第1話 最後の授業とあの娘の心

 巨大な岩塊の拳が振り下ろされるのを見上げ、ピネロ・ガビは不敵な笑みと共に動いた。駆け出した彼の背後で拳が地を割り、砂埃を噴き上げる。銅色の髪を揺らしたピネロは、いわおの巨人の足元を迂回し、離れた場所に立つ少年へと突き進んだ。


 魔力の光を湛えた拳を握る。大柄で筋肉質な少年は、丸刈りの頭を軽く下げて身構える。彼の足元で地面がひび割れ、砕けて昇り、引き絞った腕にまとわりついて大きなガントレットを形作った。


「今日こそ決着つけてやるぜ、ピネロぉぉぉぉぉッ!」

「それはさっきも聞いたよ、グレイド!」


 大柄な少年が、土で分厚く武装した拳を繰り出してきた。本来の腕より何倍も大きくなったそれを紙一重で回避したピネロは、互いのつま先が触れ合いそうな距離に踏み込むと、銀色の光を湛えた拳をがら空きの脇腹めがけて振り上げる。


 魔術で編まれた鋼をまとう拳は、あばら骨のやや下に吸い込まれていく。だが、剥がされた地面が命中寸前に逞しい脇腹を覆い隠して拳を受ける。さらにグレイドは操った土くれで防御し、パンチと同じ方向に跳んでダメージを最小限にしてみせた。薄い手応えは薄いが、ピネロの笑みは崩れない。


「魔術のキレが増してる。腕を上げたね」

「こっちの腕もな。やれ、“巌窟王Mk.Ⅺマークイレブン”!」


 空中のグレイドが二本指を立ててピネロを示す。先ほどピネロを叩き潰そうとしていた岩の人形が、いつの間にかピネロの背後を取って拳を振り上げていた。


 ゴッ。太陽を覆い隠すほどの巨体からは想像もつかぬ速度で拳が振り下ろされる。まともに受ければ、ピネロはトマトのように叩き潰され、はじけ飛ぶだろう。勝負を決めかねない致命打をかわされた直後で体勢も崩れている。だが、ギャラリーはおろかグレイドすら彼が死ぬビジョンを思い浮かべていなかった。


 ピネロは横目で“巌窟王”の拳を見据える。突如彼の目の前に割り込んだ、石柱の如き腕が岩の拳を受け止め、ピネロを守った。ピネロの背後、何もない空間の風景を、カーテンを開くように現れた鋼の巨人が腕の主だ。


「“ツー・ナイツ・ディフェンス”、“重兵フォートレス”。巨人の操作は君の専売特許じゃないよ」

「何度見ても信じられねえ。マジでどうやって作ったんだ、そんなデケーのをよ」

「お互い様でしょ?」


 ピネロは青銅色の目でウィンクをした。鋼の城を擬人化したが如き様相の巨体は、鐘の音のような咆哮で主に応える。突き出した両手をガッシリと組み合い、押し合いをし始める巨人たちを置き去りにして、ピネロは離れた場所に着地したグレイドへ走る。


「けどこれチェックメイトだ、グレイド!」

「いいや、まだだ!」


 グレイドは両足を大きく開いて腰を落とし、土を固めて作った腕をピネロに突き出す。ピネロは、土の拳と自分との間に揺らめく細い糸の繋がりに気づいた。いつの間にかピネロに結び付けられていたそれらがピンと張る。


「卒業を控えたオレ様の成長は、こんなもんじゃねえ!」


 土の装甲腕がピネロに向かって飛翔した。魔力を付与された糸に導かれ、ピネロの半身ほどもある大きさの腕が殴りかかってくる。ピネロは鋼に包まれた手刀で土の拳を叩き砕いた。


 グレイドの口角が吊り上がる。押し合いをしていた“巌窟王”が“重兵”の足を蹴り払い、バランスを崩した体を地面に叩き伏せる。マークが外れて自由になった“巌窟王”がピネロの背に飛び掛かった。グレイドは足元の地面から浮き上がった土くれを両腕に集めて再び大型ガントレットを形成。“巌窟王”へ振り返ったピネロに殴りかかっていく。


