第34話 安上がりだね、アンタ
ぱきり……、ぱきり……。
スカーの鋭利な足先で、大理石の床に亀裂が走る。
静かに、だがはっきりと。
「お前は危険だ。ここで殺す」
その刹那、溜めに溜めたスカーの脚が、力を解き放った。
瞬発。
先ほどまで遠くにいたはずなのに、スカーが一瞬で目の前まで到達していた。瞬く時間すらなかった。懐を許すほど接近されて、顔面の影の揺らめきまではっきりと見える。影の奥で光る紅い双眸もはっきりと。
アドは慌てて両腕で顔面を庇う、フリをする。
――もっと来いよ。
顔の前で閉じていた両腕をさっと開く。
「〈
腕の隙間に展開されていたのは、青く輝く神聖な魔法陣。
突如アドの眼前に、光の盾が出現する。
黒い影が光の盾に触れた途端、影の端っこが赤熱し、じゅわっと散って蒸発する。死の直感が働いたのか、それとも野生の勘が働いたのかのは定かではないが、スカーは大理石の床に剣の足を深々と突き立て、己の慣性を完全に殺しきると、異常なほどの焦りで身を翻し飛び退った。
そんなに怖いか、お母様の力が。
「〈
スカーの飛び退った進路に、あらかじめ聖なる盾を配置する。
また軌道を修正される。
〈
「クッ……!」
三つ目の聖なる盾。
進行を妨げる聖なる盾を、スカーは瞬発的に避け、化物の身のこなしで方向転換する。触れれば影が消滅するのだから、必死にもなるだろう。一回でも触れれば、スカーはこの世から消える。
〈
四つ目。
スカーは軌道を変える。
「〈
懲りずにアドは腕を振るい、光の球を一直線に解き放った。
スカーの着地地点を想定し、先回りさせたつもりだったが、
「こんなの当たらなければ問題ない」
スカーは足の剣を床に突き刺し、無茶な方向転換で回避していく。
「ほんとにそう思う?」
「何……?」
まじまじと見つめるアドに、スカーが紅い目を揺らした。
「アンタ、今どこにいる?」
「……!!」
スカーが思わず後ずさると、ぴとりと背中に何かが触れた。
玉座の壁だ。
「追い詰められたのは、アンタのほうだ」
アドが親指と人差指をくっつけて、ゆっくり左右に捻ると、じゃりっと何かが零れ落ちた。
薄紫色の粉末だ。
その粉末は床に落ちることなく、魔素の煙となってアドにまとわりつく。
「覚醒めろ」
ボゴン、と大理石の床から骨の腕が生え、スカーの両脚を力強く掴んだ。
「馬鹿だね、アンタ」
必死に逃げようとするが、スカーは身動きが取れない。
「聖なる盾は一つ目が本物、残り三つは偽物だ」
「何……!?」
「なんでかって言うとね、実はもう、ウィンターの魔素が尽きてたんだ」
「……!!」
「これはちょっとした時間稼ぎと――」
アドがゆっくりと玉座の間を歩き始め、
「アンタを壁に追いやるための布石にすぎない」
濁り腐った眼で、鋭利な影を見る。
「本命は、こいつだ」
突如、壁が破壊され、轟音が響く。
「なっ……!」
粉砕された壁の瓦礫から現れたのは、二本の角を有する神々しい狼――
エンシェントウルフだった。
「1グラムの魔晄結晶か」
ふーっと指先の粉末を吹き飛ばす。
「だいぶ節約できたな……」
アドがにひっと嗤った。
「安上がりだね、アンタ」
エンシェントウルフの牙が影の体躯を噛み潰していく。
耳が裂けそうなほどの絶叫が玉座の間に響き渡った。
それに紛れて、みちみちとスカーの潰れる音がする。
ついに、がちん、と巨大な牙が打ち鳴らされた。
同時に牙の隙間から、ぼろぼろと何かが落下した。スカーの鋭利な四肢だった。見るも無残に粉々に砕け散り、床に落ちて硬質な音を立てる。まるで金属だった。砕け方も、硬さも、その音も、ほぼ金属と言って差し支えなかった。
スカーの残骸からは、もう魔力を感じなかった。
「いたた……」
魔王の腹心相手に、傷を負いすぎた。
余裕の勝利、とはお世辞にも言えない。
臓器が生きていたときであれば、これほど苦労はしなかっただろうに、本当にこの体は不便だと思う。
けれど今のアドには、たくさんのお友達がいる。
「ありがとう、駆けつけてきてくれて」
アドは森の主の巨大な鼻をなでた。
『ウォォォォン――!(おなかすいた!)』
森の主は上体を反らして吠え、空気をびりびりと震わせる。
「だいぶ魔素が抜けてるけど、少しは再利用できそうかな」
アドは手のひらの上に乗っかるものを見下ろした。
砕けた魔晄結晶の残骸だ。
粉々になっていて、氷砂糖のようにも見えなくない。
これで呼び醒ますことができるのは――
「カカカカ。俺はほんとにコスパがいいな、アド坊!」
ダグラスの下顎骨を打ち鳴らす音を聞きながら、アドは森の主のもふもふの背中に飛び乗る。
身を低く構えて駆けようとしたとき、長い毛に縛られた葉っぱの包みを発見する。ぺろりと一枚の葉をめくってみると、魔の森産の上質な魔晄結晶が垣間見えた。
「ダグラスさん――」
「ネクロリッチの贈り物だな、こりゃ」
――頼みがある。君の眼と鼻で、魔晄結晶を集めてほしい。
「ボクのお願い、聞いてくれたんだね」
頭蓋骨を小脇に抱えたアドは、森の主の白銀の毛を優しくなでた。
「行こうか、森の主」
派手に。
「この国をめちゃくちゃにしよう」
『ウォォォォン――!(おなかすいた!)』
森の主は崩壊した城壁から跳躍し、石造りのバルコニー、それから杉の木の根本へ着地する。魔族を蹴散らしながら城下町を駆け抜け、怒号や魔術を風とともに置き去りにしていく。
神聖魔術で治癒に専念していたアドが、圧迫感を感じてふと前を見上げた。
目の前に立ちはだかる、巨大な壁。
ぐんぐん近づいて、今にも激突しそうになるが、森の主はさらに加速した。
隣の頭蓋骨が「ひいっ! 骨折するっ!」と悲鳴を漏らす。
頭が激突する瞬間、森の主は前脚を上げ、壁面に爪を食い込ませた。
「ひああっ!?」
天にそびえる王都の壁を爪を立てて駆け昇る。
壁面が高速で下に流れていく。
風を切る音が耳を犯すなか、爪を立て躍動する森の主にしがみつき、ダグラスを落とさないよう脇に抱える。後ろを振り返ると、魔族の街並みがどんどん小さくなっていく。
そしてついに、壁の頂上へ――
ひゅう……と風が吹く。
森の主から見下ろす眼下には、大地にまっすぐ伸びる鉄道がある。その終着点は、魔族の言葉で言えば『人間牧場一番街』、人間の言葉で言えば『第一ファーム』だ。その処刑場に、アルティアとリアラがいる。
「おい、アド坊……。まさか今から、この壁を降りるってのか……?」
高高度の壁を見下ろし、がくがくと震えるダグラス。
「降りるよ、森の主」
『ウォォォォン――!(おなかすいた!)』
森の主がそう吠え、今度は壁を駆け降りる。
「ひああああああああああああっ!?」
ダグラスが絶叫する。不死だろ、アンタ。
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