第37話 影の巨人
影人が人を襲う混乱のさなか、エミールは赤く濡れた包丁を見下ろした。
影の手が小刻みに震え、ぽたりと赤いしずくが染みを作る。
……どうしてオレは、おじいさんを刺した?
何が何だかわからなかった。
気がつけば手に包丁を持っていて、用もないのに広場に向かっていて、みんなが地面に平伏しているなか、知らないおじいさんの背中を刺していた。
そこに自分の意思はなかった。
なのに、胸が張り裂けそうなほど痛かった。
罪の意識で、顔を上げられなかった。
さっきからずっと心の中で謝っている。
謝っても許されないことはわかっているけど、何度も何度も「ごめんなさい」と繰り返し告げる。でも実際に口から出るのは、「アっ……」という呻き声だけだ。この影の体では、謝ることすら許されない。
この罪悪感は、一生消えることはないだろう。
死んでしまいたい。
悲鳴、怒号、絶叫。
およそ人の声とは思えぬ音声が、四方八方から放たれ、壁に反射してわんわんと響き渡る。これほど悲痛な音で溢れ返っているのに、エミールは一人だけ世界に取り残されたような感覚に襲われた。
自分はどこにもいない。
空っぽだ。
エミールは初めて、自分で死ぬ人の気持ちがわかった。
「アっ……!」
まただ。
またエミールの体が勝手に動き始める。
嫌だ。襲いたくない。
襲いたくないのに、体が勝手に包丁を振り上げる。
止まれ、止まれ、止まれ――
「あれ……?」
どくん、と心臓が鳴った。
なんだ?
いま一瞬、体が言うことを聞いた。
包丁が止まった。
それに、言葉も出る。
「兄ちゃん……?」
広場の奥にある壇の上で、見知った顔を発見した。
エミールを二度も助けてくれた兄ちゃんだ。
そして、エミールのせいで死んだはずの兄ちゃんだった。
「なんで生きて――」
その兄ちゃんが、影の魔王と闘っている。
そしてあろうことか、ファームを囲う壁に、影の魔王を蹴り飛ばした。
「なんでこんなことするんだい!」
「アっ……」
母ちゃんの声がした。
声のしたほうへ振り向くと、ちょうど母ちゃんが、影人に頭部を叩かれるところだった。金槌が母ちゃんの頭に減り込み、ゴン、と身の毛のよだつ音を鳴らした。母ちゃんは声も出せず、その場に崩れ落ちた。
「アアアっ!」
母ちゃん!!
母ちゃん母ちゃん!!
やめろおおおおおっ!!
「アアアアアアアアっ!!」
またエミールから、言葉が失われた。
声にならない声が迸る。
でも――
オレが、守る。
母ちゃんは、オレが守る。
「アアアアアアアアっ!!」
エミールは金槌の影人に飛びかかった。
そのまま押し倒して馬乗りになり、掴んだ後頭部を地面に打ちつける。
「……エミール?」
「アっ……」
エミールは体を動かせなくなった。
息が震える。
そっと横を見てみると、頭から血を流す母ちゃんが、地面に転がったまま手を伸ばしてきた。わかるはずがない。影の体になってしまったのに。記憶から消え去られて、存在自体がなかったことにされているのに。
「エミールなのかい?」
「アっ……!」
わかるはずがないのに。
「エミールっ!!」
「アア……! アア……!」
エミールの体がかっと熱くなる。
母ちゃんがちゃんと、オレのことを見ている。
「忘れちゃいけないのに……なんでこんな大切なこと……!」
母ちゃんの目から、一筋の涙が流れ落ちていく。
両手で顔を覆い、その隙間から止めどなく流れ落ちる。
「おいでエミール。一人で淋しかったね」
しゃべらないで、母ちゃん。
動かないで、お願い。
頭の血が、止まらないんだ。
「ごめんね、こんな母ちゃんで」
来ちゃダメだ。触っちゃダメだ。
これ以上近づいたら――
「大丈夫だよ。ずっと一緒だからね」
母ちゃんに影が、伝染ってしまう。
「お母ちゃん、ずーっと一緒だからね」
「アア……」
エミールの目にも、影の涙が浮かび、ぼとぼとと地面に落ちる。
「アンタを一人になんかさせないからね」
「アア……アア……」
母ちゃんの温かい腕に強く抱きしめられる。
母ちゃんの腕がすうっと黒く染め上げられていく。
「ずーっと一緒だよ」
「アアアアアアっ!」
母ちゃんが、影になる。
*
亀裂の入った壁が瓦解し、地面で砕ける音を立てた。
アドは目を細めて、粉塵の中を注視する。
可視化できるほどの濃密な魔力が、影の魔王の周囲を漂よっている。魔力は今もなお増大していく一方だ。人間のさまざまな感情が沸々と生まれ、魔王の力の源に変換されているのだ。
「第一ファームから第八ファームに告ぐ。収穫の時間だ」
影の魔王の声が、全世界に届くかと思うほど、はっきりと耳に聞こえる。
「家畜共に、絶望を」
大量の影が、そこら中にぬらりと生える。
白いお面を被った縦長の影、シャドウハンターだ。
その手には、影の剣がある。
女性が扱うような細身の剣で、この世の光をすべて吸収するような、一切の照り返しがない、まさに暗黒を体現した剣だった。
「影の軍団だ……!」
突然と樹立するシャドウハンターの森に、街の人間が必死に逃げ場を探す。
「逃げろ!」
「逃げるってどこに!?」
顔を動かし、目を動かすが、どこを見渡しても影が立ちはだかる。
「闘うしか……!」
「ぐああっ!」
至るところから悲鳴が上がる。
シャドウハンターの暗黒の剣に胸を貫かれ、若い男が血を吐いた。
「な、なんだこれ!」
血に濡れた両手を震わせて、剣の刺さった胸を見下ろす。
「嘘だろ……。影になんのか、俺……?」
剣の刺突部を中心に、じんわりと影が広がっていく。
まるで乾いた布が、黒いインクを吸い上げるように。
「ひいいっ!」
とうとう男は全身に影を広げ、瞬く間に影人に変貌を遂げた。
変貌を遂げた瞬間、くるりと踵を返し、街の人間を襲い始めた。
「うっ!」
影人に張り倒された街の人間も、瞬く間に影に侵食され、じたばたと藻掻き苦しんでついには影人となる。影人の増え方が、尋常じゃない。止まらない。
「あの剣に刺されるな! 影にされちまう!」
影の魔王は、街の人間をすべて影にする気だ。
影にしたあともずっと、人の感情を貪る気だ。
「森の主、リアラとアルティアを連れて逃げろ。指一本触れさせるな」
アドがエンシェントウルフに指示を出す。
「うおおお!」
六人の若い男たちがどこからか荷車を押してきて、変貌を遂げたばかりの影人やシャドウハンターを轢いていく。影人はもともと同じ人間だったというのに、容赦がなかった。自分の身を守るためなら、人は平気で人を殺す。
300年前もそうだった。
この世界は、無情だ。
車輪の痕の走った影人が、泣き声のような呻きをあげて、悲しそうに立ち上がる。死ぬこともできず、ただただ負の感情を垂れ流す、魔族のための感情製造機。その証拠に、影人からまたどす黒い瘴気が立ち昇り、第一ファームの上空でぐるぐると渦を作る。
おそらく同じような光景が、第二ファームにも、第八ファームにも、繰り広げられているのだろう。それは魔族にとって、この上ないご馳走に違いない。
「やめて……争わないで……」
背後から、泣き声が聞こえた。
「わたくしはどこにも行かないから……」
アルティアだった。
「もう二度と、自由なんか求めないから!!」
その場に崩れ落ち、地面に爪を立て、ぎゅっと手を握り締める。
「こんなのやめさせてよぉ!!」
アルティアが悲痛に叫ぶと同時に。
上空の瘴気の渦から、強大な何かが生まれようとしていた。
巨大な腕が、瘴気の渦を突き破った。それから脚が出てくる。体躯、そして、全容。押し潰されるような重圧感で、臓腑が重く鷲掴みにされる。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」
巨大な影人だった。
「なんだあの影……」
「こんなの、どうすりゃいいんだよ……」
街の人間は力が抜けたように膝から崩れ落ち、引きつった笑いを浮かべた。
*
「影の巨人……」
リアラがぽつりとつぶやく。
今まで何十回も見た光景だ。
巨大な影が街を覆い尽くし、すべての牧場が崩壊する。
それを何度も何度も見てきた。
やはり未来は変えられないか。
冥王歴523年。
今日は、すべてのファームが潰される日だ。
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