「もらったァ! これで主席卒業はオレ様のものだァァァ!」


 背後の空中からは“巌窟王”の右ストレート。前方のグレイドは両腕を軽く広げ、ピネロが左右のどちらに動いても叩き潰せる構え。グレイドが勝利を確信する一方で、ピネロは慌てもせずに体をひねりながら跳んだ。


 紙一重で巨人のパンチをかわし、裏拳で“巌窟王”の右手首を打つ。回転に乗せて巨腕を受け流すと、岩の拳を地面に叩きつけさせた。


 “巌窟王”の攻撃はいなされた。しかしグレイドは勝利を確信して力強く地面を蹴りつける。ピネロは空中。“重兵フォートレス”は今ようやく起き上がったところ。もはや回避は間に合うまい。


 宙を舞うピネロは、小さく微笑む。


「ひとつ忘れてるよ、グレイド」

「負け惜しみは一秒早ぇぞ!」

「いいや!」


 ピネロは閉じていた右目を開き、左目を閉じる。グレイドの背後で、風景が布のように揺らめいた。


「僕オリジナルの人形魔術。その名は……“双騎士防陣ツー・ナイツ・ディフェンス”!」

「ごおっ!?」


 グレイドの脳天に強い衝撃が叩きつけられた。彼の背後では、鎧姿の人形がグレイドの脳天に鉄拳を振り下ろしており、そのまま彼を硬い地面とキスさせる。


 地面が凹むほどの衝撃を脳天と顎に受けたグレイドは、土の破片が浮かぶ中で白目を剥いた。操り主の意識が一瞬飛んだことで、“巌窟王”の体がグラリと揺れる。その背に組み付いた“重兵フォートレス”は、フロントスープレックスで岩の頭部を地面に叩きつけた。


 操り主とそろって地面の亀裂に頭を叩き込まれる“巌窟王”。その様を離れたところで見守っていた優美な出で立ちの女性が、腕を挙げてゆったりと声をかける。


「そこまでです。勝者、ピネロくん」


 女性の後ろで戦闘を見守っていた少年少女が歓声を上げた。ピネロはそちらに手を振ってから片膝を突き、突っ伏したままのグレイドに声をかける。


「生きてる?」

「あっ……たりめぇだ……!」


 グレイドは地面の亀裂から顔面を外して起き上がった。血の混じった唾を吐き捨てて口元をぬぐい、逆の手でピネロに握手を求める。ピネロは快くそれに応じた。


「ちっくしょう。これで何敗だ?」

「何戦したっけ? 全勝したのは覚えてるけど」

「クソッタレ。結局、お前には一回も勝てなかったってわけか」


 憎まれ口をたたいて苦笑しながら、グレイドは土くれの剥がれた両腕をはたいて、指で“巌窟王”に指示を出す。削り出した岩で作られた人形は身を起こし、ギャラリーの方へ向かうグレイドに付き従う。ピネロの人形二体は、周囲の風景を暗幕のようにまとって身を隠した。


 観客席に戻るふたりを、他の少年少女たちが出迎える。ピネロはそのうちのひとり、伸びた前髪で片目を隠した少年を見てぎょっと目を見開いた。


「ちょっ、イータ! そのフルーツは僕のだよ!? なんで君が食べてるのさ!」

「いーだろ、一個ぐらい。何個も持ちすぎなんだよ、お前。何日分食うんだっての」

魔力変換コンバートの魔術は消耗が激しいの! ほら、返して!」


 果物が詰まった袋を友人から奪い取ったピネロは、中から林檎を取り出して丸かじりする。甘い果汁が舌の上で弾け、飲み込む前に光る煙となって消え去った。


 立会人をしていた女性は、手元の成績表に筆を走らせると、わいわい騒ぐ生徒たちを振り返り、咳払いで制した。生徒たちは急いで整列し、ピネロも林檎ひとつをぺろりと平らげてからそれに倣う。


