「あっ……〝シャル・ウィ・ダンス〟だ」

 しばらく進んだところで、ふとくぐもった旋律が聞こえてきた。

 進むにつれ鮮明になっていくその音は、とある角を曲がったところで、


「あっ……〝シャル・ウィ・ダンス〟だ」


 思わず声をあげて足(といっても車椅子だが)を止めてしまうほどはっきりと聞こえてきた。


 『シャル・ウィ・ダンス』は映画の中で使われていた曲だ。

 映画は冴えない中年男性が駅のホームから見える社交ダンス教室に心惹かれてこっそりと通いだす……というストーリーで、お婆ちゃんに誘われるまま、マリもDVDがすり切れるくらい見た覚えがある。


 ちなみにこの曲がオリジナルで使われているのは『王様と私』という古いミュージカルらしいのだが、いきなり歌いだすのが意味不明なのでそちらは見ていない。


「シャール、ウィ、ダーンス……ふん、ふふん、ふふん、ふふん」


 つい口ずさんで、気づけば針路を曲の聞こえるほうへと向けている。

 今日はやたらと音を追ってしまう日だ。


 映画で見た社交ダンスの先生はとても綺麗で、ひらひらしたお姫様のようなドレスを着ていて、小さいときはお婆ちゃんのワンピースを勝手に引っ張りだして夢中で真似をしたっけ。


 そう、あの頃はまだ両足があったのだ。


「シャル、ウィ、ダンス……ふん、ふふん、ふふふ……」


 そういえば、十年前の冒険のときもこの曲を聴いたのだった。

 歩き疲れて地べたに座り込んだとき、ちょうど聞こえてきた音楽に甘い匂いに誘われた虫のようについていってしまった。


 ずっと思いだすことすらしなかったあの日の記憶が、節が進むにつれ鮮明になっていく。

 あの日。

 冒険の終着点としてたどり着いたのは、とあるダンス教室だった。


「ふん、ふふん、ふふふふ」


 がこがこと車椅子が揺れる。

 進んだ先はきちんと整備がされておらず、細かい砂利を踏んだだけでマリの身体が跳ねあがった。

 普段だったら絶対に通らないような道。

 横転したらひっくり返った亀のようになる哀れな末路が待っている。


 だが、この日ばかりは。

 何かに取り憑かれたように進んでいた。


 そうして、道の先に見えたのは古びた一軒のビルだった。

 どくん。

 心臓が脈打つ。


 一階に備えつけられた大きな窓。

 その上に掲げられている黄ばんだ看板の文字。

 既視感が喉元までせりあがる。


 〝夏目ダンススクール〟――看板に書かれている文字だ。


 あの日、精一杯つま先立ちをして、この大きな窓から中を覗き込んだのだ。

 そこには上品な雰囲気の女性が一人いて、ロングドレスの裾をまあるく広げてくるくると回っていた。


 白髪交じりの、自分の祖母と同年代くらいの女性だった。

 だが足が痛いだの腰が痛いだのと毎日唸っている祖母とは別人のように、びしっと背筋を伸ばしてきびきびと動いていた。


 まるでメリーゴーランドのように、止まることなくくるくる、くるくる……。


「……シャルウィダンス、シャルウィダンス、」


 口ずさむうちに開きっぱなしだった門を素通りしていたがそんなことは頭から綺麗さっぱり抜け落ちている。

 前庭を囲うのはポセイドンが持っている槍に似た鉄柵で、古めかしいビルとの相乗効果で幽霊屋敷のような雰囲気だ。

 聞こえてくる音楽も掠れ掠れで。


 一段高くなっている建物の縁を車椅子の馬力で無理矢理に乗りあげるともう目の前には窓が見えている。

 ほとんど惰性であの日のように窓枠にすがりつくと中を覗き込んだ。


「……シャルウィ、ダンス」


 そう、この曲の切れ間だ。

 ここでちょうどこの窓にたどり着いて、背後から声がかかったんだっけ。


 うちに何か用?


