5-6
蘇芳はホルスターから拳銃を取り出し、顔の横に構える。
「銃を構えろ。相手は凶暴な殺人鬼だ。油断したら死体になると思え」
あの地獄のような有様になっていた現場を思い出す。ルルイエ教団の施設と思わしきアパート付近の道路は、夥しい血と脳漿、そして内臓によって舗装されていた。
死体は到底人間にやられたものとは思えない損傷の仕方をしていた。恋が話していた化け物──片須冷にやられたものと考えて間違い無いだろう。一歩間違えれば、蘇芳自身も丸ごと血溜まりに変わる。ガチガチと、奥歯がぶつかり合う音が頭蓋に響いた。
壁を背にして、進行方向を都度注意深く確認しながら進んでいく。
畜生、なんだってこんなことになっちまったんだ。
もうどうにもならないが、そんな泣き言ばかりが頭の中を駆け巡る。
別に刑事ドラマに憧れたわけでもなし、出世にも興味なんぞなかった俺が、なんで化け物相手にこんな前線に立ってるんだよ?
それもこれも恋に目をつけられたからだ。あの夜、下手な発言をせずに、ちゃんと話を聞いていれば──いや、それでも結局は黄衣の王に辿り着いただろう。
結局あの日に夜勤だった時点で詰みだったってことかよ、畜生!
内心で地団駄を踏んだ。
「くそっ、死にたくねえよ……」
元より使命感などというものは持ち合わせていない。警官になったのも大層な動機があったわけではない。ただ馬鹿みたいな大不況で就職に困り、なんとか職にありつこうとしただけの話だ。命を捨てる覚悟などあるはずもない。
ガクガクと震え、今にも崩れそうになる膝をなんとか動かして、階段を登っていく。二階にも気配はなかった。
いるならさっさと出てきてくれ! そう叫びたい気持ちで一杯だった。この先にいるかもしれないと思いながら進まなければならないこの状況に押し潰されて、気が狂いそうになる。
なんだって俺は、こんなことしてるんだ?
蘇芳は自問自答する。脅されているとはいえ、別に命を張れとは言われていない。恋が欲しいのはあくまで情報と公権力だけだ。なら彼女に要求されたものだけを用意して、後は知らぬ存ぜぬを通せばいい。そうすれば良かったのに。
もしそうしていたら──考えるまでもなく、すぐに答えは思いついた。今頃彼女は死んでいたかもしれない。
自分に関係ない、失踪した人間を草の根分けて探す気はない。だが、出会って、顔を知って、言葉を交わした人間が目の前で死に急いでいるのを黙って見ているほど、心を捨てたつもりはなかった。彼女にあれこれいらないことまでしたことと、三ツ角町の路上で自分の腕をカッターで切り裂いたり、大量に医薬品を流し込もうとしたりする子供達に声をかけることは、なにも変わらなかった。
ああ、なんだ。結局自分はそこそこ警官に向いていたし、本当に助けが必要だったのは恋の方だったのだ。不思議と笑えてきた。恐怖で感覚が壊れてきてしまったのかもしれない。
三階、四階と階段を登った。人影ひとつ見当たらなかった。残るは最上階の五階だ。
「間合いがあっても油断するな。どの距離でもなにかしてくると思ってかかれ」
警官達に言う声は震えていた。彼等は無言で了解の意を示したが、内心ではとんだ臆病者だと自分を馬鹿にしているかもしれない。
階段を登り切り、慎重に歩を進める。ふと、微かに血の匂いがした。空気の流れに乗ってきたのだろうか。
まさか、手遅れだったのか?
嫌な予感に、血の気が引いていく。震える体に鞭を打ち、血の匂いを辿って進む。その嫌な臭いは、一つだけ不自然に開いたままのドアから漂っていた。
突撃する、という意志を無言のまま警官達に伝える。彼等も頷いて、態勢を整えた。
蘇芳は一つ大きな深呼吸をする。手の中の拳銃を強く握り直して、前方に突き出すと共に部屋の中に突撃した。
「動くな、警察だ!」
ルルイエ教団の信者がひしめいているだろうという予想に反して、室内はがらんとしていた。しかし、今までぼんやりとしていた血の匂いが、明確に存在を主張し始めた。
室内には椅子が一つ置かれており、それに男が一人、ぐったりと座っている。血の匂いは、明らかに彼から漂っていた。
その傍らにもう一人立っている。窓からの逆光で顔は見えないが、長い髪に細い体付きのシルエットから、それが女だと予想できた。
蘇芳は銃を構えたまま、一歩踏み出す。瞬間、女の姿がぐにゃりと歪んだ。
これが、化け物──!
あらぬ方向に曲がった女のシルエットが鞭のようにしなる。咄嗟に蘇芳は後ずさったが、反応が遅れた警官が数人、直撃を喰らって薙ぎ倒された。
「動くな!」
上擦った声で叫びながら、蘇芳は引き金を引く。それを合図に、女に向かって一斉に発砲が始まった。
ぐじゅ、ぐじゅ、という、粘着質で嫌な音が聞こえて来る。女、否、化け物から血が飛び散る音かと思ったが、それは全く動きを止める様子はない。
化け物が腕を振りかぶるように、今や触手と化した体の一部を振り上げる。その時窓からの光に照らされて、銃弾がその体にめり込み、排出されていくのが見えた。銃撃が、全く効いていない。
唖然とする蘇芳に向かって触手が伸びてきた。なんとか体を捻るが、左腕に衝撃と、灼けるような痛みが走る。同時に背後から悲痛な叫び声が上がった。警官が肩を押さえてのたうち回っている。触手が蘇芳の左腕を掠め、背後の警官の肩を貫いたのだ。
勝ち目がない。そう悟った瞬間、全身から嫌な汗が吹き出してきた。
蘇芳の恐れを感じ取ったのか、化け物が体をうねらせ、津波のように襲いかかってきた。頭上を、底なし沼のように暗い、悍ましい影に覆われる。
終わった、と思った。
世界が白黒になり、スローモーションになる。化け物の体が、蘇芳を頭から押し潰そうと迫って来る。体が、動かない。
目の前が影に覆われた瞬間、世界が静止した。
俺は、死んだのか?
蘇芳は思ったが、体は未だに形を保ってこの世界に存在していた。化け物は蘇芳の眼前で止まっている。
微かに、息を吸うような音が聞こえた。途端、化け物はぐるりと反転し、窓を突き破った。
助かった、と思いかけたが、その先の地上には恋がいることを思い出す。匂いだ、と直感した。化け物は獣のように蘇芳についていた恋の残り香を嗅ぎ取り、近くに彼女がいると判断したのだ。
硝子の破片と共に、化け物が地上に飛び降りる。視界の端に消火器が見えた。それを掴み、窓から下を見下ろす。
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