 優美なドレス型の鎧の上から白いマントを羽織った女性は、にっこりと微笑んでから授業を締めくくりにかかった。


「はい、ではこれで全員戦いましたね? 皆さん、目覚ましい成長でしたよ。さすがは人形科の特待生です」


 柔らかな微笑みを浮かべた女性の目には、立ち並ぶ生徒たち以外にも、その背後や傍ら、時には生徒を搭乗させた、多種多様な“人形”がずらりと並んでいるのが見えている。それらは全て、生徒たちが手ずから作り上げた自慢の武器だ。グレイドの“巌窟王”、姿を隠したピネロの“ツー・ナイツ・ディフェンス”もまた然り。


 魔術学院人形科。作り出した傀儡くぐつを従え、ともに戦う魔術師の一種。ピネロたちは学生の身分でありながら、一流に匹敵すると認められた者たちだ。


 女教師は感慨に浸りながらも、話を続ける。


「皆さんを受け持って二年間……短い間でしたが、これを以って全ての授業は修了、全員卒業試験は合格です。以降は卒業まで自由登校となります。全員進路は既に決まっているとのことですので、おのおのさらなる修練に励んでください。以上、解散」


 パチン、と女性が手を叩くと、生徒たちは一礼ののち歩き出す。ざわざわと会話が散発的に始まる中、誰かがピネロの背中を叩いた。振り返った先では、腰まである外套とハンチング帽を身に着けた、派手な出で立ちの少女が笑みを浮かべている。


「ピネロ、主席卒業確定おめ~! 吾輩は鼻が高いよ。こんなに大きくなって」

「何を言ってるんだか。君は僕のお祖母ちゃんか?」

「そこはお姉ちゃんって言うところでしょ! グレイドは残念だったね。五位からごぼう抜きするチャンスだったのに」

「そういうお前はビリだったな、キャニアン」

「吾輩はいいの、座学では三位だし」


 沢山のアクセサリーを編み込んだ癖っ毛を指でくるくると巻きながら、派手な少女はツンと鼻を高くする。そこへ、席ごと移動する大型のパイプオルガンに腰かけた理知的な少女と、巨大な蛇の骨格じみた人形に巻き付かれた少年が加わる。パイプオルガンの少女は四角い眼鏡を押し上げて言った。


「座学を軽んじる気はないのですが、人形遣いは実践こそが本分なのでは?」

「わかるわー。座学三位をバカにする気はねーけど、戦えねーのは人形遣いとしてどーよ? あ、ピネロ、桃くれよ。一個でいーから」

「オレンもイータもうっさい! いいんだよ、吾輩は戦闘メインの職業にはないんだから!」


 会話に入ってきたふたりに反論しながら、キャニアンは頬を膨らませる。ピネロはイータの要求を無視し、葡萄を食べつつ苦笑する。


「キャニアンは裁断省さいだんしょう志望だっけ?」

「そう! 裁断省正極隊せいこくたい! ふふん、在学中に数々の事件を解決してきた、この名探偵としての頭脳が既に求められているのだよ。あ、グレイドは騎士団レギオンでしょ? 聞かなくてもわかるって」


 機先を制されたグレイドが鼻白んだ。イータの蛇骨人形が、グレイドの太い首回りに渦を巻く。


「本当に入れんのー? レミハ先生から特にコメントなかったけど」

「るっせえ! そういうお前は俺に負けたろうが!」

「俺はいーの、相性負けだから。“巌窟王”噛んだら、壊れちまう」


 人形を振り払われても、イータは特段気を悪くした様子もない。長い前髪から覗く片目は、既にピネロの方に向けられていた。


「で、ピネロはマジに騎士団レギオン入るわけ? カノジョとは話ついてんの?」

「いや、それがまだで……」


 ピネロは頬を掻きながら、明後日の方に目を逸らす。そこへ搭乗型オルゴールがカタカタと音を立てて滑り込んできた。オレンこと、オレンジ・アーニーは眼鏡を押し上げて苦言を呈する。レンズに反射した陽光を、ピネロは手で遮った。


