さよならを言うのは

枕元

第1話 報せ

 愛を知ったのは、他人の幸せを知ってからだった。


 親が子に向ける慈しみの視線と、それに無邪気に応える子供の在り方。その尊さを理解した頃には、すでに母親とは死別し、父親の元を離れていた。


 物心ついた頃には、母と父の関係は冷え切ったものだった。布団を被って耳を塞いでも、両親の怒鳴り声はお構いなしに聞こえてきた。


 それでも離婚はしなかった。そこにどんな思惑があったかは知らないが、互いに愛人を作り、お互いに見て見ぬ振りをし続けていた。

 

 金はあったらしい。両親の仕事は知らなかったが、それなりに稼いでいるようで、腹を空かせることはなかった。


 ただ、独りだった。父も母も、家に帰ってこないことが日を増すごとに多くなった。


 愛はなかったが、衣食住は保障されていた。そんな状況が、はたして不幸なことなのか、それを判断する道徳は持ち合わせていなかった。

 

 そして中学2年の春、母が死んだ。交通事故で即死だったらしい。


 父は泣かなかった。それどころか母の死体を見下ろし、口角が上がったのを俺は見た。それを見て特別何かを思ったわけでもない。思うような心は養われていなかった。

 

 「これからは一人で頑張るんだぞ」


 父にかけられた言葉は、その一言だけだった。今までとなにも変わらない。思えばまともな会話自体久しぶりだったのだ。何かを言い返す気力なんて無かった。


 「大変だったね。悲しいけど、頑張ろうね」


 中学の担任にかけられた言葉に「何が悲しいの?」と答えてしまった。


 先生の恐ろしいものを見るような目を見て、自分の感性が他の大多数と、大きくずれてしまっていることに気づいた。


 先生の勧めに従い、父に内緒でカウンセラーを受けた。少しづつではあったが、ズレた感性が一般的なものに置き換えられていく感覚。


 そして湧き出た父への感情は、呆れと諦めだった。


 このままではダメだと、父に対する意識が変わっていった中学3年、春の出来事だ。


 父が再婚した。そして俺には、妹ができた。


 年は9歳。もう小学生だった。つまり、母が生きているうちにできた娘であり、その存在を母に隠していたわけだ。

 9年。長すぎる。母は気づいていたのだろうか。それすらももう、確かめる術はない。


 父にとって母の死は、僥倖であったのだろう。母の詩を悼むこともせず、こんなことができたのは、やはり父の目に俺の姿は映っていなかったのだろう。


 望んでいない新たな生活は、不幸なことに、一般的な感性を持ち始めた俺には、耐え難い苦痛を伴うものだった。


 その子は愛されていた。父の父親らしい、見たことのない笑顔を受け、無邪気に笑って生活していた。


 父にとって俺は、どこまでと他人の子供だったのだ。新しくできた母親にも煙たがれた。食事も別でとった。そうしないと、機嫌がすごく悪くなるから。


 以前までの自分なら、なんとも思わなかったのだろう。しかし担任の先生の尽力を経て、俺の精神は苦痛を感じるようになってしまった。


 その矛先は、何も理解していない妹に向かってしまった。妹が悪くないのはわかってた。理解するにも、小学生には難しすぎる問題だろう。


 俺にもわからなかったのだ。目の前の少女と、自分の違いが。


 我儘だって言ったことない。言いつけを破ったこともない。愚痴をこぼしたことも、物ををねだったことだってない。


 それらを全て許されている目の前の少女と、自分との違いが俺にはわからなかったのだ。



 「どうしてお前だけが」



 妹と交わしたまともな会話は、これが最初で最後だった。新しくできた母親は、俺と妹が接触することを限りなく避けてたし、俺もそれを感じとって避けていた。


 会話とすら言えないか。俺が一方的に浴びせた言葉だったのだから。


 ポツリと漏れたその言葉を、母親に聞かれてしまった。俺はひたすらに怒鳴られた。人格を否定され、クズ女の子供はやはりクズだと、その生まれさえ否定された。


 母と義母の間に何があったかは知らない。言い返すことはできなかった。俺自身、決して何も知らない少女にかける言葉では無かったと、自覚していたから。


