What A Difference A Day Made.
長船 改
What A Difference A Day Made.
僕がよく訪れるその喫茶店には、誰でも弾けるようにと一台のピアノが置いてある。とは言ってもピアノを弾いているのは、近所にある音楽学校の生徒やアーティストの卵がほとんどだ。
僕には音楽の事はよく分からない。しかし彼らの演奏がとても上手な事くらいは分かる。それを目当てにここに来ていると言ってもいいくらいだった。
ある日、僕はその喫茶店を訪れて、いつも通りにコーヒーを注文し本を読んでいた。すると一人の高齢の女性が店に入って来てマスターと一言二言挨拶を交わし、おもむろにピアノの前に腰掛けるのが見えた。
僕はおやっと思った。
これまで若い演奏家ばかりがここのピアノを弾いていたので単純に物珍しかったのと、その女性が店の中なのにも関わらず、黒いサングラスを外さなかったからだ。
目の弱い方なんだろうか。だが、杖こそついてはいるが、ピアノまでまっすぐに向かった所を見るとそういうわけでもなさそうだった。
そして女性は少しためらいがちに、どこかぎこちない調子で、音を奏で始めた――。
「あの、コーヒーを一杯ごちそうさせてもらえませんか?……ピアノのお礼に。」
女性はサングラス越しに僕を見上げた。
あれから3曲は演奏しただろうか。女性は今ではピアノを離れてテーブル席につき、メニューを眺めている所だった。
なぜこんな申し出をしたのか、自分でも不思議だった。しかし彼女の演奏を聴いていたら居ても立っても居られなくなってしまったのだった。特に最後の曲には、得も言われぬ余情があった。
「あら、それはそれは。ただ私はコーヒーは苦手なの。紅茶でいいかしら。」
とても品のある声でそう言われて、僕はひどく緊張しながらマスターに紅茶を注文した。
そして立ち話もなんだからと、女性は自分の向かいの席を僕に勧めてくれた。
最初はとりとめもない会話をしていたと思う。この辺に住んでいるのかとか、普段何をして過ごしているのかとか、そんな会話だ。どうしても上手い言葉が見つからなくて、さきほどのピアノの感想は避けてしまった。
マスターが紅茶を持ってやって来た頃には、もう僕の中で会話の種はほとんど尽きてしまっていた。
女性は、上品な手つきでカップに紅茶を注ぎ一口すすると、「あぁ、美味しいわ。どうもありがとう。」と、僕にお礼を言った。
「あの……どうしてずっとサングラスをされているんですか?」
この人の声は、その演奏と同じく、何故か僕の心を揺さぶるようだ。しかしそれによって緊張したにせよ何にせよ、初対面の人に対してとても踏み込んだ質問をしてしまった。僕はすぐに後悔した。
女性はカップを持つ手の動きを一瞬止めたが、ふっと口元を緩ませると「そんなに緊張しなくてもいいのよ。たしかにずっとサングラスを掛けているのって変な話だものね。」と言ってくれた。
「少し、長話になってしまうけれど、いいかしら。」
僕に断る理由はなかった。むしろ興味があった。あんな演奏が出来る人の、すごく滑らかに指が動くわけでも早く弾けるわけでもない、むしろ鍵盤の位置を確かめるようにして弾いていたあの演奏で、僕の心を鷲掴みにしたこの人の長話とは一体どんなものなのか?