「いけません。しっかり話してあげなければ、彼女が可哀想でしょう。騎士団レギオン入隊は栄誉ですが、同時に危険も伴います。一年のほとんどを国境で過ごすことになるので、離れて過ごすことにもなります」

「それに、ジーナは騎士団レギオン嫌いだもんね。吾輩、君はジーナと一緒にいてあげるべきだと思うけどな」


 女子ふたりに左右からチクチクと言われてしまう。ピネロは助け船を求めて男友達ふたりを見やるが、ふたりそろって肩を竦められた。彼らも言いたいことは同じらしい。自分で切り抜けるしかないようだ。


「わ、わかってるよ。わかってるけどさ」

「わかってんなら、話せばいいじゃん」

「つーか、俺らと違ってピネロは玉の輿ってセンもあるくね? 俺ら庶民と違って、将来バラ色みたいなもんじゃん? それでも国境で戦うわけ?」

「デリカシーのない発言はおやめなさい、イータ」


 キャニアン、イータからも強い語調の言葉をかけられ、ピネロは背中を丸めた。


 騎士団レギオン。国家最強クラスの魔術師を擁する集団にして、国の守り手。そこで腕を上げて最強まで駆け上がり、あらゆる災いから国を守る。それがピネロの目標だ。王立魔術学院を主席で卒業すれば、半分は叶ったようなものと言えよう。


 だが、未だ解決できていない障害がふたつある。グレイドが巨体と尊大な態度に似合わぬ大きな溜め息を吐いた。


浮気者うわきもんがよぉ。恋人作っておきながら、姫様とも付き合いやがって。王様気分か? ええッ?」

「恋人じゃない、幼馴染。あと付き合ってない、付きまとわれてるだけ!」

「ピネロ、恋人と幼馴染は矛盾しませんが」

「むしろそうやって逃げ道作ってるあたり、男らしくないと思う」

「オレンとキャニアンは黙ってて。ややこしくなるから」


 ピネロが顔を背けても、友人たちからの白い視線は止まらない。何年もともに人形魔術を学んだ仲だが、なぜかこういう話になるといつもこうなる。そして一度こうなると、この空気感はなかなか払拭できないのだ。


 さて、今回はどう切り抜けよう。そう考えていると、ちょうどよく時を告げる鐘が鳴った。これ幸いと走り出す。


「じゃ、僕は約束があるからこれで!」

「あっ、逃げた!」

「逃がすな、食え」


 イータの指示に従った蛇骨人形が大口を開け、ピネロの背中に飛び掛かる。ピネロの背中から魔力の煌めきが吸い取られかけたその時、蛇の頬が真横に殴り飛ばされた。ほんの一瞬、殴打を繰り出した拳の輪郭が見え隠れして、虚空に溶ける。舌打ちをするイータに向かって、ピネロは振り返りながら手を振った。


「じゃあまたね! そのうちまたランチでも一緒に食べよう!」

「おおい、男らしくねえぞ! 逃げるなコラ!」


 グレイドが駆け出しかけたところで、ピネロの姿が霞んで消える。刹那の内に、四人はピネロを見失ってしまう。イータの蛇骨人形がピネロのいた場所に噛みつくが、顎は何も捕らえられずにガチンと硬い音を鳴らした。


「あの野郎……“隠密ヒドゥン”上手すぎだろ。おい、名探偵」

「お、この名探偵キャニアンに浮気調査をご依頼で?」

「おやめなさい」


 背にした友人たちの声が離れていく。“隠密ヒドゥン”の魔術で身を隠したピネロは顔をほころばせながら走りつつ、一抹の寂しさを感じてもいた。授業は終わり、卒業すればおいそれと会うことはなくなるだろう。一同に会するのは、卒業式が最後のはずだ。