 関係は冷めきったまま、俺は中学卒業を機に家を出た。住み込みで働ける場所を探して、そこで生活をしようと決意したのだ。


 就職はスムーズに進んだ。父が協力してくれたからだ。はじめての助力は、家を出る手伝いだった。


 高校進学は諦めていた。義母が反対したからだ。今すぐに働かせるべきだと。家を出て、一人立ちさせるべきだと。


 今思えば、家を出れば環境は悪く無かったのだ。恩師と言える教師にも出会えたし、就職先は所謂土方と呼ばれる建築業だったのだが、第二の父親とも呼べる人とも出会えた。


 そして働き始めて、5年が経った。


 親方の紹介で、安いアパートを借りることになった。がむしゃらに働いてきたこともあって、金は貯まっていた。無理をしていた訳ではない。新しい生活に、俺は充足感を感じていたのだから。


 成人したこともあり、ちょうど良いタイミングだった。いつまでも世話になり続けるのを忍びなく思ってたこともあるし、一人暮らしは密かな目標でもあったので、ありがたくアパートに入った。


 それが20歳になった春の出来事。


 そして報せは突然だった。父と義母の死は、ある日の深夜に知らされた。


 交通事故で即死だったようだ。なんの因果だろうか、母と同じ事故死とは。


 誰かを巻き込んだ事故ではなく、飲酒運転による路上での追突事故。誰かを殺さなかっただけ、運が良かったと言えるかもしれない。


 警察からの呼び出しに応じて、霊安室に駆けつけてみれば、長い黒髪の、あの頃の面影を残した少女が、両親の亡骸の前で咽び泣いていた。


 俺は泣かなかった。泣くような思い入れが両親には無かった。浮かんでくる感情は一つも無かった。


 それだけど、遅れてやってきた母方の叔母の言葉に俺は、改めて父のことを恨みがましく呪うのだった。


 「今日から、二人で頑張るのよ?」


 言っている意味がわからなかった。二人で?どういうことだ?この子はそっちが引き取るのではないのか?


 「あのね、私たちは年金生活で余裕がないの。その点あなたは働いてるし、歳だってこの子と近い。あなたが適任なの。わかるでしょ?」


 わかるわけがない。俺にとってこの子は他人だ。


 「家族に向かってひどいことを言わないの!大人なんだから、聞き分けのないことを言わないでちょうだい」


 そう言っている目の前の叔母だって、俺を煙たがっていた一人だ。子供であることを否定した人間に、なぜ大人であることを強要されなければいけないのか。


 血を分けた兄妹なのは認めても、家族であることはどうしても認められなかった。


 家族なんかじゃない。


 そう言おうとして、やめた。視界の端で、泣きながらこちらに耳を傾けている少女が映ったから。


 かろうじて残っていた理性が、これ以上彼女を追い詰めることはないと自制をかける。しかし、納得できないのは変わらない。


 そして意識を向けていなければ、おそらく聞こえてはいなかったであろう呟きは、俺を呪うのに十分なものだった。


 「あんたさえいなければ」


 今もなお胸に刺さったまま抜けない痛みと、その言葉の真意を、俺には理解できなかった。





ーーーー


 

 俺は逃げ帰るように、病院を後にした。1秒でも早くあの場から離れたかった。


 恨みがましいあの子の視線が、脳裏にこびりついて離れない。あの日かけた言葉を、彼女は覚えていたのだろうか。


 意趣返しか。それとも純粋に出た言葉なのか判断がつかない。それほどに、彼女のことを俺は知らない。


 一度に整理しきれない事態だ。二人の火葬もしなければいけない。葬式は開くべきか?遺産相続は?1円たりとも求めはしないが、手続きもあるだろう。


 わからないことだらけだ。明日は仕事を休もう。幸い明日は、俺が抜けても特に問題はないはずだ。


 (今日は寝よう。一旦頭を整理しないと)


 家についた俺は、軽くシャワーを浴び早々に眠りについた。明日は朝一で病院に行こう。人が死んだら何をすればいいのか分からないし、そもそも俺の役割かも分からないが、さすがに無関係ではいられないだろう。一応長男だからな。


 時刻は2時過ぎ。あまりよく寝れそうにはないが、こればっかりは仕方ない。


 (ん……なんだ……?誰か来た?)


