愛しいひと
赤根好古
第1話
田上研三の趣味は、読書である。いつも行く書店に偶然、司馬遼太郎の『蝴蝶の夢』の全5巻のうちの4巻が、初版で売っていたので、とりあえず買ってみた。
今でもそうだが、この頃の司馬遼太郎の小説は、とても人気があり、ましてや初版はすぐ売り切れてしまう。そして研三は
(あたりは付いている。あの書店には、必ずある)
と、たまに行く街の商店街の中の書店へ、自転車で10分、急いで走らせて行くと
(やっぱりあった)
小さいこの書店には、『蝴蝶の夢』が5巻共初版で売っていた。しかも店番をしているひとが、いつものオバサンではなく娘さんなのか、とても清楚で可愛らしく、瞳は大きく
唇は小さく、まさしく研三好みだ。
以前、小学生だった研三を、この書店のオバサンは年齢が低いと思ったからか、愛想が悪かったことを、子供心に覚えている。
18歳の研三にとって、『蝴蝶の夢』5巻の中の1巻を買うだけなのに、娘さんはとても愛想が良く、余計に研三に好印象を与えた。
研三がこの書店で、1巻だけ買ったことにより、ここで『蝴蝶の夢』4巻を見つけた愛好家は、研三同様に他の書店を探すことになる。あと1巻を。
その娘さんに、また会いたいと、研三は仕事が休みの度にその書店の前を通るが、愛想の悪いオバサンばかりが店番をしている。
そしてその後、娘さんはまるっきり姿を見せなくなった。それでも研三は、読書を継続している。
それから10年経つと、この書店のある商店街も、どんどんシャッター通りになってゆき、商店街とは名ばかりで、虫食いの空き地や、コインパーキングに変わってしまっている。まるで、大人の歯の虫歯を1本1本抜いていくかのよう。研三が、たまに自転車で通る度に様変わりしているのだ。
その書店も勿論、影響を受けているのだろう、たださえ客の少ない書店なのだから。研三ももう30歳まであとわずかの年齢になったのだが、まだ彼女もいなくて、書店の女性を密かに思っている。
そんな時、用事があって書店の前を偶然、通るとなんとその女性が、店番をしているではないか。研三はいてもたってもたまらず、書店に入り、さりげなく女性をチラホラと見ながら、もうすでに読んでしまった『鬼平犯科帖』の文庫本1巻を買ってしまった。
(変わってない。10年前のままだ。書店もこのひとも)
すると、店番の女性が、笑顔で
「ありがとうございます」
と。瞳は大きく、唇は小さく、そしてハスキーな声。
(覚えてる。声もあの頃のままだ)
研三は、その日から三日に空けず書店へ通い、すでに読んでしまった『鬼平犯科帖 』の文庫本を1巻ずつ20巻、買ってしまった。ほぼ3日ずつ2ヶ月通い続けたことに。するとさすがに女性も気付いたのか、研三に声を掛けてくれた。
「いつも、ありがとうございます」
と。その憧れのひとに声を掛けられたのが嬉しく、研三は知らず知らずのうちに、鼻の下を人差し指でさすっている。
(ここでしゃべらないと、永遠に話しが出来ないぞ)
と、研三は勇気を出して
「はい。あの、その。お、思い切って、い、言います。僕は高校の時から、あなたにずっと憧れてました。は、初めてしゃべることが出来て、こんなに嬉しいことはありません」
まさしく棒読み。
「えっ、そんなに長いこと、私のことを」
「は、はい」
「嬉しいわ。じゃあ、私が10年ほどいなかったことも、知ってたの」
「は、はい」
「実は私、結婚してたんだけど、別れたの。それでこの店をまた、手伝いし出したの。何がをしてないと、忘れられないから」
「それじゃあ、まだ前の旦那さんを」
「そんなんじゃあないの。いちばん私の大切な時間だった、その時間を返してほしいと思って」
(ここは絶対に引いたらあかんぞ、研三)
と、研三は勇気を振るい起こし、書店の中央の掛け時計を見ながら
「そ、その時間をぼ、僕が取り返してあげます」
「私のことを、何も知らないのに。いいの」
「ぼ、僕の力で。いや、僕の愛で」
「嬉しいわ」
研三は言ってはみたものの、いきなりの急接近に戸惑ってしまった。
(夢やないやろか)
と。研三が自分の頬をつねると
(い、痛っ。ゆ、夢やない)
研三のしぐさを見ていた、その女性は
「何をしてるんですか」
「は、はい」
と、頬をひねっていた手を急いで降ろして
「ゆ、夢じゃないかと思って、確認をしたんです」
その女性は、ニコッとして