 騎士団レギオン入りすれば、何かない限りは国境警備に従事する。何もない辺境で、無限に命が湧く死の森と、それが消えた時に攻め入ってくる敵国に対処せねばならない。未練はある。だが、なんとか折り合いをつけなければ。


(とりあえず、ふたりを説得しないとな……)


 大きな障害ふたつを思い、軽く頭痛を覚える。話をするべき少女がふたり。どちらも我が強く、過去何度も対話に失敗しているが、自分で決めた使命のためだ。


 覚悟を決めて、ピネロは魔術学院の教室棟へと駆け込んだ。


⁂   ⁂   ⁂   ⁂   ⁂


 魔術学院での用を終えて外に出ると、夕日も落ち切る寸前だった。周囲にはほとんど人がいない。ピネロは少し憮然とした面持ちで、レモンをかじりながら歩いた。


 第一の障害は、取り除けたのかどうか微妙だ。話はどうにも要領を得ず、平行していたチェスで勝利したことを理由に自分の意見を通して打ち切らざるを得なかった。


(本当にしつこいんだから……まあでも、これでよしとするしかない、か)


 悩みを断ち切るように、レモンをかじる。上手くいかなかった方はもういい。ピネロにとっては、もう一方を説得する方が大切だ。なにせ、何年も一緒に暮らしている同居人で、ピネロが騎士団レギオン入りを希望する最たる理由なのだから。


 夕刻も過ぎ、外出する者が少し減ってきた道を行く。通りを歩くのは人間だけではない。馬型、車輪のついた荷車型、店番をする人型。魔術で動く人形たちが、そこかしこに溢れかえっている。


 ピネロは、脚部を車輪型にした人型の大きな人形と、それが引く荷台に腰かけた御者に声をかける。行先を告げれば、御者が人形を操って目的地まで連れて行ってくれる。


 運送業者の人形遣いは、握った手綱に魔力を注ぎながらピネロに問う。


「魔術師組合ギルドのストリートか。ってことは、これからバイトかい?」

「まあ、そんなところです」

「その制服、そこの魔術学院の生徒さんだろ? 将来は優秀な魔術技師か」

「ええ、まあ」


 おしゃべりな御者の言葉に適当な相槌を打ちながら、ピネロは果物をかじりつつ街並みを眺めた。


 人形の形が様々ならば、人の服装も様々だ。学生や、着飾った服の大人たち。鎧をまとった物々しい集団、派手な衣装のストリートパフォーマー。その多くが、人形と共にいる。それがこの国、ペルジェスの王都を満たす風景だ。


 騎士と人形遣いの国家ペルジェス。どちらも魔術師の一種で、特に腕の立つ人形遣いは引く手数多だ。戦闘、工業、運送業。用途によってさまざまな役目をこなす。


 そしてピネロが送ってもらった場所は、魔術師たちが懇意とする職人たちが店を連ねる職人街だった。御者に金を渡して荷車を降り、歩き慣れた道を行く。


 魔術に関係するか否かに関わらず、たくさんの人形や義肢、雑貨の並ぶショーウィンドウを横目に、一軒の店へ足を踏み入れる。それほど広くない内装の奥に、目当ての人物がいた。


「ただいま、ジーナ。まだ仕事中?」

「ううん、もう終わり」


 カウンター席で針子作業に励む少女が、顔を上げないままに言った。


 ダークブラウンの髪をひとつにまとめた同い年の少女は、針を引いて糸を張り、縫い目を閉じた。カウンターの席に、出来立てほやほやのぬいぐるみがひとつ置かれる。黒い鳥の形をしている。ふわふわとしていて、触り心地が良さそうだ。