この女性……エリザさんは、若い頃、少しは名の売れたジャズピアニストだったらしい。しかし彼女はそんな評判とは裏腹に、色んな所でジャンルを問わずピアノを演奏したそうだ。若者が集まるバーやナイトクラブ、孤児院、教会、はては軍事基地の中でも演奏したとか。
「子供たちが演奏のお礼にってキャンディをくれた時なんかはとても嬉しかったわ。貰えないわって言ったのに、強引に押し付けてくるの。なけなしの大事なお菓子だったでしょうに。」
サングラスで目が見えなくても、エリザさんが当時を懐かしんでいるのは容易に分かった。言葉の端々が、柔らかい。
「そんなある日にね、またいつものようにどこかのバーでピアノを弾いていた時に、一人の男の人が私に絡んできたの。私より少し若いくらいの男の人で、すぐに軍人さんだって分かったわ。だってあんなバーの中で、たった一人だけ軍服を着ていたんですもの。」
その軍人さんは、エリザさんに何曲かリクエストしたらしい。そしてそれを聴きながら酒をあおって号泣していたそうだ。
何曲か演奏した所で振り向いてみると、軍人さんはいつの間にかいなくなっていた。
エリザさんは休憩ついでにトイレに立った。すると、さっきの軍人さんが手洗い場で手を洗っているのに気付いた。しかしエリザさんは特に声を掛ける事もなく、軍人さんの後ろを通り過ぎてトイレに入った。
しばらくして手洗い場に戻ると、軍人さんはまだ手を洗っていた。さすがに気になって「あの、大丈夫ですか?」と声を掛けると、「放っておいてくれ。」とつっけんどんに返されたそうだ。
「仕方ないから私も手を洗ってお店に戻り、またピアノを弾いたわ。しばらく経つとお客さんが少なくなっていたから、お店のご主人からその日の演奏代を頂いて帰り支度を始めて……。その時、ふと思ったの。あの軍人さんはまだ手を洗っているのかしらって。」
エリザさんが手洗い場に行ってみると、なんとまだその軍人さんは手を洗っていたそうだ。さすがにびっくりしたエリザさんは、嫌がる軍人さんを強引にお店に引っ張り込んだ。その手はとても冷たくなっていて、軍人さんはブルブル震えていたらしい。
マスターにホットワインを淹れさせている間、エリザさんはせめて手を温かくさせようと軍人さんの手を握ろうとした。だけど軍人さんはそれだけは、とどうしても拒んで手を握らせなかった。
ホットワインを飲んで少し気分が落ち着いたのか、軍人さんはエリザさんに礼を言った。しかしそれ以上は何も語ろうとせず、ホットワインを飲み干すと、まるで逃げ出すようにバーを出ていったのだった。
エリザさんの中で、その日の出来事は、何でもないちょっとしたハプニング程度の事だったようだ。すぐに忘れて、また日々に追われていった。
それから数週間ほどが経った。
エリザさんはいつものように知人のお店でピアノを弾いた。そしてその帰り、近くの広場を歩いていると、中央の噴水の辺りに人が倒れているのに気付いた。
行き倒れだろうか――。
おそるおそる近づいてその顔を観察すると、どうにも心当たりがある。
それは、あの時の軍人さんだった。
あの時と同じように軍服も着ている。手が噴水の池に浸かっているのを見ると、こんな所でまたずっと手を洗っていたようだ。
エリザさんは慌ててお店に引き返し、知人に協力を頼んで、一緒に軍人さんをお店の中へ運び込んだ。ソファを簡易ベッドに仕立て、軍人さんを寝かして毛布をかけてやる。軍人さんの手が凍傷寸前のように見えたので、医者を呼んで診察してもらったが、ぎりぎりの所で大事には至らなかったようだ。
しばらくして、軍人さんが目を覚ました。
「ここは……。君はたしかあの時の……。」
エリザさんはホッとして、ここが知人のお店の中で、軍人さんが噴水の前で倒れていたのをここに運び込んだんだという話をした。軍人さんは力のない声で「ありがとう。」とエリザさんに礼を言った。
しかし、続いて自分の手を見た途端、軍人さんの表情がさっとこわばった。エリザさんが、自分の手を握っていたからだ。焦って振りほどこうとするが、寒さで体力を奪われていて思うように力が入らない。
「やめてくれ。手を放してくれ。頼む。」
「でもまだこんなに冷えているのよ。温めないと。」
「頼む。この手に触れないでくれ。頼むから。」
「どうして?どうしてそんなに手を触られるのを嫌がるの?」
「それは……。」
軍人さんは目をそらし言いよどんだ。しかし前回のように頑なな態度というわけでもなかった。
エリザさんはそのまましばらく待つことにした。やがて軍人さんは、エリザさんの方に再び目を向けるとこう言った。