 電気を消して、やっと眠りにつけた頃。来訪者を知らせるチャイムが鳴った。時計を見ると、4時。カーテンから覗く外はまだ暗い。こんな時間の来場者に、俺は背中に冷や汗が伝うのを感じた。


 (まさか、な)


 ありえないとは思いつつ、頭に浮かんだ可能性を拭いきれない。それどころか、それしかないとまで思えてしまう。


 「マジかよ……」

 「はやく、入れてよ」


 扉越しにかけられる言葉。まともに声を聞いたのは久しぶりだ。覗き穴から、外の様子を伺う。そこには、予想通りの人物がいた。


 如月橙子(きさらぎとうこ)。血を分けた妹がそこにはいた。


 扉を開けるか迷う。どうしてこの場所がわかったのかも謎だし、そもそもその手に持っている大荷物はなんだ?


 まさか、このまま居座るつもりでは?そんな疑問が頭に浮かぶ。悪い予感はよく当たる。今まで嫌というほど実感してきたことだ。


 「寒いんだけど」


 春になり暖かくなってきたとは言え、夜はそれなりに冷える。格好を見るにそれなりに薄着だ。おそらく寒いというのは嘘ではないのだろう。


 扉を開ければ、おそらく取り返しはつかないだろう。1人なのを見るに、おそらく叔母たちは俺に、この子を無理やり押し付けるつもりなのだろう。


 この子は俺にとって異分子だ。どうしても受け入れ違いイレギュラー。


 やっと自立できたと、自信を持って言えそうになってきたのだ。金を稼ぎ、他人に認められ、掴み取った自分の居場所。


 それを侵食されていく感覚。


 腹が立っていた。扉越しに見える、いかにも己の不幸を主張する表情が。この状況がいかにも俺のせいだと、そう恨みがましく向けられる視線に。 

 

 「帰ってくれないか?」

 「帰る場所がない」

 

