ありふれていて見え透いていて

村崎

みつめる

 愛情が目にみえるなら、どんなかたちをしているだろう。触れたらどんな感触がするだろう。鼻を近づけたらどんなにおいがするだろう。もしも口に含んだら、どんな味がするだろう。

 ざらざらしていて、かたくて、でもときにやわらかくて、クリームみたいにぬらぬらしていて。バニラのようでミントのようで、酸っぱいジャムのようでもあって。いくら食べてもお腹がふくれない、魔法でできたお菓子が、たしかにある。

 彼のことを考えるだけで際限なく膨れていく感情が、この身体におさまっているだなんてちっとも信じられない。すでに脳みそも心臓も突き破って、体外に垂れ流されているんじゃないだろうか。そうでもしないかぎり、この感情の先にいる相手に届かない。

 だから血管が破裂してもいい。心臓に穴があいてもいい。脳みそがぐちゃぐちゃのどろどろに溶けたっていい。届いてくれるなら、なんでもいい。


 私がこの気持ちを思い出したのは、十四歳のときだった。

五月さつきちゃんはもう彼氏がいていいね」

 クラスの女の子からそう言われたときは驚いた。二年生に進級し、なんとなく学校に慣れてきたころ。当時まわりの女の子たちは恋愛に夢中になっていて、それは「彼と目が合った」だの「先輩の連絡先を聞けた」だの色めきだった会話の延長の先にあった言葉だった気がする。だけどそのときの私には彼氏どころか、好きだと思う人すらいなかったのだ。

「彼氏なんていないよ」

 戸惑いつつ答えたら、女の子は「えー、だって、ねえ」と、まわりの子と目配せをし合った。あのときの彼女たちの口のかたちをいまでもおぼえている。羨望と好奇心と少しの妬み。それぞれの適量を混ぜて溶かしてかためた飴玉を口でころころ転がしているような、小さな口のかたち。

「アキくん」

 女の子たちが含みを帯びた声でその名を口にしたとき、心臓が騒いだ。それまでどこにもなかったというのに、恋心は甘い水を注がれていきなり芽を出した。アキ、家が近いアキ、小学生のころからよく遊んでいたアキ、私の幼馴染み。私とアキは恋人同士だと思われていたのだと知った途端、なぜ私とアキはいま恋人同士ではないのか疑問が生まれた。

「幼馴染みなんでしょ? 家が近いなんていいよねえ、アキくんかっこいいもんね。なんだか漫画みたいだよね。五月ちゃん、アキくんのこと好きなんでしょ」

 ね、ね、ね、と繰り返す彼女たちを失望させたくなかった。私はアキと恋人同士になるべきだ。

「うん、私、アキのこと好きかも」

 自分に言い聞かせるように放った私の言葉に、彼女たちは歓喜した。好きな人がいる、当時中学生だった私たちにとって、それはひとつのステータスだった。その武器ないしは能力を持っていないと次のステージに進めない。もし進んだとしても、すぐに脱落する。私は、アキという強いカードを手に入れなくてはいけない。

「絶対にアキくんも五月ちゃんのこと好きだよ」

「絶対にアキも私のことが好き」

 ぜったい、ぜったい、ぜったい。言えば言うほど絶対は、本当に絶対になっていくような気がした。中学に入ってからアキとはクラスが同じになることはなく、ほとんど会話もしなくなっていたけれど、彼女たちが口をそろえて言う「絶対」には、人を信じさせる強いちからがあった。否定がひとつもない会話は、私たちをどこまでも無敵にさせる。


 雪平秋人ゆきひらあきと。こんな名前だが、誕生日は八月という私の幼馴染みだ。同じ保育園に入り、親同士が仲良くなり、そのまま学区が同じだから小学校、中学校と一緒に上がってきた。

 騒がれるほどの顔立ちではないけれど、一年のころから野球部で活躍しているのと、だれに対しても自然体で話す態度が、男女ともに人気を博している。

「五月ちゃんだけがアキって呼んでるのも特別感あるよねぇ」

 自分だけが特別だと感じる心地よさ。これをだれかに奪われてはいけないと思った。私は一刻も早くアキを手に入れなくてはならなかった。

「昔、結婚の約束とかしてたりして」

「本当に漫画じゃんねえ」

 そんなことを話しながら、彼女たちは私がこたえるのを待つ気はないようだった。各々が勝手に想像を膨らまし、うっとりとしながら笑っている。彼女たちの憧れをふんだんに詰め込んだ会話の数々は、しかし私を陶酔させた。