 という少年の声が脳の深いところに熱を生む。

 立っていたのは、人魚姫に登場する王子様のような男の子――。


「うちに何か用?」


 はっとしてマリは息を飲んだ。

 脳内で響いているはずの台詞が妙にはっきりと聞こえたので。

 まるで4DXのようなリアリティだと思ったところで、自分の状況を理解した。


(まずい、これ、不法侵入だっ)


 無理矢理小あがりを乗り越えたのだ。

 これは完全に不法侵入である。

 五歳の子どもなら許されるだろうが、マリはすでに高校生。

 世間はそんなに優しくない。


「すみません! あの、」


 首を回して振り向くとひょろっと痩せた胴体が真っ先に目に飛び込んできた。

 ゆっくりと顎をもたげていくと、かなり持ちあげたところでようやくその顔が視界に映る。


 マリが車椅子に座っていることを差し引いても結構な長身の青年は、よれよれのシャツにだぼっとしたワークパンツ姿で、そのどちらにも白い紙粘度のようなものがべったりとこびりついていた。


 呆気にとられつつも頭を下げたマリに対して相手のほうは特に何かをするでもなく、野暮ったく伸びた前髪の向こうで不機嫌そうに目を細めてこちらを睨みおろしている。


 記憶の中の王子様とは似ても似つかない青年だった。

 不健康そうな蒼白い肌のせいでどちらかといえばマリよりも不審者っぽいその青年は、しかし姿勢だけは妙にいいので見あげる首が吊りそうになった。


 骨張った大きな手には買い物帰りなのかビニール袋が提げられていて、中には経口補水液と総合栄養サプリメント。

 反対の手にはソーダ味のアイスキャンディ。

 ほとんど食べ終わっていて、あと一口と少しぶんの量が、この暑さを耐えしのぐように棒にへばりついていた。


「えっと、その」


 相手が貫く沈黙に耐えかね、うまい言い訳も思いつかずにありのまま


「……音楽が聞こえて」

「音楽……?」


 未だに鳴り続けている〝シャル・ウィ・ダンス〟の曲に、青年がいきなり舌打ちをした(自分でも馬鹿馬鹿しい理由だと思うけど何も舌打ちしなくても)。


 と、青年が伏し目がちに視線を落とす。

 その先にあるのはマリの膝だ。チェック柄の膝かけ、そこから覗く一本の足。


「……っ」


 ぎゅっと膝かけを握りしめ『見るな』という気持ちで睨みあげるが、あちらは従うつもりもないらしく、マリのことを頭のてっぺんから足のつま先まで(といっても片方だけ)じろりと眺める。

 その間、終始無言。さすがに失礼すぎではないだろうか。


「あー慧、帰ってきたの? 俺のアイスはー?」


 膠着状態を打破したのは窓の向こうから響いてきた間延びした声だった。


 立てつけの悪い窓が音を立てて開き、色素の薄い髪をした青年が屈託のない笑顔を浮かべて顔をだした。

 目の前の無愛想な青年とは打って変わって愛嬌があり、夏の日差しに負けないくらい透明度の高い顔面は、世間一般で言うところの美青年というやつだ。


「お前また勝手に入って」

「いいじゃん。俺と慧の仲でしょ」

「よくない」


 などと頭上で何やら口論が始まったかと思ったら、


「ん?」


 流ちょうだった会話が唐突に途切れ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をこちらに向けてしぱしぱと数回瞬きをしたあと、


「その子誰!? 慧が女の子連れ込むなんてめずらしー」


 と冷やかすような口調でまくしたてた。


「連れ込んでない。家の前にいたんだよ」

「ふうん。俺、槙島祐介マキシマユウスケ


 だらんと上体を窓枠に寝そべらせ、槙島と名乗った青年がにぱあっと笑う。


「ちなみにこのアイソないのが夏目慧ナツメケイ


 目線がほぼマリと同じ位置になり、吐息が触れるくらいの距離。


 これが陽キャというやつか。

 車椅子を理由に中学時代のほとんどを保健室登校で済ませたマリとは住む世界が違う人種だった。

 というか、この夏目とかいう青年も絶対に陽キャとは無縁の人種のくせに、なんでこの人とつるんでいるのか甚だ疑問だ。


「ねえ、この子いいんじゃない?」

「確かにちょうど一本だが……無理だろ、品がない」

「慧にだってないでしょ。それに興味あるみたいじゃん」


 何やらマリの頭上で勝手に盛りあがり始めた。


 (一本って足のこと?)