 あるだろう。その荷物を置いていた場所が、そして両親と住んでいた家が。


 「叔母さんたちは?」

 「私をここまで送って帰った。戻ってこないって」


 やはりか。最悪すぎる。金を渡してカラオケとかで……とも思ったが、彼女はまだ中学生。警察に補導されるのがオチだ。


 個人的に彼女には恨みはない。あの日かけた言葉が、見当違いなものであるのは理解しているし、そんなつもりでもなかったのだから。


 だけどどこまでも、俺にとって彼女は他人なのだ。


 「……一晩だけだ」


 他人とはいえ、この状況の少女を放置するのは憚られた。とりあえず一晩だけだ。今日だけ泊めて、明日改めて叔母に突き返そう。


 扉を開けて、彼女の入室を許す。無言で入室する橙子。お礼の一言も言えないのか、このガキは。


 「お礼ぐらい、言ったらどうなんだ?」


 気が荒んでいたのもあって、思ったことを直接投げかける。


 「別に、当たり前のことでしょ。兄妹なんだから」


 当然のこと?そんなわけがあるか。それにさっき呟いたこと、忘れたとは言わせない。


 「当たり前じゃない。はっきり言うけど、俺は一人暮らしで精一杯だ。明日には叔母さんの所に行ってくれ」 

 「嫌よ。おばあちゃん、私と一緒にいるの嫌がるんだもん」


 それはどうしてだ?というかそんなこと言ったら、俺だって大変なんだぞ。


 「しょうがないでしょ!私だって、どうすればいいのかなんて分からないのよ!!」


 荷物を部屋の隅に置いて、橙子は声を上げる。


 「いきなりこんなことになって、あんたみたいなのに頼るしかなくなって、こっちだって最悪の気分よ!そんな性格だから、いつまでもこんな生活なんじゃないの!?」

 「んなっ、お前な……!?」


 よりによって、俺が必死こいて築いた生活すら否定された。今すぐ外に放り出してやりたい。


 手は出さない。こんな奴のせいで、今の生活を手放すわけにはいかない。


 それにしても、なぜこんなにも当たりが強いのだろうか。確かに仲がいいわけではないが、関係値はそんなにも低くないと言うか、お互い不干渉だったため、そこまで嫌われているとは思わなかった。その事実にショックを受けるわけではないが。


 「今日はもう寝るから」

 「……そうかよ」


 そう言って橙子は、置いてあった毛布に包まり、ソファに横になった。


 それ以上何かを言うのはやめた。どうあれ一晩の辛抱だ。橙子が俺を嫌っている以上、後は叔母を説得するだけだ。それか、一人暮らしを頑張ってもらうかだな。


 (眠れそうにないな)


 もう日が登り始める時間だ。橙子は寝息を立てているが、眠りにつけそうな心境ではない。


 (相続人は俺になるのか?嫌な予感がする。借金とか抱え込んでないだろうな……)


 いかんせん、仕事以外のことはからきしだ。文字通り学がないため、早々に弁護士に頼るのがいいのか?どうすればいいのか分からない。どちらにせよ一度、親方に相談するのがいいだろう。


 夜が明けるまでに、色々と携帯で調べ物をしておく。結局有識者に頼るのが1番という結果に落ち着いた。親方は結婚もしてるし、そう言うことにも詳しいだろうか。


 そうこうしているうちに、時刻は8時過ぎ。俺は親方に電話をかける。


 『おはよう。どうした信也(しんや)』

 「おはようございます、秀悟さん。ちょっと、今日なんですけどーーーー」


 牧瀬秀悟(まきせしゅうご)。花丸建設という俺の勤め先の社長だ。まさに親方気質というか、その懐の太さは社員からも慕われていて、みんなから親方と呼ばれてる。


 俺は大まかな事情と、仕事を休みたい旨を伝えた。


 『そうか。だったら落ち着くまで、こっちは気にしなくてもいいぞ。手続きとかも色々あるだろ。仕事はそれから出てくればいい』

 「ありがとうございます。そうさせてもらいます」


 『何か困ったことがあれば連絡しろ。弁護士も紹介できるしな』

 「正直分からないことばっかなんで、たぶん頼らせてもらいます!」


 『おう。それじゃあな』

 「はい。よろしくお願いします」


 やはり頼りになる人だ。おそらく実際に、頼ることになるだろう。秀悟さんは、ある程度俺の事情も知っている。本当にお世話になっている恩人の一人だ。


 「んん……もう朝?」

 「起きたか」


 電話の声が大きかったか、ソファの上で寝てた橙子が目を覚ました。


 「荷物の準備しろよ。病院行って、そのまま叔母さんの家だからな」

 「それ、まだ言ってるの?」


 何回だって言ってやるさ。そもそもなんで、叔母さんに煙たがられてるんだよ。


 「そんなの知らない。私が聞きたい」

 「聞けよ」


 「そんなことしてなんの意味があるの?」


 意味はあるだろ。仲直りして叔母さんと生活してくれ。


 「嫌よ。私だっておばあちゃんのこと好きじゃないもん」

 「そんなこと言ったら、俺のことだって嫌いだろ」


 どう思われてるかは知らないが、あんたみたいな、なんていうぐらいだ。


 「……なんであんたは、そんな平気でいられるのよ」

 「平気って、何が……」


 問いただそうとする途中、彼女の言葉の意味を理解した。俺と父親の関係をどこまで把握しているかは知らないが、確かに親を亡くした人間にしては、その死に対して淡白に映るかもしれないか。


