「俺と、踊ってくれる?」


 木製の椅子に座らされると、夏目は立てた自分の膝にマリの短い足を乗せ、慣れた手つきでライナーと呼ばれるシリコン製のカバーをかぶせていく。


 義足をつけるとき、切断した足をソケットという筒状の部分に差し込むのだが、生足をそのまま入れると中でつるんと滑ってしまう。

 それを防ぐためにシリコンカバーを足側につけ、ずぷずぷと筒の中の空気を抜くように差し込んでいく。

 こうすることで中が真空になるうえシリコンの摩擦によって抜けなくなるのだ。


 正直、ライナーの装着はマリでもできる。

 いつか義足を使うときのためにとリハビリで練習させられていた。

 しかし今日に限っては、全てを夏目に任せたい気分だった。


 できるならやってみろ。

 少しでも嫌なところがあれば突っぱねてやる。


 そういう、ちょっとした意地悪のつもりだった。

 だがマリに触れる夏目の手は骨張った見た目に反していやに優しくて、否定してやりたいのにその機会が見つからない。


 夏目の体温は低栄養のせいか少し低くて、逆にマリの足先は火照っている。

 宗一郎なら感染症!? とか言って慌てそうなほどの熱と赤みを帯びた膝先は、夏目の低い体温と交じりあったおかげで今ようやく平熱くらい。

 心地よくない、と言ったら嘘になる。


「そうだ」


 夏目が何かを思いだしたように立ちあがると、マッドサイエンティスト工房から小さな箱を持ってきて蓋をあけた。

 中にはピンクベージュのてかてかしたハイヒールが入っていた。

 自分の人生には一ミクロンたりとも存在しない色。

 思わずじっと見つめている視線の先で、夏目が右足のローファーを靴下ごと剥ぎとった。


「ちょっと」

「いいから」


 あっけない拒絶とともに右足は派手なヒールへと様変わりした。

 どうしてサイズがわかったのか、そのヒールはマリの足にぴたりとはまる。


 なんだかむず痒い。

 ちょっと、かわいい、気が、した、から。


 お洒落なんて、特に足元のなんて、足がなくなってからしようとも思わなかったので。


 夏目の手がとうとう左足に触れた。

 靴を強奪したときの乱暴さを思いだして身構えたが、拍子抜けするくらいそっと義足をかぶせると嘘みたいに断端へと吸いついた。

 初めからそうだったかのように違和感のないその足は、マリの見おろす先で鈍色に光っている。


 どうみても人間らしくない足なのに、両足が揃っているということがとても人間らしい気がした。

 見慣れないような、見慣れているような。

 人魚姫が初めて自分の足を見たときも、こんな疑似既視感に囚われたのだろうか。


 ふわり、と。


 いきなりのことだった。

 夏目がマリの手を掴んだかと思うと、あろうことかそのまま引き寄せたのだ。


 細い胸の中に飛び込むような形になる。

 初めての義足なのに、片手を添えただけで立ちあがらせるなんて何を考えているのか。


 ぎゅっと目をつむり、身構える。

 痛いだろうか、膝が抜けないだろうか。

 体重をかけた瞬間にばらばらと壊れたら?

 すっぽ抜けたら――?