「またそれ? なんか、この間も作ってなかった?」

「お客さんの要望だもん。それに、慣れたオーダーだから早く作れるし」


 ジーナはそう言って、針や縫い糸を箱にしまった。ぬいぐるみが満載された陳列棚に新しく完成させたぬいぐるみを押し込むと、ピネロに微笑みかけてくる。


「はい、今日は店じまい。帰ろう、ピネロ。荷物持ちお願いしてもいい?」

「かしこまりました、お嬢様」


 芝居がかった仕草で頭を下げ、指を鳴らす。何もない場所から、鎧姿の兵士が進み出てきた。ジーナは一瞬不愉快そうな顔をしたが、すぐに表情をひっこめてカウンターを出た。戸締りをし、並んで店を後にする。ピネロが差し出した手を握る力は、少し強い。


 ピネロも上手く加減しながら、できるだけしっかりと握り返した。滑り落ちていくのを恐れるように。


「よお、おふたりさん! 夕日デートかい?」

「どうも。よそ見してると怪我しますよ」

「オメエこそ、しっかり横の美人さん目に焼き付けておきな!」


 年上の知り合いにすれ違うたび、そんなからかいの言葉をかけられる。彼らも職人街に店を持つ職人たちだ。はじめのうちはジーナと一緒に戸惑ったものの、今では対応も慣れたものだ。


 買った食材はピネロの人形に持たせ、家に戻る。間食のベリーを分け合って食べていると、道の途中で、それまで無言だったジーナが不意に切り出した。


「……ねえ、ピネロ。そっちはあと半年で卒業だよね。……どうするの?」

「ど、どうするって……何が?」


 つい目を逸らし、すっとぼけてしまった。このあとの話題になるとジーナはいつも怒る上に、しばらく機嫌が直らない。普段は、ジーナから振ってくることもない。


 しかし、強まる手の感触が、本能的な逃避を許してはくれなかった。


騎士団レギオンに行くの? 国境に……私を置いて?」

「……うん。そうするつもり」


 後ろめたく呟くと、ジーナが足を止めて俯いた。さらに強く手を握られる。思ったよりもずっと力が強くて、痛い。ピネロはその痛みを甘んじて受け入れた。


 ふたりの故郷は、国境にほど近い場所にあった、騎士団レギオンが駐在する村だ。今はもうない。いくつもの大きな穴ぼこだけを残して廃墟と化した。前触れもなく現れた巨大な影は、村に住む人々を、果敢にも挑んだ騎士たちを、無残にも殺しつくした。


 ジーナも、その光景を思い出しているに違いない。地の底から響くような獣の怒号を。生き物とは思えない、無機質なシルエットを。


 ピネロは立ち止まり、その場でカタカタと震え始める少女の手を引く。髪の毛に隠れた顔は、真っ青になっていることだろう。夕日では誤魔化しきれないぐらいに。


「行こう、ジーナ。その話は帰ってからゆっくりしたいんだ。……ね?」


 ジーナは何も言わずにこくりと頷いた。




 その夜。自宅の地下工房に引きこもったピネロは、小刀で木材を削りながら、食後のティータイムを思い返していた。


 気まずい夕食と皿洗いを終えた後、ふたりは将来について話し合った。ピネロはもちろん、騎士団レギオンに行くという思いを。一方で、ジーナはそれを非難した。


「ピネロ……騎士団レギオンに入った騎士の末路を、知ってる……?」


 泣き出しそうな顔で、ジーナはそう問うた。ふたりの故郷を滅ぼしたものと、それに立ち向かって死んだ彼女の父のことを思い出したのだろう。もう十二年も前、まだ五歳のことになるので、ピネロも当時のことをはっきりと覚えてはいない。


 だが、故郷を滅ぼした存在のシルエット、激しく震えて動かない足と腕から力が抜けていく感覚、そしてピネロを庇って突き飛ばし、腕だけになった父代わりの男のことだけは鮮明に覚えている。瓦礫に潰されて死んだ母の死体も。


 ティーカップの揺れる水面にあの日の光景を幻視しながら、ピネロは頷いた。


「うん、わかってる」

「なのに、騎士団レギオンに入るの? 本当の、本当に……?」


 不安そうな眼差しは、言葉以上に雄弁だった。また離れ離れになってしまうのか、また私を独りにするのか、ここに置いていくつもりなのか、と。ピネロは、心臓に針を刺されたかのような痛みを覚える。


