第20話 閃き
「アドさん、あなた――影を倒せるの……?」
アルティアの声が震えていた。
人生で初めて、影を倒す人間に出会ったのだろう。
生まれたときから魔族に管理され、理不尽を受け入れるしかなかった家畜が、影を圧倒する人間がこの世にいるなんて思ってもみなかったはずだ。
「フフフフ。油断した」
「影……!!」
アルティアが恐怖で蒼白になった。
魔素の残滓から、影が寄り集まり、体躯を再生させたのだ。
とは言っても、本来の姿より小さく、魔力量も半分にも満たない。万全の状態でもアドに敵わなかったのだから、この姿で敵う道理もない。
なのにアルティアは、
「敵うわけがない、敵うわけがないんです……」
イヤイヤと首を振り、喉を引きつらせていた。
「キャッ!! アルティア様!?」
あろうことかアルティアは、リアラの背後に回り、その腕を捻じりあげてしまった。
「抵抗はおやめなさい!」
「放して……ください……」
リアラの顔が、痛みで歪む。唇を噛み締め、「どうして」と顔が言う。
「あなたも見たでしょう、リアラ。やはり影には何も通用しない。この状況が証拠です。人間は、影には勝てないのです!」
その間にも、影の数がぽつぽつと増えていく。
「フフフフ。聡明な姫様だ……我々にその娘を」
「や、やです! 放して!」
リアラの両手首が、長大な影の手に掴まれ、宙吊りにされる。
「いいですか。この子に手を出したら、わたくしは自害します。丁重に扱いなさい」
「承知している」
「であれば、わたくしは影に従順を示します」
「アルティア様、どうして……!」
シャドウハンターに拘束されたまま、リアラが泣き出してしまいそうな顔で問う。
「わたくしを奪ってどうするの。ファームから出ても、影の目はどこまでも追いかけてくるわよ。わたくしの居場所は筒抜け、この腕輪がある限り……!」
家畜の証である、希望ポイントの腕輪を突き出す。
「自由なんて、どこにもない……!!」
涙で滲むアルティアの瞳は、見る者をぞっとさせるほど、空虚であった。
「それにね、リアラ、もうダメなの。もう手遅れなの」
その声はあまりに脆く、今にもひび割れてしまいそうだ。
「わたくしがこの国から去ると、ファームの人間は皆殺しにされるの」
「え……?」
「クロノスはもう、ここから逃げられないのよ……!!」
リアラから、表情が抜け落ちた。
「アド……!」
シャドウハンターの腕が、ウィンターの腰に絡まる。
アドは何の抵抗も見せない。
「今この姫を奪っても、メリットがない」
リアラの目標は、アルティアの奪還。
しかし、ファームの全国民の命と引き換えにアルティアを連れ出したとして、本当に目標達成と言えるのか。それでリアラとアルティアは幸せになれるのか。
そんなはずがなかった。
「くっ……!」
ウィンターの細い腕が、影によってぎちぎちと拘束される。
「おそらく、あなたが見たという三日後のファームは、わたくしが馬鹿な真似をしたからなのでしょうね……。わたくしが自由を夢見て、ファームを抜け出そうとしたから、みんな殺されてしまったのね」
知らず知らずのうちに、アルティアは諦めてしまっていた。
それを後押ししたのは、紛れもなく、リアラだ。
「わたくしはね、リアラ。民を守る責務があるの」
虚ろな瞳の中にも、そこにだけ強い意志が感じられる。
「わたくしは、ここに残ります。それですべてが収まります」
「……っ」
リアラの目から、ぽろぽろと涙の粒が零れ落ちた。
「それではアルティア様が、報われないじゃないですか……!」
目尻から頬を伝い、顎の下で雫となる。
「そんなの……あんまりじゃないですか……!」
子供のように泣きじゃくるリアラに向かって、アルティアは陽だまりみたいに優しく微笑んだ。
「わたくしはね、あなたが自由でいてくれればそれでいいの。自由に生きて、リアラ。それだけで十分、報われるわ」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
リアラが俯き、細い髪が垂れる。
ぼたぼたと足元に、涙の跡を作る。
「どうしてリアラが謝るのよ」
「だって……ごめんなさい……」
それでもリアラは謝り続けた。
「リアラは悪くないもの。これはね、仕方のないことなの」
「アルティア様だって、なにも悪くないじゃないですかぁ……!!」
「ただ、生まれてきた時代が悪かった。運が悪かった。それだけの話」
「でも……! でも……!」
「助けにきてくれてありがとう、リアラ。すっごく嬉しかった。わたくしは今日という日を一生忘れない」
――ありがとう。
それからアルティアは、ひしめき揺れる影たちに向き直った。
「影の皆様。この者たちを丁重に拘束してください」
「承知した」
最初に拘束されたのはリアラだった。次にウィンター。最後にアド。
列車の床に膝をつけさせられ、縄のような細い影で両手を縛られる。圧迫される感じも、食い込む感じも、縄でやられる感覚とまったく同じだ。
座席のほうから、コンコン、と奇妙な音がし、反射的に振り返った。
走行中の列車の外から、車窓を叩く者がいる
車窓の外でニィと笑うのは、影のお面だった。
「だが、お前はダメだぁ!!」
凄まじい音が破裂した。
巨大な影の腕が車窓を突き破り、津波のようにアドの全身に押し寄せる。瞬く間に呑み込まれたアドは、車両の反対側の壁に打ちつけられ、息を詰まらせた。
