「そういう人間がっ、いっちばん嫌いなんだからっ」
音楽が止まった瞬間、会場全体が熱狂に沸いた。
スタンディングオベーション、鳴りやまない拍手喝采。
運営スタッフが慌てた様子で「いったん競技止めて!」「ご着席ください」と叫ぶけれど、観客はより一層燃えあがって惜しみのない歓声を――夏目とマリに向けている。
その光景がマリをひどく震えあがらせた。
全部、夏目がやってのけたのだ。
指一本まともに動かなかったマリを操って、この大歓声をたった一人で作りあげてしまった。
そう、まさにあの舌打ちを聞いた瞬間に、マリのダンスは終わっていた。
夏目がマリの手を強引に掴んだ途端、身体が勝手に
それは岩井製作所に向かったときとはまた違う感覚だった。
マリの意志なんてまったく無視して、身体が夏目に乗っ取られる。
自分では呼吸の仕方すら思いだせないのに、操り糸で吊られているように鈍重な身体が軽妙に動く。
うそ、なんで?――と思った刹那、今度は左回転を挟んで、そのまま前進させられた!?
(ちょっと待って。こんな
いつも通りならフェザーステップのあとはスリーステップ・フェザーステップと後退するステップを三連続で続けたあと、バックフェザーで前進に転じるはずだった。
それなのに身体が刻んだステップは、練習ですら一度も踊ったことのない
マリの構成は、単純に後退と前進を繰り返すだけだったはずなのに――今度は後退からの右回転!?
(また、知らない
一秒後に自分がどうなっているのかすら想像できない恐怖。
暗闇の中に一人取り残されたような心細さから思わず夏目を見あげると、タンゴのとき以上の冷徹な眼差しで進行方向を睨んでいた。
眼差しの一閃で周囲の人が道を譲り、中には転倒する人さえいた。
圧倒的なオーラが空間すらも支配している。
スイングをかけさせられたときだった。
義足の感覚が消失し、腰を落とした状態から踏ん張れなくなる。
膝折れだと理解するまでにコンマ数秒の間があった。
最も恐れていた出来事を目の当たりにして混乱が振りきれる。
もうだめだ、転んでしまう。
今日はマリにとって最初で最後の舞踏会で、他に及ぶものがない見事な踊りを披露するはずで、こんなはずでは、なかったのに――。
ふわりと身体が浮きあがる。
夏目の手が腰に回され、そのまま真円を描くようにくるくると回された。
遠心力で膝がはまると、何事もなかったように再びステップを踏まされる。
義足の冷たさを断端の皮膚で感じながらマリは奥歯を嚙みしめた。
喉に刺さっていた小骨がいつの間にか血流に乗って心臓に刺さり、どろりとした膿を穴から零す。
あっという間のはずの一分十五秒が長かった。
早く終われ、早く終われ、早く終われ――。
そう力の限り願ってしまうほど、夏目が恐ろしい、というよりも、気持ちが悪かった。
しかしその結果が、今目の前にある拍手喝采である。
当事者なのに一人だけ異空間に押し込まれたようにしっくりとせず立ち尽くしてしまったマリの手を、夏目が強引に引いてフロアから引きずりおろした。
すかさず槙島が走り寄ってくる。
「マリちゃん、大丈夫だった?」
と声をかけられるが呆然としてしまって声がでない。
それをどう受け取ったのか、槙島が夏目の肩を掴んで珍しく睨みつけた。
「なんでいきなり日本インターの規定
日本インター?
小首をかしげたマリに対して遅れてやってきた菜々子が、
「日本インターナショナルダンス選手権大会。国内外からトップクラスの選手が参加する、日本で最も権威と伝統のある国際大会のこと。あの大会の決勝では決まった
と、つっけんどんな解説をしている間にも夏目が槙島の手を振り払った。
「あれくらいやらないと挽回できないだろ」
「だからってマリちゃんには無理でしょ! 実際に膝折れ起こして」
「リフトしてごまかしたんだから喚くなよ。膝折れを知らない人間にはばれてないだろ」
「そういう問題じゃねぇだろっ」
胸ぐらにつかみかかりそうな勢いでキレている槙島を夏目が平然と見おろす。
今さらになって夏目のほうが少し背が高いことに気づいた。
「うまい人のリードっていうのはね、知らない
マリの汗を拭ってチークをさしなおしながら、菜々子が静かな声で言った。
「支配されている感覚、びっくりするでしょ。でも今日のはやりすぎ。あんなのはただのシャドー」
初めて視線をあげて菜々子を見た。
綺麗な顔に怒りと悲しみが半々に混ざったような複雑な表情を浮かべて。
「
悔しいが菜々子の言う通りだった。
あんなの、自分が踊ったって言えるのか。
言葉のナイフが深く心臓に突き刺さる。
そうとも知らずに視線に気づいた夏目が、
「でもたぶん、フルチェックだ」
悪びれた風もなく言った言葉が致命傷になった。
心臓からナイフをひっこ抜くと溜まっていた膿が溢れだしたが構うことなく垂れ流し、その切っ先を今度は夏目の喉元に突きつける。
「ヒーローにでもなったつもり?」
「は?」
「チャンピオンの俺なら、不憫な義足の子でも救ってあげられるって見せつけたかったの?」
世界の時間が止まったのかと思うほどの長い空白があった。
「なんだ急に。というか誰から聞いて」
きょとんとした顔が次第に目つきが悪くなり、順繰りに槙島と菜々子を睨みつけたので「今そんなのカンケーないじゃん!」とタオルを投げつけた。
顔にぶち当たったそれを夏目がうんざりした様子で跳ねのける。
「あのなあ、お前が何にキレてるかわかんねぇけど、少なくともそんなつもりは」
駄々っ子をあやすような口調だった。
まったく効いていないとでも言いたげな、余裕ぶった大人の対応。
六歳差ってそんなに大人か。
マリだってどちらかといえば大人なほうだ。
魔女が声を奪っているので言いたいこともろくすっぽ言えないまま、気持ちを飲みこんで穏便に生きてきた。
なのに今日に限っては、気に食わない夏目の態度が呪いすらも打ち破って鋭利な言葉が止まらない。
「嘘だ。チャンピオンであることを隠して近づいて、本番で見せつけてきゃあきゃあ言われたかっただけなんだろっ。憐れな人間に手ずから施しを与える王様のつもり? 自分に酔ちゃってばっかみたい!」
「おい、落ち着けって」
「実力差があればあるほど快感だったでしょう? でもこっちにしてみれば惨めでしかないのがわからない? それとも何? チャンピオンの俺が一緒に踊ってやれば光栄なあまり見世物にされたことも忘れて感涙の涙を流すとでも?」
「いつ俺がそんなこと言ったよ」
「とぼけんじゃないわよ、この自惚れ屋! 自分が気持ちよくなるためにわたしを利用しないで! そういう人間がっ、いっちばん嫌いなんだからっ……」
言い切ったと同時、久しぶりに保健医の台詞を思いだしていた。
夏目も同じだった。
校長や教頭たちと同じで〝かわいそうなマリ〟を食い物にしてアイデンティティを得ようとするクソ野郎だった。
鋭利な言葉を大量に絞りだしたせいでマリの喉もずたぼろだった。
焼けるように痛む喉を押さえて後ずさると視線を感じた。
出番を待つ人が遠巻きにこちらを見ていて、その先頭に立つ槙島は明らかに困り果てた顔をしている。
たまらずその場を逃げだした。
背後からマリを呼ぶ槙島の声が聞こえたが、夏目の声は一切しなかった。
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