかかっていなかったが、誰もいなかった。読書は嫌いではない。文字を追っていると、身体のなかにある多くのものが、すっと溶けるように消えていく。母の泣き言や、ゆきちゃんに会えないさみしさ、雪平秋人に抱く支配欲。そういった乱雑したものがなめらかに均されていき、いっとき私は穏やかでいられるのだった。

 外からは野球部がボールを打つ音が聞こえてくる。雪平秋人も、あの中にいるんだろう。窓から運動場を見下ろしても、どれが雪平秋人かはわからなかった。


 半分ほどページをめくって、ふとうたた寝をしそうになったときだった。突然図書室の扉が開いて、それまで静かだった空間に薄く亀裂が入った。扉のほうに視線を向けると、見知った顔がふたつある。

 雪平秋人と、松田美代だった。手をつないでいる。ふたりは――特に雪平秋人は気まずそうな顔をつくって私をみた。私も彼らも何も言わないので、しばらく妙な沈黙が走る。松田美代のボールペンを盗んでいた雪平秋人。松田美代は、もちろんそんなことを知らないだろう。

 そのときの私の顔は、彼らからどうみえただろう。私はまた、思いがけず雪平秋人のひみつをにぎってしまったことに興奮していた。

「私、出たほうがいい?」

 自分の声は、上擦っていた。彼らは首を縦にも横にも振らなかった。ただ曖昧に視線や首を動かしている。

 ひみつが好きだった。私だけが知っているという特別さは、私をどこまでも昇華させる。牢獄から出ていける鍵にになる。本を読むことで均されていた体内は、再び隆起していた。いろんな欲が私のなかであばれている。雪平秋人が、私の中身をかき回す。

 読んでいた本を棚に戻して、図書室の入り口に向かった。ふたりは馬鹿みたいにずっとそこに立ち尽くしている。その横を通りすぎるときに、松田美代が口をひらいた。

「あの、片瀬さん」

 彼女とは同じクラスだけど、そういえばそれまでしっかり話したことはなかった。おとなしくてか弱そうな子だと思い込んでいたけれど、その声は案外低く、しっかりしていた。

「私たちが一緒にいたこと、だれにも言わないでほしいんだけど」

「どうして?」

「からかわれたりするの嫌いだから」

 嫌い、の発音になんの躊躇いもなくて、彼女の言葉がさっくりと胸に刺さった。

「いいよ。だれにも言わない」

 松田美代はそれまでたいして会話を交わしたことがない私の言葉を簡単に信じたようで、ありがと、と笑った。教室でみる、口もとに手をあてる笑いかたではなくて、大きく顔の筋肉を動かさない薄笑い。かぶっていた猫を剥いだ人みたいな違和感に、彼女は私の言葉を信じたのではなく、ただ私を見くびっているのだと気づいた。

 だれにも言わないでと頼みながら、肯定以外の返事を私がするわけないと思っている。見え透いた態度に、つまらない気持ちになった。雪平秋人だけが気まずそうに目を合わせないようにしていて、やっぱり彼を私のものにしたかった。

「かわりに教えて」

 松田美代ではなく、雪平秋人の目を見て言った。彼はいつか私に泥棒行為を見られたときと同じような、泣きそうな目をした。

「ふたりはつきあってるの?」

 ゆっくりとたずねると、松田美代がまた首を縦に動かした。

「そうなんだ。二人、とってもお似合いだと思う」

 そう言うと、松田美代はかぶりを振った。少し照れているようにもみえた。

 だけどとなりにいる人が、自分のものを盗んでいるって知ってる?

 問いたい気持ちと絶対に教えてあげたくない気持ちが、体内であばれていた。いまにもお腹を突き破って出てきそうな私たちのひみつ。大理石みたいにつやつやしていて透きとおっていると思っていたひみつは、あばれるとだれも触れない鋭い棘のようになる。

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