 生まれ故郷の滅亡をともにしたジーナと再会したのは、十歳になってからだ。王都に移り住み、魔術学院で寮生活をしていたピネロの下に、彼女は前触れなく現れた。ピネロを除いてひとりの生存者もいないと聞いていただけに、大いに驚いた。


 それから今の今まで、ふたりは一緒に暮らしてきた。傷を舐め合うように。だが、ピネロが騎士団レギオンに入ってしまえば、それも終わる。十二年前の事件以来、騎士団レギオンの隊員は国境付近に家族を連れていけなくなった。


 当然と言えば当然だ。今までは守り切れていたからよかったが、守り切れない可能性が出てきたのなら、一家全滅を避けて単身国境に赴任する。ピネロはなおさらそうするつもりだった。王国の中心、王都にいれば、少なくとも国境の危険からは遠ざかる。ジーナには、王都で平穏に過ごしてほしい。


 ピネロはソーサーにカップを置いた。カチャリという小さな音が、判決を告げるように家中に響き渡った気がした。


「……ごめん。けど、僕には僕の魔術がある。心配しないでよ、これでもかなり強いんだから。おじさんにだって負けないと思ってるんだ」

「でも、お父さんは……」


 愛想笑いをするピネロの前で、ジーナは涙声を発した。彼女の両手に包まれたティーカップが軋む。肩をぎゅっと縮め、深く深くこうべを垂れる。口を押さえた手の隙間から、うっ、と苦しそうな声が漏れた。


 ピネロはジーナの隣に移動すると、彼女の手に自分の手を重ね合わせる。あの日のトラウマのせいか、彼女は過去のことを思い出すと決まってこうなる。そして言葉が止まり、ひどいときには嘔吐して倒れてしまう。ピネロの将来について、会話が続かない理由のひとつだ。


「ジーナ。大丈夫、大丈夫だから。大丈夫、大丈夫……」


 どんどん冷たくなっていく体温を引き留めるように、優しく包む。なんとか落ち着きを取り戻したジーナは、ほとんど口をつけていない紅茶を残して二階の自室に引っ込んでしまった。それ以上、何も言わずに。


(……ジーナ、今日は怒らなかったな)


 木を削る音に、心の声が混じった。これまでは騎士団レギオン入りすると話した途端、烈火のごとく怒り始め、そのうち吐き気を催し、ピネロにあやされて眠る。しばらく気まずい日々が続いたあと、自然に元通りになる。その繰り返し。


 今夜は怒らなかった。なら、納得してくれたのだろうか? あの様子を見るに、そうは思い難い。


 ガッ、と小刀が木材に引っ掛かった。ピネロは首を振って、削り出しを再開する。


 いずれにせよ、今のままでは心配をかけるばかりだろう。卒業までの時間を使って、できる限り強くなる。その成果をジーナに見せることができたなら。ジーナの父より遥かに強いと思ってくれたなら、きっと安心させられる。


 そして、ジーナが穏やかに暮らすこの国を守る。戦争を仕掛けてくる隣国からも、時を経るごとに強くなっていく魔獣からも。誰にも傷つけさせない。故郷の二の舞は決して許さない。そのためにも、一刻も早く己の魔術の到達点をつかまねば。


騎士団レギオン。ペルジェス最強の騎士。誰にも負けない、守れる騎士)

(おじさん。師匠。今の僕は、僕の魔術は、どうですか? ふたりに負けないぐらい、ジーナを安心させられるぐらい、強くなれていますか……?)


 小刀の刀身を見つめて問いかける。当然ながら、答えはない。黙する冷たい刃の光に、自分の銅色の髪と青銅色の瞳だけが映っている。


 ピネロは呼吸を整えて、再度小刀を木材に入れた。今度は勢いあまって、削り過ぎてしまった。

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