「人間の分際で、舐めた口をきいたぁ!!」
何体もの影がアドを囲み、代わる代わる殴ってくる。殴られた部位がじんじんと熱く腫れ、またその上から殴られ、不快な灼熱が上塗りされていく。
「アドくん! アドくん!」
「アド……!」
「崇高なる影を侮辱したぁ!!」
腹を踏み抜かれ、臓腑の潰れる音がした。
アドの体がくの字に折れ曲がり、肺が苦しいと思った瞬間、たまらず口から血反吐をぶちまけた。
「おやめなさい! その方も、丁重に扱いなさい!」
「…………」
ぎょろり、と一斉に影が向く。
「わたくしは逃げも隠れもしません!」
その視線を一身に浴びても、アルティアは怖気づかなかった。
「……姫に免じて許してやろう。だが、反逆者として捕らえる」
影の一体が言った。
「いいでしょう。ですが、一度魔王様と話し合いの場を設けてください」
「それは魔王様がお決めになることだ」
「アドくん!! アドくん!! んーっ!! んんーっ!」
手足に影を絡みつかせるリアラが、必死に駆け寄ってこようとする。だが粘り気のある影に顔まで犯され、そのまま床に押さえつけられる。
「……アド、起きて。魔力が切れそう」
ウィンターの声が遠い。
血が足りてないのか、頭がぼんやりとする。
視界が、真っ暗だ。
「もうこの方たちに抵抗の意思はありません。これ以上、この方たちに危害を加えることは、このアルティア・クロノスが許しません」
遠ざかる意識の中で、アルティアの声が聞こえる。
「リアラ、安心してください。わたくしが必ず、皆さんの命を守りますから」
アドは床に寝転がったまま笑った。
「ほんと馬鹿だなぁ、アンタ」
目はもう見えていない。
だが、アルティアの息を呑む光景が目に浮かぶようだった。
「時代が悪かった? 運が悪かった? 違うでしょ」
何を勘違いしているのやら。
「アルティアは悪くない? リアラは悪くない?」
アドが唇の端を吊り上げる。
「そうだよ、わかってんじゃん。悪いのは全部――」
溺れる意識の中で、アドは笑って言った。
「影の魔王だろ」
「……!!」
「全部そいつが悪いんだ。なら、そいつをぶっ倒せばいいんだよ」
「そ、そんなこと――」
「できる」
「……アドさん、口を慎んで。これ以上、わたくしを困らせないで」
「アンタを奪う方法も、この病を治す方法も、全部思いついたんだ」
泥に沈むような微睡みに襲われながらも、アドは固く踏ん張り、ゆっくりと立ち上がっていく。
「まだ起き上がるか。死ね!」
「やめて!!」
女の悲鳴、鈍い衝撃、不思議な音――
その音はなぜだか体の中から聞こえた。
骨の砕ける音だった。
――――…………
「聖女様がお帰りになられた!」
300年前。
大歓声に包まれるリューンガルド王国。
「聖女様万歳! 聖女様万歳!」
「聖女様~! プリメラ様~!」
席に座り足をぶらぶらと浮かせるアドは、外の様子が気になってうずうずした。ぴょんと跳ねて席から立ち上がり、背伸びをして馬車の窓を開け放った。
途端に王都の大歓声が飛び込んでくる。
びりびりと痺れる肌。
圧倒されて仰け反るアドの瞳は、街頭に雪崩れ込む人の壁を捉えて、うわあっと興奮気味に輝いた。目の覚めるような青空の下にわらわらと民衆が蠢き、リューンガルド王国の旗を手に振りかざしている。
「おかあさま、お出迎えがいっぱいです!」
十歳のアドは誇らしい気持ちでいっぱいだった。
「ええ、皆が待っていますね」
後ろの座席を振り返ると、お母様が暖かく微笑んだ。
まるで初春の雪を溶かす陽の光みたいだった。
「さあおいで、アド。成果を報告に行きましょう」
路面を転がる車輪の揺れが止まった。
馬車の扉が開かれて、陽の光が差し込んでくる。逆光に目が慣れるのに時間がかかった。先に馬車を降りたお母様に小走りでついていき、その背中からひょこりと顔を出すと、王都の大広場で整列を作る銀色の兵士が見えた。
「プリメラさまっ! これをどうぞっ!」
アドよりも年下の可愛らしい女の子が、お母様の膝下まで駆け寄ってくる。
差し出された手には、白と桃が淡く混ざったような、ごつごつした骨みたいなものが乗っかっていた。
「まあ綺麗。ありがとう」
しゃがんで目線を合わせたお母様が、嬉しそうに目を細めて受け取った。
「あのねあのねっ! 大地をじょーかしてくれて、ありがとうっ!」
「ふふ、どういたしまして」
お母様は微笑み、少女の頭を優しくなでる。
「これは何? 白い骨に見えますけど」
少女と別れ、隊列を作る兵のもとへ歩く道すがら、アドがそれとなく尋ねた。
「サンゴ礁の欠片ですね」
「砂浜に落ちてるやつ? そんなものを渡すなんて、失礼ですね」
ガラクタだ、とアドは思った。
「そんなことないですよ、アド。あの子は私を労いたくて、どうすれば感謝が伝わるか必死で考えて、こうして形として贈り物をくれたのです。私は、その気持ちがこの上なく嬉しいのです」
春の風が吹き、アドの体を通り抜ける。
「アド、あなたもありがとうをちゃんと伝えられる男の子になりなさい。みんながありがとうの気持ちを持てば、世界は思いやりの心で満たされます」
その考えはとても素敵だと思った。
「わかりました、おかあさま!」
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