4-3
非常にいたたまれない空間だった。稽古と言えども、見ていればある程度のあらすじはわかるだろうと思っていたが、それどころではなかった。あらゆるシーンの至る所で犬飼の指摘が入り、望むようなフィードバックが得られないと怒号も飛んだ。稽古は遅々として進まなかった。
自分に対してではなくとも、他者が怒鳴られている場面に出くわすのは居心地が悪い。勤め人時代に何度か経験したと言えども、これは流石に慣れるものではない。
「その悲鳴の上げ方はなんだ、恐怖が籠もっていないじゃないか! 目の前にいるのは怪異だ! ゴキブリじゃないんだぞ!」
犬飼の剣幕はすさまじく、車椅子に座っていることを忘れさせるほどだった。彼はそもそも細身で、立てたとしてもそれほど身長が高い方ではないだろうが、稽古場中に響く怒号を上げる彼の存在感は、天井に届きそうなほどの存在感を放っていた。
時計が正午を指し、休憩時間に入った時には、ただ見ていただけの恋もへたりこみそうになるほど疲弊してしまった。今日の取材は丸一日の予定だったが、急用が入ったと言って逃げてしまおうかとさえ思う。午後もこんな様子なら、手懸かりとしても取材としても得るものはなさそうだ。
「片須さん」
そんなことを考えていると、背後から鈴の音のような声がした。
「よかったらお昼、ご一緒させていただけませんか」
笑顔の紫が立っている。これは願ってもないことだ。
「良いんですか?」
「是非。お話したいこともありますし……」
「勿論、喜んで」
紫と並び、連れ立って歩く。
「何か食べられないものとかありますか? 近くに行きつけのお店があるんですけど……」
「大丈夫です、そこにしましょう」
エレベーターで一階に降りる。ビルを出た途端、近くから大きな足音が聞こえた。誰かが走っているのだろうと思い、ぶつからないようその方向に視線を向ける。
一瞬、目を疑った。深緑色の物体が、一直線に此方に向かって走ってきていた。それは懐に何かを抱えている。そして、二人の目の前に来たかと思うと、その何かを紫に向けて振りかぶった。
咄嗟に紫に覆い被さるようにして盾になる。恋の髪と、肩から背中にかけて、何かがべちゃりと爆ぜてへばりついた。そこでようやく、相手が深緑色の布を被った人間だということが認識できた。相手はそのまま走り去っていく。
恋にへばりついた液体から、生臭い、腐敗臭のような悪臭が広がる。吐きそうになりながらも、犯人を追うべく恋も走り出した。逃げ足が速い。背丈からして、男かもしれない。じりじりと引き離される。
犯人が角を曲がったのが見えた。しかし、恋が角を曲がった時には、もう深緑色の人物は影も形もなくなっていた。それもそのはずで、角を曲がった先の地面には、深緑色の布が捨て置かれていた。
「畜生!」
考えたものだ。布を被っていたという特徴しかなかったのだから、その布を剥がれてしまったらもう追跡するための手懸かりはない。
「片須さん!」
後を追ってきたのか、息を切らせた紫がやってくる。
「すみません、取り逃がしました」
「そんなことより大丈夫ですか? 怪我は?」
「していない、と思います。何かかけられましたけど……ああ、触らない方がいいですよ。えらい臭いがします」
恋はずぶ濡れになった後ろ髪に触れる。その掌に、赤黒い液体がべったりと付着していた。
紫が悲鳴を上げる。それに気づいた周囲の群衆が何事かと寄ってくる。恋の惨状に気づいた男が、うわっと声を上げて飛び退く。
「警察、呼びますか?」
「すみません、お願いします」
顔を真っ青にしながらも訊ねてきた男に言い、紫に視線を戻す。震える彼女の手には、なにか紙片のようなものが握られていた。ビルを出たときは、そんなものは持っていなかったはずだ。
「その紙は?」
「そうだ、これ、見てください。さっきの人が走って行ったあと、私の足下に落ちていたんです」
紙片には一言、「黄衣の王の公演を取りやめるべし」と書かれていた。
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