「それで助かると思ったんだ」
タカヒロに案内された場所を見あげて思わず口があいてしまった。
饐えた熱気と鉄錆の匂いが沈殿する、古ぼけたショッピングモールだったからだ。
中央に巨大なエスカレーターを構える二階建ての吹き抜けで、ちょうどエスカレーターの真上の天井が腐って抜け落ち、水たまりの上に赤銅色の空を映している。
二階は吹き抜けを囲うように通路があり、エスカレーターの真向かいには簡易ステージが設置されていた。
おそらく営業時には吹き抜けの通路からコンサートなどを見ることができたのだろう。
ステージ上には季節外れのクリスマスツリーが置き去りにされていて、天井の大穴から落ちる西日がスポットライトのようにツリーを照らしていた。
タカヒロがエスカレーターとステージの間で車椅子を止めたので恐る恐る振り返った。
「タカヒロさん、ここ、何……?」
「ここは妹と最後にでかけた場所だったんだ」
ぽつりと話しだしたタカヒロの声は冷たかった。
「十六歳の誕生日にあいつが新しいスニーカーが欲しいって言ったから、高校の入学祝いもかねて買いに来たんだ。このショッピングモールはかなり老朽化していてその年の大晦日で閉店が決まっていたから、大安売りしていたっていうのも決め手だった。ラムネ色のスニーカーを買って、妹はご機嫌だった」
ブゥンという重低音が背中側から聞こえた。
手元のレバーを見るとバッテリー残量を示すランプが消えている。
まさかと思って振り返ると、タカヒロが黒い箱状のものを持って笑っていた。
バッテリーだった。
「あっ……」
伸ばした手はひょいっと躱され、タカヒロは持ちあげた勢いのままに地面へと叩きつけた。
丈夫なはずのバッテリーが割れるほどの衝撃を与えてもまだ物足りないのか、踵で思いっきり踏みつけると中身が飛びだして見るも無惨な残骸になった。
「あの日も妹は僕があげたスニーカーを履いて学校に行って、その帰り道でトラックに撥ねられたんだ。左足は靴ごとトラックの下敷きになって、綺麗だったラムネ色が汚い赤に変わったんだよ。もう足は使い物にならないどころか切り落とさないと死ぬっていう状況で、一番初めに駆けつけた僕が切断の同意書にサインした」
がらんどうになったコンクリート打ちっぱなしの空間にタカヒロの声が響いていた。
「それで助かると思ったんだ。なのに妹はっ、飛び、降りて」
なんだかつい最近も似たような話を聞いた気がする。
高校二年生でトラックに撥ねられ左足を切断し、自らその命を絶った少女――白黒写真の雑誌記事がフラッシュバックした。
「ミユキの……お兄さん、なの?」
肯定するようににこりと笑った顔の中で、斜陽を照り返す双眸だけが幼虫のようにぐにゃりと蠢いてぞっとした。
おかしい、明らかに。
「深雪を知ってるなら話が早いね」
言いながらゆっくりと車椅子の前まで歩いてきて片膝をつくと、タカヒロの手がぬるっとワンピースの裾から侵入してきて左足の断端に触れた。
「やっ」
「あの野郎、僕から深雪を奪ったくせに代替品まで独り占めするなんて。間違ってると思わない?」
誰のことを言っているのかはわかったが、その内容は宇宙人が宇宙語を話しているかのように理解ができなかった。
しかしべたべたと肌をさわる汗ばんだ感触がだんだんと這いあがってきて下着に触れた瞬間、ぷつんと何かの糸が切れた。
背もたれの間に挟んでいた鞄に手を突っ込んで指に触れたものを引き抜いた。
タカヒロの頬に銀色の一閃が走り、わずかなタイムラグがあってから赤い血の筋が浮きあがる。
「あー……?」
タカヒロがマリの手に握られているカッターナイフを認識してどこかとぼけた声を漏らす。
片手をスカートの中から抜き取って自分の頬に触れ――一瞬の隙に思いっきり突き飛ばして車椅子を飛びだした。
無我夢中で床を這い停止しているエレベーターをよじ登った。
砕けたアスファルトやガラス片がむきだしの断端にざくざくと刺さる。
頭の片隅で〝ばい菌が入ったらさらに短く切り取って〟という台詞が再生されたが今はとにかく逃げなければと必死だった。
「何? 深雪はお兄ちゃんと隠れ鬼がしたいの?」
呑気な声がゆっくりと背後から追ってくる。
いつの間にか呼称が〝マリちゃん〟ではなく〝ミユキ〟に変わっていることにぞっとした。
隠れ鬼?
