第29話 失語の影人
窓から朝日が差し込む。
家の階段をどたどた昇る音が伝わり、エミールは布団を頭まで被った。
「こら、エミール! いつまで寝てんだい! 仕込みの時間だよ!」
部屋の扉を開けるや否や、母ちゃんが朝から元気な声を出す。
〝落ち葉のうたげ〟はランチも営業しているから、仕込みの時間は朝から始まる。店は母ちゃんと二人で切り盛りしており、エミールも肉を串に刺したり、調味料に漬け込んでおいたり、手伝うことは山ほどある。
「……ごめん、母ちゃん。今日はちょっと体調が悪くて」
エミールは布団の中の暗がりで言った。
「あんたが風邪を引くなんて、珍しいこともあるもんだね」
確かにここ数年、風邪を引いたことはなかった。
「夕方には元気になると思うから、そのとき手伝うよ」
「あら、そうかい? 無理はしないようにね」
母ちゃんの心配そうな声が、布団の壁を越えてエミールに刺さる。
「あんたは大事な息子なんだから」
「お母ちゃん、ありがとう。ごめん」
「なに謝ってんだい。変な子だね」
優しく扉が閉められ、静かに階段を降りる音が響く。
「母ちゃんごめん……!」
布団の中でぎゅっと目を閉じる。
ずっと隠してたけど――
「オレもう……! ダメみたい……!」
影が体中を侵食し、顔まで真っ黒に染まっていた。
こんな顔、母ちゃんに見せられなかった。
「アっ……! アアっ……!」
言葉が出てこない。
頭では言葉が思い浮かぶのに、それを口に出すことができない。
肝の底が冷え込んだ。
無意識に息が荒くなる。
エミールは布団を蹴飛ばして、ベッドから飛び起き、引き出しから手鏡を取り出した。鏡に写った自分は、輪郭のぼやけた、黒い影人だった。
「アアっ……! アアっ……!」
手から鏡を落とし、ぱりんと破片が飛び散る。
「アアアアアアっ!!」
どうしよう。どうしようどうしよう。
とうとう、影人になってしまった。
このままここにいると、店に客が入らなくなる。
母ちゃんに迷惑をかけてしまう。
出ていったほうがいいかな?
出ていったほうがいいよな、オレ……。
当たり前だ、店が潰れちゃう。
「アア……」
エミールは足音が鳴らないように階段を降りる。
頭の中は母ちゃんと店のことでいっぱいだった。
こっそり抜け出して、このまま消えれば、母ちゃんは悲しむだろうけど、店がなくなることはない。何より、こんな姿で母ちゃんに会えば、きっと嫌われる。橋の下に捨てられる。それ体験するのが、一番怖かった。
「こら、アンタ、影人!!」
一階に降りて、キッチンを迂回したつもりなのに、廊下で母ちゃんと鉢合わせた。
「どっから入ってきた、汚らしい!!」
母ちゃんが目を吊り上げて、鍋のお玉を振り回した。
母ちゃんのあんな顔、生まれて初めて見た。
「あたしの店を潰す気かい!? さっさと消えな!!」
「アっ……!! アっ……!!」
言葉にならない。言葉が出てこない。
頭の中では、「オレだよ!! エミールだよ!!」と叫んでいるのに、実際に口から出るのは、醜い呻き声だけだ。
「消えなったら消えな!!」
母ちゃんが、どんと足を踏み鳴らした。
エミールは走った。
呻き声をあげて、脇目も振らずホールを過ぎ、店の扉を飛び出た。
太陽の光が痛いほど眩しかった。
*
昼時。
エミールはこっそり店の様子を見にうかがう。
……オレがいなくても回ってるみたいだ。
でも、一人で捌くのは物凄く大変そうだった。客の前では元気な女将を演じているけど、ふとした瞬間に、疲れからかすっと真顔になるときがある。
母ちゃん、あんなにやつれてたっけ?
エミールはランチが終了するまで、店の裏口から中の様子をうかがっていた。
心配で心配でならなかった。
「ありがとうね。また来てちょうだい」
最後の客を見送ったあと、
「ふぅ……いつもこんなに大変だっけ?」
母ちゃんは額の汗を腕でぬぐった。
店の扉から、箱を抱えた若い兄ちゃんが入ってくる。
「〝うたげ〟さん、配達です。追加の食材、これでいいっすか?」
箱の中から、緑色の野菜がはみ出ている。
「はい、ありがとう」
配達の兄ちゃんは、キッチン横のいつものテーブルに箱を置いた
「繁盛してますね、相変わらず」
「おけげさまでね」
「あれ、この写真なんすか? 自分の写真なんか飾って」
配達の兄ちゃんが、カウンターに置かれてある写真立てを手に取った。
「えっ? あたしこんなの飾ってたかしら?」
「…………!!」
思わずエミールは、廊下の陰からホールへ入る。
写真を見て、言葉を失う。
……違う。
写真には、オレと母ちゃんの二人が写ってたはずだ。
なんでオレの姿が写ってない。
オレの存在が消えてる……?
「やぁねえ、恥ずかしいわ」
母ちゃんはそう言って、写真をゴミ箱へ捨てる。
「アっ……」
テーブルの端にしゃがみ込んで、母ちゃんの顔を盗み見る。
「どうしたのかしら、見に覚えのないものばかり……」
そう言って母ちゃんは、キッチンの中を見渡した。
「なんかね、変なのよ。厨房にね、足の踏み台があったりね――」
それはオレが食器を洗うときに使ってたものだ。
「子供用のエプロンがあったり――」
それはオレが仕込みをするときにつけてたやつだ。
「身に覚えのないものがたくさん」
「それは変ですね」
「そう変なの。変なんだけど、捨てなきゃってのは覚えてるの」
「疲れてるんじゃないっすか?」
配達の兄ちゃんが、冗談っぽく言って笑った。
「そう、かもね。最近、忘れっぽくなってきたし」
エプロンまで、ゴミ箱に捨てた。
ゴミ箱に入る衣擦れの音が、耳にこびりついて離れない。
「アっ……アっ……」
お母ちゃん!! 忘れちゃったの、オレを!!
「そろそろ一人で切り盛りは大変じゃないっすか?」
配達の兄ちゃんが、わかったふうに言った。
「そうねえ。一人は限界かもね。誰か雇おうかしらね」
「アアっ……!!」
オレがいなくなってる……!!
どうしようもなく居たたまれなくなり、エミールは店から逃げ出した。
裏口を飛び出ると、目の前に影人が立っていた。
息が、止まった。
……お父、ちゃん?
「アっ……! アっ……!」
エミールは崩れ落ちた。
なんでこんな大事なこと忘れてたんだろう。
あの写真だって、二人の写真じゃない。
本当は、お父ちゃんと合わせて三人の写真だったんだ。
「アアア! アアア!」
お父ちゃんに抱きしめられる。
そうか、お父ちゃんはオレをずっと守ってくれてたんだ。オレに忘れ去られても、存在が消えたとしても、オレを影から守ってくれてたんだ。
なのにオレは、オレは……!!
言葉にならない。
「アアアアっ!」
オレの言葉を聞いて!
「アアアアっ!!」
言葉になって!
「アアアアアっ!!」
オレと父ちゃんはここにいる!!
「アアアアアアアアア!!」
お母ちゃん!!!
オレたちはここにいるよ!!!
*
「これより、死刑を執行する」
王都スカサハの大広場に、重々しく響き渡る声。
磔にされたアドが、眼下でわらわらと蠢く魔族たちを見下ろした。
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