彼が絵を描く理由
昼想夜夢
第1話
夏の始まりを告げる入道雲が、水平線の彼方に浮かんでいる。
海の日を過ぎて、もう学生は夏休み。
奇跡的に土日も連続していて、社会人の人たちも3連休。
海岸には、家族連れと学生グループがまるで示し合わせたように、互いのテリトリーに分かれて海を満喫していた。
大きな浮き輪とビーチボールで遊ぶ学生、黒いシャチの浮き輪にまたがる子供とその家族。
夏の始まりを謳歌する人々が、海岸にいた。
夏は、嫌いだ。
立っているだけで、汗が滲み出てくるし、走ろうものならその散々たる状況は筆舌に示しがたい。
自身の新陳代謝の良さを呪いながら、海岸沿いを走る路面電車に彼女は揺られていた。
弱冷という意味のない冷房は、照りつける日光の熱を御しきれていない。
彼女の他にも、乗車している乗客たちは、簡易扇風機を片手にスマホをいじっていた。
黒髪のショートヘアに、紫色の髪留めピン。薄くグレーがかった瞳に、左目の下に小さな泣きぼくろがある。
4分の1、北欧の祖父母の血が混ざっているためか、高く通った鼻に、薄いピンクの唇からは、可憐な可憐な少女ができあがっていた。
彼女は、高校の制服、[私立清風学園]の夏服に身を包み、流れていく景色を眺めながら、清風学園へと向かっている。
彼女の他に、学生服を着た人物はいない。
それもそうだろう。
今は夏休みの昼下がりだ。
部活でもない限り、誰が好き好んで学校に行く者がいようか。
いや、中には補修という不名誉な咎を背負って、学校に向かう者もいるが、彼女は幸いにもそれには当てはまらない。
前者の部活ということでもないのだが。
(あーもー、最悪)
何度思い直してみても、自身のずぼらさに呆れてしまう。
彼女は左手首に視線を落とした。
黒と赤のリストバンドがされたその左手には、いつももう一つアイテムをつけていたのに、今日はリストバンドだけだった。
(まさか学校に忘れてくるなんて)
彼女はいつもリストバンドの上から腕時計をしていた。
とくにブランド物というわけでもない、メーカー不明のアナログ時計。
シルバーの長針と短身にルーン文字で刻まれた時刻盤、黒の革ベルトは1年に一度変えているお気に入りの時計だ。
(残ってたらいいけど……)
情けないことに時計の紛失に気づいたのは、今朝の事だ。
それまでクーラーの効いた部屋で、好きな作家の本を読み、気が向いたらピアノを引いてみる、という昨今の学生には考えられないような浮世離れした生活を送っていた。
流石にまずいと思って散歩に出かけようと、身支度を整えている時に気づいたのだ。
(きっとあの時)
終業式の日のことを思い出す。
それまで置き勉をしていた教科書の類を、この日のために持ってきたキャリーバックに詰め込んで帰る途中。
下駄箱で靴を履き替えようとした時に、友人の流花に声をかけられた時だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『いいところに!ごめん、ちょっとだけ手伝ってくれない?』
上履きをキャリーバックに放り込み、いざ校舎を出ようとした時、友人の流花に声をかけられた。
部活の顧問に頼まれたのか、大きな段ボールを二つ重ねて抱えるように持ち、遮られた視界を補うように、上半身を横に傾けて歩いていた流花が、立ち塞がっている。
流花は愛想のいい笑顔でこちらをみているが、その手が小刻みに震えているのがわかる。
いけると思って二つ抱えてきたが、手が限界になってきているのだろう。
『え?重そうだからや–––––』
『ありがとう!上のやつでいいから、早くとって』
簡潔に断ろうとした彼女の言葉を、流花は遮り、押し付けるように荷物を突き出してきた。
しまった、余裕のないやつだこれ。
いつもの軽口もなく、段ボールを一つを押し付けようとする流花の額から、大粒の汗が見える。
『わかったわよ!ちょっと待って』
強引に押し付けてくる流花を一度押し返して、彼女はキャリーバックを下駄箱の脇に寄せた。
『重い?』
『すっごく』
被せるように答える流花から、早くしろ、という圧がかかっている。
帰宅部のエースを自称する彼女は、筋力はEランクだと豪語できる。
まして、目の前の流花のように、陸上部に所属して自身の能力を日々の鍛錬で向上させているような勇者でもない。
帰宅部は、いかにスマートに帰宅するかだけに重きを置いているのだ。
そんな彼女が、流花がこんなに消耗している荷物を持つことができるのか?
『早くしてくれる?もうね、やばい…』
彼女が逡巡している間に、流花が荷物を持つ高さがどんどん低くなっていっていた。
『手伝うから、もうちょっと我慢して!』
彼女は左手にしていた時計を外して、一瞬考えたあと、下駄箱の上に一時的に置いた。
時計を外したのは、段ボールを持っている時に痛めそうだったため。
あえて下駄箱の上に置いたのは、剥き出しのまま時計を置くのなら、人目につきにくい方がいいと思ったから。
そう。良かれと思って行った行動は、見事に荷物を運び終えた後、腕時計だけ回収するのを忘れて帰ってしまうには十分すぎる要因だった。
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