第六章 Shall We Dance?

「じゃあさ、ちょっとデートしない?」

 店内をゆったりと流れるジャズを聞いているうちに右足が勝手にステップを踏んでいた。

 四拍子だけれど単調ではなく波のようにうねる感じ。

 スローフォックストロットに使えそうだなと考えていたことに気づいてむすっとなった。

 別にそこまでダンス狂いではない。


「いいでしょ、この曲。フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン。今日のBGMは僕セレクトだよ」


 背後から声がかかったが振り返らなかった。

 真正面に設置された鏡で目を合わせたほうが早い。

 タカヒロが鏡越しに営業スマイルを浮かべながら闘牛士のようにケープをはためかせたので促されるまま手を通す。

 柑橘系の香水に混じって化学薬品の匂いがした。

 指先は染料で茶色くなっている。

 夏目とは真逆だなと考えてまたむすっとした。

 別にそこまで気にしていない。


「あとちょっとだけ待ってて。向こう仕上げてくるから」


 と言って立ち去ると、入れ替わるようにやってきた女性が「アイスティーと雑誌ですぅ」と数冊の本とカップを置いた。

 猫型のカップは縁に耳と尻尾が生えていて、お洒落すぎてどこから飲んでいいのかわからない。

 雑誌に目を移せば同世代のきらきらした女子がきらきらした格好をしてゴキゲンにポーズを取っていたので目がちかちかした。


(やっぱり苦手だ、美容室は……)


 八月十八日、快晴。

 納涼祭が終わって一日後、マリはバイト代を握りしめてタカヒロが働く美容室に来ていた。


 日陰を生きているマリにとって美容室は敵陣真っ只中で、羞恥心といたたまれなさから紅茶をずびずびとすする(そのたびに猫の耳が頬に突き刺さって痛い)。

 そんな苦手な場所へ何故わざわざ来たかといえば、タカヒロと以前約束したからというのももちろんあったが、今日に限ってはそれなりに前向きな理由があった。


 納涼祭で撮られたマリがあまりにも子どもっぽかったので。

 背中のぱっくりと開いたドレスを着ているくせに、それを着ているマリがあまりにも乳臭かった。

 見おろした自分のボディラインはもう変えようがなかったが、マリだって高校生なのだから髪くらいならもう少し大人っぽくできるはずだ。

 現に菜々子は色っぽかったし。


 ……と、一晩中考えた結果、割れたスマートフォンの画面を無理くり操作して美容院の予約を取りつけたというわけだ。


 気づけば紅茶を全部飲み干してしまい、タカヒロはまだかなと鏡越しに店内を見回してそこに映る自分と目があった。

 眉間に深い皺を浮かべた仏頂面。

 夏目みたいだ。


(また夏目さんのこと考えてる)


 まあ昨日の今日だし、我ながらかわいそうなくらい他に話題のない夏休みを過ごしている。

 呆れつつも鏡に映る時計を見やった。

 午後一時過ぎ。

 スマートフォン修理で午前中を丸々潰しこの時間になっていた。

 このあとクリーニングにだしたドレスを回収して夏目に返しに行くつもり。


「遅くなってごめん! 今日はどんな感じにする?」


 キャスターつきの椅子を滑らせてタカヒロが登場した。

 爽やかな笑顔がマリの苦手な美容師特有のものだったが、それでも何故かこの人にだけは拒否反応が薄い。


「タカヒロさんのお任せでいいです」

「えっ、珍しい。いつも『痛んでるところ適当に切ってください』しか言わないのに」

「……ちょっと、心境の変化っていうか」

「えー、すごく訊きたいなそれ!」


 少し高めのテンションでタカヒロが距離を詰めてきた。

 こういうのは苦手だが、はぐらかすと余計に食い下がってきて地獄が長引くのを知っている。

 マリは仕方なく「ダンスを始めて」とぼそっと告げた。


「ダンス? 車椅子ダンスみたいなやつ?」

「いえそれが、ダンス用の義足のテスターになってくれっていうバイトがあって。流れで……」


 一時いつときタカヒロがきょとんとした顔をしたあと(無理もない。マリでもそんな顔になる)、


「へーいいじゃん。新しいチャレンジでイメチェンしてみようってことね」


 少し違うが一から説明するのも面倒くさいので「もういいですそれで」諦め半分に答えるとタカヒロが腰のポーチから櫛を引き抜いて悪い顔で笑った。


「本当に僕の好きなようにやっていいんだよね? 一度でいいからマリちゃんにやってもらいたかった髪型があってさ」

「えっと、たとえば?」


 目が爛々としている。

 あまりの気迫にちょっと不安になった。


「マリちゃんは絶対オン眉が似合うし、色も染めちゃおうよ。ちょっと赤っぽい感じのアッシュにしてさ」

「いや校則っ」

「今夏休みだし、マリちゃん不登校じゃん? 大丈夫、蛍光灯の下では落ち着いた色に見えるよう調整するから。カラー代もカットモデルってことでただでいいよ」


 痛いところを突かれたうえにそこまで言われると断る理由がない。

 「じゃあそれで」と答えるとタカヒロが意気揚々と立ちあがった。


「じゃあまずはシャンプーだね。杖持ってくる」


 店内用の折りたたみ杖を車椅子の背面ポケットに入れてある。

 それを取りに向かったタカヒロが、ふと何かを思いついたように戻ってきて、


「ところでマリちゃん、明日ってあいてたりする?」

「えっと、あいてますけど」

「じゃあさ、ちょっとデートしない?」


 客に向かって信じられない言葉を吐いた。

 「えっ、」という言葉は流れででたがそれ以降が続かない。

 マリの戸惑い顔を見たタカヒロが取り繕うようにまくしたてた。


「いや、今のは言い方が悪かった。ちょっと買い物につきあって欲しくって」

「買い物?」

「実は僕の妹も足が不自由なんだけど、そうなる前はお洒落が好きな子でね。足が不自由でも好きなものを諦めて欲しくないから洋服をプレゼントしたいんだけど、どういうのなら車椅子生活でも無理なく着られるのかわからなくって」


 ああそういうことかと合点がいった。

 タカヒロがマリにやたらと親切な理由にも納得がいく。


(好きなものを諦めて欲しくない、ねえ……)


 その気持ちは、つい最近マリにも理解できるようになったところだったので無下にもできなかった。


「そういうことなら買い物つきあいますよ。ただしセンスはないので、そこはタカヒロさんが頑張ってください」

「うわーありがとう! 頑張るよ」


 ぱっと顔をほころばせると浮かれた足取りで車椅子のほうへと駆けていく。

 歳は十個くらい上のはずなのになんだかかわいく思えてきた。


(というか、さっきデートって)


 言葉のあやとは言えわずかに動揺して、すでに空っぽになった紅茶を無理矢理にすすった。

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