「この義足をつけて、俺と踊って欲しい」
防音仕様の分厚い扉が開くと、もわっとした熱気とノイズ交じりの音楽が一緒くたに押し寄せてきて窒息しそうだった。
入ってすぐに小さな玄関があり、間仕切りも兼ねた下駄箱が置かれている。
靴は一足、おそらく槙島のものと思われるスニーカーがしまわれていた。
几帳面なのか白いスニーカーにはあまり汚れがついていない。
視線を室内に移すと太陽光を反射したリノリウムの床が薄闇の中で鈍く光っており、その上を大量の埃が駆け抜けていた。
最後に掃除をしたのはいつだ。
不衛生さに唖然としていたマリの間抜け顔が正面の鏡に映り込んだ。
気まずくなってそっぽを向くもそちらも鏡張りでぎょっとする。
陰キャにとっては精神衛生上よろしくない環境だ。
しかし夏目は居心地の悪すぎる空間をものともせず、履いていたサンダルを適当にほっぽってあがっていく。
同族と思っていただけに意外だった。
玄関からフロアは一段高くなっていて、さて車椅子でどうあがろうかと思っていると、ごく自然に前から伸びてきた手が座面を下からすくいあげた。
前輪が玄関に乗りあげ、そのまま力任せに後輪も引っ張りあげる。
気が使えるんだか、使えないんだか。
「車輪汚れてるよ? いいの?」
「別に。ここだってたいして綺麗じゃない」
確かにその通りだったので遠慮せずについていく。
六十畳はありそうな広い空間には古びたオーディオ以外に何もない……と振り返って絶句した。
窓のある壁、その一面に付箋のようなものがびっしりと貼られていた。
糊が乾燥して床に落ちているものも多く、テープや画びょうで補強されている。
細かい文字で
『力を入れすぎない』
『肘はみぞおちと同じ位置』
『スイングは大きく思いっきり』
などと書かれていた。ダンスの注意書き?
「ねえ、JK。名前なんてーの?」
槙島が馴れ馴れしく訊いてきたのでしかめっ面で「月島マリ」と答える。
もしかしたらバイトをするかもしれないし、何よりJKと呼ばれるのが嫌だったので。
「マリちゃんかぁ。よろしくねぇ」
下の名前をチョイスするあたり見た目通りの軽薄さだ。
対する夏目は車椅子を引きあげて以来こちらを一度も見ないまま、部屋の隅に設置されているドアに向かって歩いていく。
ドアは右端、中央、左端の三か所にあったが、左側が目的地らしい。
今さらながらどういう関係なんだろう。
槙島のほうが若干年上に見えるけれども。
「ていうか慧。ここのエアコン、叩いても
擦ってもってなんだ。
槙島が文句を言いながら指差したエアコンは確かに動いている気配がない。
「壊れてんだよ、叩くな」
「なんでこの真夏に壊れたままの? 信じらんない」
それはマリも同意だった。
むせ返るような熱気は肺を焼け落とす勢いで、もはや拷問の域だ。
蛍光灯がじりっと発光して息絶えたのに気づいて天井を見あげた。
全ての土台に蛍光灯は挿さっており、
ということはつまり全ての蛍光灯が切れたということになる。
エアコンは壊れ、掃除はされず、蛍光灯は未交換。
舞いあがる埃と茹だるような熱気が視界を陽炎のように揺らめかせている。
もしここがバイト先であれば劣悪すぎる環境だったが、
「嫌なら帰れ」
王様のごとく尊大な突っ込みを吐き捨てると、夏目は改善する気はさらさらないという態度で左端のドアをあけた。
電気が落ちているのと、夏目の無駄にでかい背中が邪魔をしてよく見えない。
マリがドアの近くまで行くと、夏目が一歩ずれて電気をつけた。
途端に絶叫。
「なっ……にこれ、あしがっ」
二畳半ほどの部屋には作業用の机と、大量の紙屑、そして大量の足が無造作に置かれていた。
「みればわかると思うけどこれ義足な」
見てわからないんですけど!
夏目が段ボールにぶっささっていた一本の足を引っこ抜いてマリの眼前にかざした。
肌色のラバーがかかっている義足だったが本物の足の質感にかなり似ていてびっくりした。
違いはゴムくさいことと、少してかてか光っていることくらい。
義足ってもっとこう、つるんとしたマネキンの足みたいなものを想像していた。
「俺が人工皮膚から作った」
さらりとすごいことを言ったので反応が遅れた。
これを作ったって……実はものすごい天才、とか?
そう思うとダウナー系でデリカシーがなくて王様態度なのにも納得というか。
ざっと見渡して十本近い足が吊されたりぶっささったり立てかけられたりしていた。
壁には骨格や足のデッサン、機械の組み立て図のようなものが貼りつけられているが、それはまだいいほうで、一部の壁には油性ペンで直接数式のようなものが書き込まれている。
マッドサイエンティストの部屋かここは。
「で、バイトって何なんですか」
こんな酔狂な空間に居続けたらこっちまで気がおかしくなりそうだ。
額に浮きあがった汗を手で拭いながら夏目を睨むと、何を思ったかその頭がすっと下がった。
マリの前に跪くような格好になり、真正面から顔を見据えられて何故だか少しどきっとする。
黒というよりは墨色の、灰色の少し混じった瞳にマリのあほっぽい顔が映り込んでいた。
沈黙の隙間を縫うように遠くのほうで蝉が鳴く。
たった七日間の命を使い切るように発せられた断末魔は、鼓膜にびとりと貼りついて、それ以外の音をくぐもらせる。
「月島」
鈍った重低音が名を呼んだ。
「この義足をつけて、俺と踊って欲しい」
なるほど、こいつの正体は人魚をそそのかして足を与えた魔女だったのだ。
五歳の頃の記憶が蘇って頬が引きつる。
人工的な足を差しだして、生まれ変わった債権者からマリに持ちかけられた新規契約は、あまりにも突飛なものだった。
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