「そんな約束、してないよぉ」

 両手をおおげさにふって否定しているのに、女の子たちはなぜだか私の言葉を信じなかった。信じてもらえなくても、よかった。

 今の言い方、絶対に約束してるよね。絶対ふたりは付き合うよね。

 絶対のオンパレードに私はどこかへ飛び立てるような気さえした。向かう先はアキの胸。野球部で鍛えられたしっかりした胸筋は、私をつつむのにきっとちょうどいい。

 アキが私を抱きしめる。そんな想像、一度もしたことがなかったのに、当たり前のように抱き合うふたりを想像できた。私たちは、ふたりでぴったりのかたちになる。お似合いだよね、という女の子たちの声によってその想像は完成する。

 私にはアキがいないと。そしてアキには私がいないと。どうして気づいていなかったのだろう。どうして忘れていたのだろう。私たちは、呪いでもかけられていたに違いなかった。クラスの女の子たちは絶対的な言葉によって私の呪いを解いてくれた。だから私はアキの呪いを解く。


 結婚の約束なんて、本当にしたことはない。けれど、キスをしたことなら一度ある。小学五年生の夏休み、再放送のドラマを観ていた。そこでキスシーンが流れて真似したくなったのでアキを呼んだ。気軽に呼べる男の子は、アキくらいしかいなかった。

 ずっとすれ違っていたふたりがやっと思いを告げてみつめあう場面。最高潮に盛り上がるBGMと夜の海を背景にくちびるを重ねていた。あのロマンティックな情景とは程遠かったけれど、私はたしかにアキとキスをした。

「キスしてみたい」

 お盆も過ぎていたけれど、いつまでも暑さが後を引いていた午後だった。互いの宿題を見せ合うという口実でアキを呼び、互いの麦茶の氷がほとんど溶けたころ、たいしたことのないように言った。実際に、なんてことのないものだと思っていた。ただ、父や母にときどきされるのとは違うのだろうとはわかっていた。ドラマのなかで、感動的に描かれていたキス。一方的ではない、互いを求め合っているキス。どんな味がするのか、気になった。

 私の提案に、アキははじめ眉をひそめていた。

「なんで?」

「ドラマでやってたから」

「ふうん」

「いや? いやならしない」

「別に」

 そう短く答えて、アキのほうからキスをしてきた。突然だったので、鼻同士がまず当たった。それからほんの一瞬、唇が触れ合った。

「どう」

 唇を離したあと、しばらく見つめ合って同時に聞いた。本当に声が重なったから、私たちは笑って、それから自分の唇に人差し指を当てた。

「なんか味がするかと思ったけど、よくわからなかった」

「俺も」

 そういえば、それまで自分のことを僕と言っていたアキが、俺という一人称を使いはじめたのはいつだったろう。そんなこともわからないほど、私はまだアキのことを知らなかった。恋心は自分だけでは育たない。だれかが水を注いでやっと発芽するものなのだ。あの夏の日、私たちは種を植えただけで、水をまいてくれる人はまだいなかった。

 種をすでに蒔いていたことを、私はクラスメイトの女の子たちの会話のなかでやっと思い出したのだった。


 アキとキスをしたのはまだあの一回きり。次はいつできるんだろう。今度こそ、あんな不格好なキスではなくて、もっと長い時間、互いのことだけを考えるようなキスをしたい。私ももう小学生ではなく、それなりに成長したのだから、きっとドラマのようなキスもできるはずだ。

 時計を確認する。七時三十分まであと三十秒。心のなかで秒数を刻む。三十秒経った今、きっとアキの部屋でアラームが鳴っている。アキのアラームはどんな音だろう? デフォルトで設定されている音? 川のせせらぎ? 緊急事態かと思うような忙しない警報みたいな音? どんな音で毎日目をさましてる?

 そんなことを考えていたらアキの部屋のカーテンがひらいた。朝起きて一番にカーテンを開けるのは彼の日課。雨でも晴れでも雪でもそれは変わらない。眠そうな顔はいつみてもいとおしい。安そうなよれたTシャツ。目じりを指でこするしぐさ。好き、好き、好き、好き。

 愛情が目にみえるものなら、どんなによかっただろう。こんなに大きく彼を思っているのに、それを証明できる術がないのはもどかしい。私のほうが、絶対、絶対に愛情のかたちが大きいのに。

 アキが窓から離れてしまうその瞬間まで、私は彼をじっとみつめる。おはよう、そうつぶやく。私の声はまだ届かない。だけどいつか届く。絶対届く。

 双眼鏡の先に映る彼には、今日も可愛い寝癖がついている。

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