「私がこの事を話したら、君は絶対に後悔する。それでもいいのかい。」
エリザさんは「構わないわ。」と言った。軍人さんは長いため息をつくと、まだ寒さで震える唇をきゅっと結んで話し始めた。
「僕は、見てくれの通り軍人だ。と言っても名ばかりのものでね。やらされる仕事と言えば全て雑用ばかりの小間使いのようなものさ。いや、小間使いよりももっとひどいか。
……君は覚えているかい?3年前に終わった、あの大きな戦争の事を。」
覚えていないわけがなかった。この国は地理的・戦略的な事情から、その戦争に巻き込まれる事はなかった。それでも伝え聞くその悲惨さは、対岸の火事で済ませるにはあまりにも酷いものだった。
軍人さんは話しづらいからか、もぞもぞと身を起こした。体にかかっていた毛布がややずり下がる。
「僕は国外に派遣された一団の中にいたんだ。
……凄まじかった。
今でも夢に見る。戦争が終わって感覚が通常に戻ってきた今の方が、より恐ろしく感じるんだ。」
軍人さんの目は恐怖に染まっていた。
「僕のいた隊の人たちは、みんな意地が悪くてね。僕にばかり面倒な仕事をさせるんだ。
文句を言っても暖簾に腕押しさ。お前はここを離れたら帰る場所なんてないだろう、なんせ親兄弟もいない親類もいない、天涯孤独の身だからな、ってね。だ、だから……」
そこまで言って、軍人さんの言葉が詰まる。
「だか、だから……遺体処理の仕事も押し付けられた……。遺体の山から、腐敗の始まっている遺体を選んで、ひとつひとつ持ち物を確認して身元を特定して、そうしているうちに別の遺体が腐って来て……。」
恐ろしい話だった。しかしエリザさんは、軍人さんから顔を逸らさなかった。話させたのは自分だ。受け止めなければいけないと思った。
「そ、そんなことを続けているとね。手が、匂ってくるんだ。腐敗臭が手に染みついてしまって、洗っても洗っても取れやしない。たぶん、僕は死んだ彼らをもう一度殺しているんだ。だからこの匂いが取れないんだ。彼らの無念が僕の手にこびりついて、それで綺麗にならないんだよ。」
そう言って軍人さんは自分の手を見つめた。その手はまだエリザさんの手に包まれたままだ。
「戦争が終わって、やっと僕もこの国に戻って来れた。でも帰る家がないから、まだ基地内に住んでいる状態でね、気の休まる時間がないんだ……。
基地内を歩いていると、あいつは死体を触りまくったやつだ、汚らわしいやつだって陰口を叩かれる。全然知らないやつが、僕に冷ややかな目を向けてくる。それが気になって仕方がないから、お金に余裕のある時は基地を抜け出して、他の奴らがいなさそうな店でこっそり飲んでいるんだ。酒を飲んでいる瞬間だけは、この手の匂いを忘れられるからね。
……分かったかい。だからこんな穢れた僕の手なんかに、君のような綺麗な手は触れちゃいけないんだ。」
そこまで話して、軍人さんは無言になった。しばらくの間、すきま風と家鳴りの音だけが店内にこだました。
「さ、もうその手を放してくれ。そしてすぐに家に帰って、僕の事などは忘れてしまうんだ。いいね。」
そう言って手をほどこうとした軍人さんだったが、エリザさんはその手を放そうとしない。
「君。」
「……違う。」
「え?」
「違うわ。」
「なにが。」
エリザさんは軍人さんの手を取ると、その手に自分の手を重ねた。
手のひらと手のひらとがぴったりと合わさる。
軍人さんの目が大きく見開かれた。
「あなたの手、全然穢れてなんていない。ほら、見て。あなたの手と私の手。ただの男の手とただの女の手よ。それ以外になにか違いがある?」
エリザさんの目から涙が零れ落ちる。
「あれは戦争だったの。仕方が無かったの。誰にも色眼鏡で見られることなんてない。それにあなたが仕事をしたから、亡くなった人たちは家族のもとに帰れたんでしょう?称賛されるべき立派な仕事よ。私にはあなたの手がとても高貴なものに見えるわ。」
軍人さんは下を向いた。肩が震えている。しかしそれは寒いからだけではなかった。
体に掛けられていた毛布に、点々と大きな染みが出来ていった――。
「ごめんなさい。本当に話が長くなってしまっているわね。」
そう言うと、エリザさんは紅茶を飲んで、ひとつ大きく息をついた。
僕はと言うと、衝撃的な話の連続に息をするのも忘れていたみたいで、大きく肩で息をする羽目になっていた。手元にあったグラスの水をぐいと一息で飲み干てしまう。
「い、いいえ。僕が聞きたいとお願いした事ですから。」