 そんな疑問が浮かぶということは、両親が俺に対してどんな接し方をしていたか、よく理解してはいないのだろう。当時はまだ小学生で、気づいたら俺は家を出ていただろうし。


 (なんて返したものか……)


 両親の死を悼んでいる子に対して、何もその対象を貶めることを言うこともないか。良くも悪くも、俺は父に似て育ったということだ。決して口角を歪めることはないが。


 「とにかく、病院行くぞ」

 「イヤ。そのまま追い出す気でしょ」


 「わかってるなら、大人しく言うことを聞け」

 「わかってるから、大人しく言うことは聞かない」


 まさにああ言えばこう言う。このままでは平行線を辿る一方だ。


 「どうして俺にこだわる?それこそ、一人暮らしだって……あるだろ」


 言っていて酷だとは自分でも思うが、仕方ないことだと割り切る。というのとも、橙子が俺を目の敵にするような理由が分からないからだ。


 これが昨晩の時点で、塩らしくお願いされていたら、多分俺はこの子を、ここまで頑なに拒絶はしなかったかもしれない。


 他人とはいえ、縁がないとまでは言わない。少なくとも協力的であったことは間違いない。



 「ーーーーお父さんが、あんたを頼れって」



 「……は?」


 

 次いで出た言葉は、予想外のものであった。


 「何か困ったときは、信也を頼れって言ってた」

 「それは、あの人がか?」


 「あの人って言わないで、あんたのお父さんでもあるでしょ」


 俺にとって、父と呼べるものかは分からないが、血のつながりを否定することはできない。



 「なのに、あんたは、泣かなかった」

 


 なるほどな。あの日父親に対して何も思わなかった俺とは違い、親の死を前に泣かない俺に対して、怒りに近い感情を持ったわけだ。


 「お父さんが、頼りにしろって言うから、良い人だと思ってたのに、あんな無表情で、涙を流さないのんて……そんな性格だとは思わなかった」


 直接話したことなんて、ほとんどない。俺がどういう人間か、この子は知らなかったんだろうな。


 両親から俺がどんな人間かは、特別聞かされてなかったようだ。義母あたりは悪く言ってそうだと思ったが。知らないことを話せなかった、それだけの話だったかもしれないが。


 頼れる人間が俺しかいないのに、親の死も悲しむことができない人間だった。精神的に辛いタイミングで、こんな事実に追われたら、暴言の一つも出るかもしれないか。


声を震わせて、橙子は続ける


 「お父さんは、あんたに会いに行くって言ってた」

 「……俺に?」


 なんだそれ、聞いてないぞ。


 「本当は今日、引っ越しの日だった。一緒に住む話をするって、言ってたのに……」


 耐えきれず涙を流す橙子。それでも視線は俺から外さなかった。責めるような鋭い目線と言葉を受け、俺は動揺を隠せない。


 (一緒に暮らす……?ありえないだろ……)


 「家財も売って、あとは新居に移るだけだったのに。私もまだ、行ったことなかったのに……」


 楽しみが、幸せが奪われたとばかりに、恨みがましく睨まれる。だけど俺には、どうしても引っかかる。内見に娘を連れていかないなど、そんなことあるか?


 ともかくそんなこと、絶対にありえない。



 「もう、どうしたらいいのかわかんない」



 とはいえ、目の前の少女が精神的に追い詰められているのは、重々承知した。彼女の言葉を全て信じるわけではない。だけど、昨日の発言ぐらいは水に流すべきかもしれない。それだけの事情はあるようだし、嘘と決めつけるのは、父の言葉の真偽を確かめてからでも遅くないだろう。


 「……とにかく、一度警察に行くぞ」


 一度父たちが住んでいたマンションにも足を運ぶべきだろう。遺書が見つかれば、父の言動の真意がわかるかもしれない。


 「……行きたくない」


 まだ両親の死を受け入れられないのか、同行を拒否する橙子。こうなったら仕方ない。俺1人で行くことにしよう。


 「大人しくしとけよ」

 「……子供扱いしないで」


 無視して外に出る。盗られて困るようなものは部屋には置いてない。流石に自殺したりはしないだろう。

 