 思ってもみなかった感触が左足を包んだ。

 まるで雲の上に立っているような、表現しがたい感覚。

 ぴりぴりとした刺激が頭の先から両足の先まで突き抜ける。


 痛いのではない。

 背筋がすっと伸びて、新鮮な空気が肺を満たして、すっきりした感じ。


 とんとん、と肩が叩かれた。


「目、あけてみ」


 薄目をあけると夏目がどこかを指差していた。

 操られるように視線を向けると、そこには一面に張られている鏡がある。


 普段、醜い車椅子姿を映す鏡。

 しかしそこに映っていたのは、見たこともない自分だった。


 踵の高いヒールを履いて、すっと背筋が伸びている。

 縦にほっそりと長く、堂々としたいで立ちでセーラー服を着こなしている。


 スカートから覗く足は、二本ある。

 てかてかしたヒールを履いた右足と、メタリックに照り返す機械仕掛けの左足。

 ずんぐりと車椅子に座っていたお飾り人形の自分が、今日はスレンダーに鏡に映る。


 いつもの二倍の高さから見ると世界が変わって見えた。

 自分の視線よりも上にあったものが、今は下にある。


 夏目に引き寄せられると身体が密着した。

 全身の血が沸騰してくらくらする。

 逃げようとするマリの腰を夏目の大きな手が抑え込んだので、腹同士が擦れあって心臓が跳ねた。

 しかし相手はポーカーフェイスのまま腰に添えた右手を肩甲骨まで這いあげて、残った左手でマリの右手を掴むと真横へと押し広げる。

 あいたスペースに自らの身体をねじ込んで、


 一歩。なんの前触れもなく。


 機械仕掛けの左足が夏目の右足によって押しだされた。

 糖度ゼロのはずの、紙粘土っぽい匂いが嗅覚に触れて麻薬のように脳をぼうっとさせる。


「スロウ、スロウ、クィック、クィック――」


 身体が勝手に動く。

 ステップなんてまるで知らないのに、この新しい足が知っているみたいだった。

 密着した身体は接着剤で張りついてしまったかのように、離れそうもない。 


「――エン、スロウ」


 制服のスカートが翻る。

 綺麗な弧を描いて大きく広がり、空気をはらんで揺らめいた。


 ぴたり。

 急角度で回転した身体が、何事もなかったかのように、鏡の前で制止する。

 綺麗な、縦長の身体を維持したまま。

 ぴん、と背筋が伸びたまま。

 足が、二本生えたまま。


「ほら、踊れた」


 低く抑揚のない夏目の声が鼓膜に触れた。

 それでも初めは信じられなくて、何秒も、何十秒も、瞬きもせずに鏡を見つめた。


 マリは自分が嫌いだった。

 言いたいこともろくすっぽ言えない、身も心も不自由な自分。


 でも。


 夏目の腕の中にいる自分は、どこまでも自由だった。

 魔法にでもかかったみたいに、二本の足で平然と回る。

 あの日見た女性のように、くるくると。

 それはまるで、別人のようで――。


 夏目の腕の中にいる自分は、好きになれそうだった。


「俺と、踊ってくれる?」


 蝉が鳴いていた。

 すぐそばでわんわんと鳴いていた。

 だから夏目の声以外、何も聞こえなくなっていた。

 音が壁となって二人を包み、周囲の音を全て消し去っていた。


 籠もった熱気が蜃気楼のように周囲の景色を霞ませて、高い位置から、といっても以前よりも格段に近くなった高い位置から、こちらを見おろす薄灰色の瞳をより鮮明に映しだしている。

 少し碧みがかった光彩がくっきりと見え、マリは瞬きするのも忘れて見入っていた。

 もう答えは知っていると言わんばかりの、強気な目。

 そんなの、卑怯だ。


「……はい」


 吐息がかろうじて声になったような、頼りのない音で呟いた。


 夏目の口角がわずかにあがる。

 そのとき初めて笑顔を見た。

 肉付きの薄い頬をわずかにあげただけの、笑ったと言えるのか怪しいものだったけれど。


 しかしそれまで温度というものがまったく感じられなかった瞳の奥に、ラムネ瓶が生んだプリズムのような光が灯ってきらきらと輝いていた。

 喩えるのなら、夏休みにクヌギの木に留まったカブトムシを見つけて興奮する少年というような。


 ほんの一瞬、その笑顔があの日見た王子様と重なって見えた。


 触れている部分が全部心臓になったみたいだった。

 並列繋ぎになった心臓がいつもの何倍もの速さで身体中に熱を運ぶので、たぶん40℃くらいの熱に浮かされていた。


 だからもう、何も考えられなくて。


 身体はどこまでも自由だったけれど。

 マリの言葉は夏目に縛られてしまって、まだ不自由だった。

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