 絶句して夏目慧を見あげたが当人は一切お構いなしという不遜顔。

 というかこの男が規格外なせいで目立たないが、暴言を否定しないうえに品のなさを肯定する槙島祐介もナチュラルに失礼ではなかろうか。


「ちょっと、さっきから何なんですか」


 無遠慮には無遠慮を。強気に会話へ割り込むと、二人の視線が同時にこちらを見おろしてきたので若干怯んでしまう。

 いや、負けてたまるか。

 気を新たにもう一度睨みあげれば、夏目慧は少し考えるように黙り込んだあとアイスを持つ左手をこちらに差し向け、マリの膝かけを、というよりスカートを容赦なくめくった。


「ちょっ……」

「下腿切断か。条件的にはありっちゃありだな」


 斜め上を行く無遠慮を返されて再び絶句。

 マリですら太陽光のもとで自分の膝を見たのは久しぶりだった。

 普段膝かけで隠している太股は半ばからぷつりとかき消えている。

 下腿切断。

 久々の陽光がちりちりと白い肌を焼く。


 ありっちゃありってなんだ。

 勝手に話を進めるな。なんのことか知らないが、こちらからすればこんなデリカシーアンドプライバシー無視男なんて完全にナイ。


「離して」


 夏目の手を振り払うと、かろうじてへばりついていたアイスがぼとりと落ちて地面に青い染みを作った。

 残るはあと一口ぶん。


 つきあってられるか。

 もう帰ろうと車椅子のブレーキをはずすと頭上では呑気な声で、


「慧はデリカシーなさすぎ。怒っちゃったじゃん」


 と槙島。

 あなたも十分デリカシーないですけど。


「ねーえ、君、中学生? バイトとかキョーミない?」

「高校生ですけど」

「ああ、ごめんねぇ。ちっちゃくってかわいかったからさあ」


 どうせ童顔貧相な身体ですよ。


 きゃらきゃらと笑う槙島に構わず操作用のハンドルを握りしめると、行く手を阻むように手を伸ばしてきた。

 ふわりと甘ったるい香水の匂いまで漂ってきて、声との相乗効果、糖度×糖度で胸やけしそう。


 あの会話の流れからどうしてバイトを受けると思えるのか。

 そもそも中学生と勘違いしていた相手にバイトを持ちかけるのもどうかしている。


 口げんかは苦手なので眼をつけるが槙島の笑みは崩れない。

 自分の顔面によほど自信があるらしく、微笑めばさっきの会話すらなかったことにできると思っていそうで、そういうところも無理なんだったら。


 気乗りしていなさそうな夏目なら解放してくれるかもと視線を投げるも、向こうは向こうで仏頂面のまま槙島の行動を静観している。

 当事者のくせに関係ない顔するな。


「興味ありません」


 と返答し強引にハンドルを切った。

 しかしそれが仇となる。


 鋭角的な方向転換のせいでタイヤが浮きあがってしまい、座面から身体が滑り落ちた。


 差しだされた手がマリの身体をすくいあげる。

 糖度ゼロの、紙粘土のような匂いが鼻につく。

 夏目の左腕に吊りさがるような格好になり、アイスの棒と、残り一口の氷菓子と、膝に載っていた鞄が重力方向に引き寄せられて、


 がちゃん。


 落ちた鞄の上に車輪が乗っかった。

 血の気が失せる。


「あっ……」

「あちゃー嫌な音したねぇ。君、鞄の中身大丈夫?」


 夏目の腕にぶら下がったまま鞄を拾いあげ、中身を確認してから言葉がでない。

 代えたばかりのスマートフォンの液晶ディスプレイが蜘蛛の巣みたいに割れている。


 支えてくれていた腕がマリから離れ、鞄とともに落下していた膝かけを拾いあげてほっぽり投げた。

 頭から覆いかぶさる感じになったが抗議する心の余裕を今現在持ち合わせていない。


「それ、保険入ってる?」


 槙島の声。首を振る。


「親はカンダイ?」


 首を振る。さすがに代えて二日で壊しましたなんて言えない。


「……バイト、話だけでも聞いてかない?」


 少しの沈黙。

 手の中にある見るも無惨なスマホから顔をあげ、にこにこ顔の槙島を見る。

 夏目は地面に染みこんでいくアイスの水たまりを眺めていた。

 自己中でデリカシーはないけれど……無害そう、な気もする。

 話だけなら。


 マリが頷くと槙島が小さくガッツポーズをした。

 やはりこの人も大概デリカシーがない。


 入り口そっちだからと槙島が窓の奥に引っ込み、夏目は夏目ですでにドアのほうへと歩きだしている。

 車椅子だからといって押してくれる気はないらしい。

 同情されるよりはましだけど。


 砂利の敷かれている道をわたわたと左右に揺れながら夏目のあとに続く。


 と、なんのけなしに振り返った先では、地面に生まれた甘過ぎる水たまりに飛び込んだ蟻が、その粘性を前に溺れてもがくのが見えた。


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