「ありがとう。でももうほとんど話は終わったわ。」
と、エリザさんは掛けていたサングラスをゆっくりと外してテーブルに置いた。今までサングラスに隠れて見えなかった目は、予想通りに、とても穏やかな目だった。
「このサングラスはね、軍人さんの形見なの。」
僕は予想もしなかったその言葉に、きょとんとしてしまった。
「訓練中に爆弾が誤爆してしまったらしいの。それでその閃光で目を傷めてしまって。
でも目が光に弱くなったっていうのに、あの人ったらそんな事おかまいなしに歩き回っては苦しんでいたものだから、私がプレゼントしたの。」
サングラスを見てみると所々、色がはげ落ちていた。数十年もの間、二人の主人によって大事にされてきたサングラス。
「あの人が死んでからというもの、ずっと部屋に大切にしまっておいたのだけど、それも何だか可哀想に思えてきて。それで私が使う事にしたのよ。」
喫茶店を出ると、日が傾き始めていた。僕の隣には、サングラスをしたエリザさんが立っている。日傘をさして、杖をついて。
「今日はどうもありがとう。紅茶を頂いた上に、あんな話まで聞いてもらっちゃって。申し訳なかったわ。」
「いえ、僕の方こそすみませんでした。初対面なのにあんな不躾なお願いをしてしまって……。」
本を小脇に抱えた男と日傘をさした老婦が、そろって頭を下げあう、少しばかり奇妙な光景……。
「でも……どうしてあんなに詳しく話してくれたんですか?僕みたいな若造に、あんな大事なお話をどうして。」
エリザさんの動きがふと止まった。
もしかしたら、また僕はなにか失礼な事を言ってしまったのだろうか。
エリザさんの表情は日傘に隠れて分からない。
実際にはほんの数秒だったのだろうが、僕にはとても長い時間のように思えた。目の前の日傘は、こちらに背を向けて、少しだけ下に傾き揺れた。
「今日ね、私、久々に人前でピアノを弾いたのよ。あなたが久しぶりのお客様というわけね。緊張してうまく指が動かなかったわ。」
その言葉に、僕はようやく合点がいった。鍵盤を確かめるようなあのたどたどしいメロディはそういう事だったんだ。
そしてこうも思った。
もしかしたらこの人は、軍人さんのために、人前でピアノを弾く事をやめたんじゃないだろうか、と。手の事や目の事。心の事。僕なんかには想像もつかないくらいに大変な毎日だったんじゃないか、と。
「……自分でもよく分からないわ、なぜ思い出話をしようと思ったのか。もしかしたら心のどこかで、私の演奏を褒めてくれたあなたに知っていて欲しいと思ったのかもしれないわね。」
こちらを振り向いて、エリザさんはにっこりと微笑んだ。それは何もかもを見守るような、そんな深い慈愛に包まれた微笑みだった。申し訳なく思いながら、僕も微笑んだ。
「それでは、ごきげんよう。」
そう言ってエリザさんは軽くお辞儀をした。僕もつられて会釈を返しエリザさんを見送ろうとして、ハッとした。
勢い込んで後ろから声を掛ける。
「あ、あの!」
「まだ、なにか?」
エリザさんが振り返る。
「曲の名前、教えてください!あの、最後に弾いていた、あの曲。」
エリザさんはしばらく僕の方を見ると、こらえきれない様子で少しだけ吹き出した。なにか変な事を聞いたんだろうか。
「私が弾いた3曲。全部、同じ曲よ。」
エッ、と素っ頓狂な声を出してしまう。
どうやらアレンジを変えて演奏していたのに僕はまったく気付かなかったようだ。いくら音楽に疎い僕だといっても、これはとても恥ずかしかった。
そんな僕の様子を見て、エリザさんはなおもにこにこと微笑む。
それで僕は耐え切れずにとうとう俯いてしまった。最後の最後にまたやらかしてしまった、そんな思いに囚われていた。
今日何度目かの後悔をしている僕の視界の端から、ゆっくりと影が伸びてくる。
そして――。
「"What A Difference A Day Made."」
一瞬、なんのことだか分からなかった。顔を上げると、エリザさんがまっすぐに僕を見つめていた。
「"What A Difference A Day Made." これがあの曲の名前。あの人のお気に入りだった曲よ。」
サングラス越しでもわかる。今日初めて会った人なのに。穏やかな目で僕を見ているのがわかる。
「What A Difference A Day Made…….」
「そう。"縁は異なもの" とはよく言ったものだわね。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます