第36話 影の魔王
「影人!! なんで爺ちゃんを!!」
男の子が靴の底で影人を蹴飛ばした。
「アアっ!」
受け身を取ることなく、影人が石畳に体を擦らせる。
「ああ!! 爺ちゃん!!」
再度、拍手が寂しく鳴る。
「素晴らしい。ここまで思い通りに事が運ぶとは思わなかった」
「え……?」
「私がなぜ、希望ポイントなどという幼稚な法を取り入れたと思う?」
時が止まった、かのように思えた。
リアラは、魔王の言っていることの意味がわからなかった。
民衆も同じようで、誰もが魔王を見上げ、目を白黒させる。
「絶望するには……希望が必要だからだ」
その言葉を合図に、人々が一斉に血を噴いた。
「アっ……! アっ……!」
「父ちゃん!!」
「アっ……! アっ……!」
すべて、影人の仕業だった。
ハサミ、包丁、鎌、金槌――凶器となりうる日用道具を手にして、「アっ……アっ……」と呻き声をあげながら、人間の腹や背に襲いかかっている。
「影人、人を殺せ。抑圧からの解放だ」
影の魔王は首を傾け、妖しく紅の眼を光らし、口を裂いて嗤った。
「アアっ……! アアっ……!」
影人はどういうわけか、首を横に振り、自分の行ないを嫌がっている。
「魔王様!! やめさせてください!!」
「こんなのひどい!! 私たちが何をしたっていうんですか!!」
血に濡れた民が叫ぶ。憎しみを込めて。
「お前たちの怒りを感じる。もっとだ、もっと私を憎め」
影の魔王が天を仰いだ。
隣のギロチン台で、アルティア様が何度も何度も地面を蹴る。
鼻頭にしわを寄せ、口から鋭い息を漏らす。
それに構わず、影の魔王が東の方角へ手を差し伸べる。東の方角には、自殺者の魂を閉じ込めた、人型の石像があるはずだ。
「人の象も」
――ここから出して……怖いよ……苦しいよ……。
「残された者も」
――アンタ、なんで自殺なんか……! こんな母ちゃんでごめんね……!
「影人も」
――アアっ……!! アアっ……!!
「造り物も」
――オマエノ同類ト思ワレルノガ!! 気ニ食ワネエ!!
「そして、家畜も」
――爺ちゃん!! 爺ちゃん!!
「すべて人間だ。人間の感情が、無限に湧いてくる」
美しく温かい光が、禍々しい闇に染まっていく。
「そのすべてが、魔の力となる」
魔の森よりも濃厚な瘴気に包まれ、リアラは全身をぶるっと震わせた。
肩が上下するほど息が荒くなり、動悸が止まらず胸が張り裂けそうになる。
そして、大地が揺れた。
それどころか、大気も揺れた。
日中であるにも関わらず、空がどんよりと暗くなり、胸が押し潰されるほどの重圧を感じる。こんな禍々しい空気は、今まで感じたことがない。
「ああ父さん……! 父さんを感じる……!」
影の魔王が天を仰ぎ、両手を広げ、全身で歓喜している。
「祝福してくれてるのだね、父さん!!」
声高らかに語る影の魔王。
そのとき、リアラの視界を何かが通り過ぎた。
紛うことなく、紫色の結晶だった。
「懐かしいね、この空気。ボクも感じるよ、エトエラを」
白銀の狼から飛び降りたアドが、影の魔王の背に手を押しつけた。
「スカーを殺ったか」
一瞬だけ見えたそれは、神々しい光の球だった。
魔王を取り巻く影の鎧が、たちまちのうちに霧散する。
分厚い影から現れたのは、爛れた暗黒の皮膚を持つ異形の悪魔。
頭には二本の猛々しい角がそびえ、強靭な体躯には四本の腕が伸びる。体のいたる部位から、菌糸のような毒々しい棘が突き出て、見る者の吐き気を催す醜悪さだった。
「ようやく顔合わせだね、影の魔王」
アドは魔王に思考する隙を与えなかった。
「久々に受けるだろ。歯を食い縛れ」
「……ッ!」
ウィンターの足裏が、魔王の鼻先を貫いた。
鋭く弾き飛ばされた影の魔王が、壇上の壁に激突して半身を埋めた。
崩れる瓦礫のせいで、粉塵が巻き起こり、視界が白く塗り潰される。
「アドくん……」
リアラがその名を呼ぶ。
「悲しい国だね、ここは」
アドは崩壊した街並みを見て呟いた。
「みんな悲しんでるのに、どうすることもできない」
「こんな国ッ!! 滅んでしまえばいいんですッ!!」
リアラの激情が鋭く響く。涙が溢れる。
「ボクが壊すよ。何もかも」
壊してほしい。
アドくん、お願い。
みんなを助けて。
「アド坊、ダメだ。鍵がかかってる」
不意にダグラスの声が聞こえた。
リアラの位置からはよく見えないが、金属錠をかけられたのを覚えている。
影の兵の誰かが、この鍵を持っているはずだ。
それを伝えようと目を向ける。
リアラの瞳に、美しい足を振り上げるウィンターの姿が映った。ダグラスの指し示すあたりに、ウィンターが目にも留まらぬ速さで踵を落とす。
かららんと乾いた音が鳴った。
見てみると、ひしゃげた金属錠が地面に転がっていた。
鍵のことを伝える必要なんてなかった。
固定板が上下に開いて、円形の穴から、リアラの頭部が救い出された。
同様にウィンターの踵で隣の鍵も破壊し、アルティア様もギロチン台から解放される。
リアラは体が勝手に動いて、気づいたらアルティア様に抱きついていた。
自分の体に、アルティア様の感触がちゃんとある。
この喜びを諸手で噛み締めたいが、そういうわけにもいかなかった。アドが先ほどからこちらに見向きもせず、瓦礫の粉塵にじっと目を凝らしているからだ。
リアラも肌で感じている。
魔王の瘴気は未だ健在だ。それどころか、強くなっている。
「くく……」
朦々とした粉塵の中から、忍び笑いが漏れ聞こえる。
むわん、と瘴気の波動を感じたかと思うと、次の瞬間には、分厚い粉塵が一気に晴れ渡った。
突風が体にぶつかり、リアラは両腕で顔を庇う。三つに編んだ髪の毛が、ばたばたとはためき、なんとも煩わしい。
波及した瘴気に触れた瞬間、気色悪くて嘔吐しそうになった。
寒気が収まらない。
瘴気の風が弱まり、青ざめた顔から、ようやく腕を下ろす。
壁に穿たれた巨大な穴の前に立っているのは、自身の体を確認する影の魔王だった。手を握ったり開いたりを繰り返している。傷は、一つとしてない。
「人の感情がここまでとは……」
闇の粒子の流れが目に見える。
すべて、人の感情から生まれた負の力だ。
寒々しい闇の粒子が広場を包み込み、やがて魔王の体に吸収されていく。もはや魔王がどれだけの力を秘めているのか、計り知れない。
「…………」
影の魔王は、ゆっくりと握り拳を作った。
それをそのまま、後ろの壁にぶつける。
ドン、と空気が爆散した。
一見軽くぶつけたように見えたが、ただそれだけでファームを覆う堅固な壁が崩壊した。耳をつんざくような轟音が、この世の終わりみたいに反響する。
流れ落ちる瓦礫の滝、引き起こされる地揺れ。
嘘みたいな光景だった。
この場で特に大きな存在感を放っているのは、魔王が激突したときにできた穴を遥かに凌ぐ、街の壁を貫通するほどの深い深い大穴だった。壁の中の配管が剥き出しになり、ファームの外の景色がはっきりと見える。
目の覚めるような、赤茶けた大地が――
「これなら父さんを殺してあげられる」
膨大な瘴気を身に宿し、影の魔王が静かにそう告げた。
リアラには、この化物を倒すイメージが沸かなかった。
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