 ……しないよな?どうしよう。不安だ。


 「おい、やっぱり一緒に行くぞ。ちゃんと手伝え」


 結局嫌がる橙子を引っ張る形で、無理やり同行させた。本人がいないと、叔母に押し付けるも何もないからな。


 人が死んだら、手続きが沢山あることを知った。正直相続の仕組みなど少しもわかっていない。早々に親方及び弁護士?に頼ることになりそうだ。


 色々とやるべきことはある。とりわけ早急に、ある問題が浮上してきた。



 「お葬式は、絶対にする」


 

 そう言ったのは橙子だった。絶対に譲れないとばかりに、そう主張してきた。


 正直に言って、受け入れ難い主張であった。


 心情的にも思うところはあるし、何よりも金銭面での問題があるし、そもそも両親の知り合いなど知らない。葬式を開いたところで、来客の対応すらできない。葬式を開くのは現実的じゃない。


 いわゆる直葬というものを考えていた。それこそ墓を建てるのにだって金はかかる。もともと共同墓地かどこかに託すつもりでいたのだ。


 「なんでそんな、当たり前のこともしてくれないの!?」


 簡単な話だ。橙子と俺では、当たり前の基準が違うだけ。何も意地悪をしようという訳ではないのだ。大掛かりな葬式を開くのも、立派な墓を建てるのも、経済的な問題でできないというだけ。


 そりゃ、今ある貯金を叩けば可能だ。だけどそしたら、今後の俺の生活はどうなる?現金だと思われたっていい。生きるためには必要なことなのだ。


 そもそも直葬だって、なにも手抜きな訳じゃない。

 葬儀関係の説明を受けた際にも、近年葬式を開かないことは全然珍しいことではないようだし。


 それをこの子は理解してない。先入観が邪魔をして、俺がただ費用を抑えることだけを考えていると思っている。完全に勘違いとは言い切れないが。


 「おばあちゃんだって、開いた方がいいと思うよね!?」


 あろうことか、橙子は嫌いだと言っていた叔母に助けを求めた。叔母を味方につければ、俺が折れるとでも思ったのだろう。しかし残念なことに、橙子の望む反応は得られなかった。


 「それは……信也くんに任せるわ」

 「そんな……なんでよ!なんでみんな、そんなに冷たいの!?」


 叔母としても、葬式は面倒ということか。実の孫に対して、態度がおかしいとは思っていたが、生前の娘との間に何かあったのだろうか。


 「もう、いいよ。やっぱり家に帰る」

 「おい、橙子!?」


 急に駆け出す橙子。このままだとすぐに見失う。それはマズイと、直感が反射的に体を動かす。


 叔母を置いて、俺は橙子を追いかける。相手は中学生の女の子で、こっちは成人済みの上、普段力仕事をしている男。すぐに追いつくことができた。


 「離してよっ!!」

 「こらっ!暴れるな!どこ行くつもりだ!?」


 「帰るの!だから離してよっ!!」


 帰るということは、あのマンションに帰るということか。


 「……だったら、俺も行くから」

 「いやよ!来てどうするつもり!?家族を捨てたくせに、今更どういうつもりよ!!」


 捨てた、か。家を出たことか、今回の件についてかは分からないが、ともかく今この子を1人にするわけにはいかない。おそらく、取り返しのつかないことになる。


 「分かった、じゃあせめて家まで送っていく」

 「……あっそ」


 なし崩しに家の中に入れれば、何かわかることもあるかもしれない。一時的にとはいえ1人にするのは不安だが、今は一度落ち着かせなければいけない。


 マンションはここからかなり近い。荷物を持って歩くこと15分。久しぶりに見た景色に、あまりいい思い出がないことを再認識する。


 エントランスを抜け、エレベーターに乗る。視線に映った橙子の手が震えてるのが見える。


 血の気の引いた表情を見て、嫌な予感が脳裏をよぎる。いや、まさかな。


 そういえば、昨日彼女は言っていた。


 『本当は今日、引っ越しの日だった。一緒に住む話をするって、言ってたのに……』


 その話が本当だとしたら、今頃部屋はもう……?