そんなわけあるかと叫ぼうとしたが息があがって声が詰まった。
右の足首を掴まれて引っ張られた。
エスカレーターを数段ずり落ちて、滑った膝の軌跡が赤い血糊で描かれる。
「はなせっ」
断端をずたずたに裂きながらあらん限りの力で右足をばたつかせると運良く一撃がタカヒロの腹に入って向こうがうずくまった。
力が弱まった隙に振り切ってまた登る。
エスカレーターを登り切ると目についたテナントの一つに逃げ込んだ。
いくつか並んでいるワゴンの影に回り込んで小さく身体を畳む。
「深雪ー? 蹴ったことは怒らないからでておいで。お兄ちゃんと遊ぼう」
かつーん、かつーん……。
靴底が地べたを蹴る音が空間に響いて距離感を狂わせる。
近づいているような、遠ざかっているような。
タカヒロがどこにいるのかわからず、手で口を押さえつけて息を殺す。
たすけてっ、夏目さん――……っ。
無意識のうちに名前を呼んでいた。
心臓の音がばくばくとうるさく、音が耳に入ってこない。
足音が聞こえなくなっていることに気づいて顔をあげた。
諦めていなくなった?――一瞬の油断が命運をわけた。
「どーんなーに上手にかっくれってもー」
調子の外れた歌が至近距離で聞こえた。
「真っ赤な赤毛が見えてるよ」
吐息が耳の先に触れて血の気が引いた。
脊髄反射で振り向いてカッターナイフを横に薙いだが今度は手首を掴まれてしまい、翻ったマリの腹部にとんがった靴の先がめり込んだ。
「かはっ」
タカヒロの足先がぐりぐりとねじ込まれて仰向けになったマリの腹を踏みにじる。
脛にすがりついて切りつけようとしたがじわじわと力が抜けていって、最後にはカッターナイフが手から滑り落ちて床を打った。
タカヒロがマリを踏みつけたまま拾いあげ、
「このワンピースは深雪によく似合ってるから切りたくなかったんだけど仕方ないね」
天井の大穴から差す赤錆色の夕日が刃面を怪しく光らせた。
三白眼に見開かれた眼球がその赤を反射して、眼窩に飼っている幼虫が出血したみたいに赤くなっている。
そこには確かにマリが映っていたが、タカヒロの脳はその映像を正しく描出できていない。
「もうお兄ちゃんを置いていったらだめだよ、深雪」
「ミユキ、ミユキってうるさい! わたしはミユキなんかじゃないっ」
タカヒロがマリに馬乗りになった。
差し込むような痛みが走りお腹を抱えて身体を折るが、すぐに両手が引き剥がされて頭上で一纏めに押さえ込まれた。
男の人の大きい手が卑怯だった。
片手で容易にマリの両手首を固定してしまう。
「どうしちゃったんだよ、深雪。お前おかしいぞ」
「おかしいのはどっちだ! そもそも妹に欲情すんなこのへんたいっ」
タカヒロの目から光が消えた。
口の中でもごもごと「深雪はそんなこと言わないよ」と吐き捨てるとカッターナイフを振りあげる。
鋭利な切っ先が迫ってきたがマリは意地でも視線を逸らさなかった。
その刃が顔を切るなら指を嚙みちぎってやるし、胸を切るなら手首の肉を抉ってやる。
ひゅんっ、という音は自分のわずか手前で鳴った。
タカヒロとマリの間に墨色の髪が割って入る。
「痛って……」
マリに覆いかぶさった夏目が呻いた。
左手でカッターナイフの刃面を握りしめ、右手はマリの肩を抱いている。
状況が飲みこめず、マリもタカヒロも目を丸くする。
ぽたりと赤い雫が夏目の左肘からこぼれてミントグリーンのドレスに染みを作った。
目線をあげていくとカッターナイフを握りしめている手から赤い液体がこぼれて腕を伝い、肘に溜まってぱたぱたと落ちている。
一度決壊すると堰を切ったように溢れる速度が加速して、赤い染みが急速にミントグリーンを駆逐していく。
「夏目、さん……っ」
「お、まえはっ、また僕から深雪を奪うのかあっ――!」
タカヒロがカッターナイフを押し込むとぶちぶちっと肉を断つ音が聞こえた。
夏目は構わず握った手を引き寄せて、近づいてきたタカヒロの下っ腹に蹴りを叩き込む。
ダンスで鍛えた脚力のおかげかタカヒロは大きく吹っ飛ばされたが、向こうも意地になってカッターを離さなかった。
吹き飛び様に夏目の手の上で刃面が滑った。
ざっくりと手のひらを切り裂いて床一面が真っ赤に染まる。
「逃げるぞ」
夏目がマリを前抱きにして駆けだした。
腹を抱えたタカヒロの、「夏目、慧――――っ!」という絶叫が背中で聞こえた。
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