「面白い方ね。あの、私はあなたのことを全く知らないし、貴方も私の名前からして、全然知らないでしょ」
「はい」
「まずは、お話しからしましょう」
「はい?」
研三は、知らず知らず鼻の下を人差し指でさすっている。女性は、奥から丸い椅子を2つ持ってきて、レジの横に2つ並べ
「ちょっと待っててね」
と、女性はまた奥へ行った。そのわずかな間だが研三は
(もし、お客さんが来たらどうしょう)
と、思っていたら、女性はお盆にコーヒーの入った白いマグカップを2つ持ってきて
「コーヒーでも飲みながら、お話ししましょう」
「は、はい。けど、書店は」
「ほとんどお客さんは来ないわ。最近、主なお客さんは、貴方くらい」
「そうなんですか」
「だから、貴方にものすごく興味があったの。どういうひとだろうって」
「こ、光栄です」
女性がコーヒーを飲む時の口元が、おちょぼ口で、研三にとってとてもセクシーに見えた。丸椅子に座っていた研三は、いきなり立ち上がって
「田上研三と申します。28歳、独身です。趣味は読書で、鉄工所に勤めていて、汗まみれ油まみれの日々です」
女性は、頬笑みながら
「まあ座って」
「は、はい」
研三が丸椅子に座り直すと
「私は石坂恵美子、40歳。大卒で会社勤めをしながら、ここの書店である私の実家を手伝ってたの。その時に田上さんは、この店に来てくれたのね。10年前に会社の上司に見初められて結婚したんだけど、上手くいかなくて別れたの。幸い、子供がいなかったのが良かったんだけど。子供がいたら、別れていなかったかも」
その横顔は、哀愁に満ちているように、研三にはみえた。
「父はもう死んでしまって、母が老人ホームに」
「そうなんですか」
研三は、手に持った白いマグカップを見ながら
(ぼ、僕の子供を)
と、首を伸ばしはしたが
(とは、言えんわなぁ)
恵美子が
「私と田上さんとは、ちょうど一回り年齢が違うのよ。二人は無かった縁なのよ」
「そ、そんな事ないです。僕にどっては、永遠に憧れのひとなんてす。恵美子さんは」
研三は、知らず知らずのうちに立ち上がっていた。
「そんなに」
「ええ」
「だから、だから自分を卑下しないでください」
恵美子は、研三をじっと見つめると、研三が「だ、だから僕と付き合ってもらえませんか」
(言ってしまった。研三、えらいぞ。言えたやないか、見直したぞ)
大事な告白をした研三は、真冬なのに汗まみれで、顔をハンカチでぬぐっていると
「わかったわ。ありがとう、お互い二人のことをもっと知って、一歩ずつ進展したいわね」
「は、はい」
その時、書店の掛け時計が8時を知らせた。
「あっ、もうこんな時間」
「あっ、あのう、食事でもしませんか」
「私と」
「勿論です」
「嬉しいわ」
「も、もっと恵美子さんのことを知りたいし、僕のことを知ってもらいたいから」
「田上さんは、アルコールは」
「はい、今いただいているコーヒーも、ほんとうは恵美子さんと知り合えたので、ビールでもと思ったくらいです」
「じゃあ、店を閉めて一杯行きましょうか」
「はい、喜んで」
研三は、知らず知らずのうちに、鼻の下を人差し指でさすっている。
二人で、書店のシャッターを閉めながら研三が
「レジの確認は、いいんですか」
「大丈夫。今日のお客さんは、貴方だけだから。文庫本一冊720円」
(へぇー、僕の文庫本代だけ)
恵美子は、両手を抱き合わせ
「寒いわね」
「田上さん、何か、食べたいものある?」
「いえ、恵美子さんにお任せします。僕は、恵美子さんと二人でいることが、いちばんのご馳走だから」
「何か、今から私を食べに行くみたいね」
「えー」
研三は、心の中を恵美子にズバリ読まれてしまい、ドキッと。
「そ、そんな」
「冗談よ。じゃあ、隣りの居酒屋でいい?」
「は、ハイ」
(あー、恵美子さんは鋭い)
研三は、最初は恵美子と口を聞けたことがいちばんだったが、すぐに次の段階へと。つまり恵美子のプロポーションへと。先に行く恵美子の後ろ姿を見ながら
(いいお尻してそう。けど、暗いからよくわからん)
と。街灯がわずかにあるだけで、暗い。研三と恵美子は、書店の隣りの居酒屋へ。と言っても、あいだには駐車場があり、10m以上は歩かねばならない。
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