 「あ、如月さんね?今ちょうど中の確認が終わったところよ?」


 「そん、な……」


 予想は残念ながら、裏切ってはくれなかった。笑顔で大家さんに知らされたのは、既に部屋が橙子の、如月家のものでは無くなっているという事実。


 違和感はあったのだ。橙子が持っていた大荷物。急に用意したにしては、えらくまとまっているなと。つまり元々準備していたもの。引っ越しの準備は本当に済んでいたのだ。


 帰る場所がない、とはそのままの意味だった訳わけだ。


 しかしそうなると、橙子はすでに帰る場所がなくなっていることを知っていたことになる。なのになぜ、この場所に来ようとしたのだ?



 「ほんとに、しんじゃったんだ」


 「あーーーー」



 その一言で、俺は全てを察してしまった。


 なぜこうなると分かっていて、この場所に足を運んだのか?


 そんなの決まっている。信じたくなかったのだ。


 嘘だと言って欲しかった。夢なら覚めて欲しかった。


 両親が死んだ事実を、この子は受け止められていない。ただそれだけの話だったのだ。


 だからここに来た。両親が迎えてくれることを願って。

 

 決して叶わぬと理解していながら。


 それなのに、その悲しみを誰にも共有することができなかった。叔母も、兄でさえもその悲しみを抱いていなかった。


 俺が泣かなかったことを、橙子は責めた。悲しみを背負うには、1人では重すぎたという話。俺がするべきだったのは、感情を抜きにしてでも、彼女の隣にいてあげなければいけなかったのだ。


 それなのに実際に起きたのは、自身の身の置き方についての、醜い押し付け合い。あまりにデリカシーに欠けるやり取りだった。


 「ごめんな、橙子」

 「……あやまら、ないでよっ……そしたら、どうしたらいいかわかんないよっ」


 膝をつき、目線を合わせる。頭に手を置いて、胸に押しつけるように抱きしめてやる。


 ここで嫌味の一つでも言えば、感情を怒りに変換して、俺にぶつけられたのかもしれない。だけど、それじゃだめだ。その感情は、発散ではなく飲み込まなければいけない。


 「ごめんな」

 「やだよ……!なんでしんじゃったの……!おかあさん……おとうさん……!」


 抱擁を受け入れ、背中に腕を回して抱きついてくる橙子。最初からこうしてやれれば、いくらか彼女の心を救うことはできたのだろうか。


 変わらないだろうな、なんて思う。橙子の涙に心を震わせることはあっても、おそらく俺は、父の死に感情を震わせることはできないと思うから。きっと同じことの繰り返し。考えるだけ無駄か。


 「もう、帰ろう」


 泣きじゃくる橙子を抱っこして、俺はマンションを後にした。ここからアパートまでは少し距離があるが、橙子を落ち着かせるためにも、俺はその距離をゆっくりと歩いた。


 アパートに着く頃には、泣き疲れたのか橙子は眠っていた。ベッドに寝かせ、布団をかぶせる。


 「ほっとけないよなぁ」


 俺にとって、この子が他人であることは間違いない。だけどもう、引き返せないレベルで同情してしまった。俺にとってどんな親であれ、彼女にとっては涙するに値する親だった訳だ。それがいなくなり、住む場所もない。おまけに叔母との関係も良くない。このままだと、彼女はずっと独りだ。


 「少しだけ、少しだけだ」


 誰に向けてかもわからない言い訳をこぼし、俺はズレかけ布団を直す。


 前途多難ではあるが仕方ない。そうすると決めた以上は、責任を持って投げ出さないようにしよう。

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