2-2
一週間後、無事に発行された雑誌を手に、恋は緑川と共に高円寺を歩いていた。
「もうすっかり変わっちゃったのね。変わらないのは駅前のロータリーくらいか」
呟くと、隣を歩く緑川が返す。
「文化芸術特区になってから、一気に人が押し寄せたそうだ。聞くところによると、かなり手厚い補助が受けられるとか。製作費どころか、場合によっては家賃や生活費まで」
急激な人口増加によって、雑貨屋やブティックが立ち並んでいた街は、マンションやアパートが所狭しと建ち並ぶ街に様変わりしていた。
「貧困は才能を潰すからね。国もようやくわかってきたじゃない。昔は国民にびた一文も出したくない風だったのに」
「よっぽどあの流行病が堪えたらしい。本当に、日本そのものが衰退しかねなかったからな」
三年前、新種の病原菌が海外で確認された。悪いことにそれなりに致死率も高く、治癒したとしても場合によっては後遺症も起こすという質の悪いそれはあっという間に世界中に広がり、日本もその魔の手から逃れることはできなかった。
感染症に対する一番の対抗策は、接触しないことだ。他人とは距離を取ることが推奨され、旧態依然の体制を頑として崩さなかった企業も次々とリモートワークを導入した。
人との接触を避けることが美徳のように持て囃された結果、外食や観劇などはまるで悪徳のように扱われるようになった。人命最優先が叫ばれた結果、芸術不要論が世の中に広がった。
「確かに、皆貧乏になっちゃったものね」
ありとあらゆるものを自粛すれば、経済が衰退するのは自明だ。あの歌舞伎町がまるごと廃墟と化してようやく、人々は自分の生活すら危うくなっていたことに気がついた。高円寺から阿佐ヶ谷一帯が文化芸術特区として指定されたのは、そうした過去の反省であった。
「あと少しで、同調圧力によって文化をなくした初の先進国、なんて言われて世界中でいいサンプルにされてたでしょうね」
「ぞっとしない話だ」
話しながら歩いていると、急に目の前が開ける。墓地だ。
「なんでこんな住宅地に墓があるのよ、びっくりした」
「だから、人口が増えたんだよ。住宅は必要だが、墓地をひっくり返してどこかにやってしまうわけにはいかないだろう」
「それにしたって、もうちょっとなんとかならなかったの?」
「それより、そろそろ営業開始の時間じゃないのか」
緑川が腕時計に目を落とす。今日の本来の目的は、黒木カズラの個展だ。情報によると、今日は黒木本人が在廊する予定になっている。
急遽記事を書くことになったために、記事の掲載許可以外碌なコンタクトさえ取れていなかった。突然のことを詫びると共に、礼として客になろうというわけだ。勿論、恋が個人的に行きたかったという理由もあるが。
しかしギャラリーカフェの営業時間よりも前に到着してしまったため、恋の希望で周囲を探索していた。なにせ恋が最後にここに来たのは、もう三年も前のことだ。
「本当だ、もうこんな時間。ついつい遠くまで来ちゃった」
「こっちの道を進めば近くの通りまで出られる」
それなりに土地勘があるらしい緑川について歩くと、懐かしい店が恋の目に止まった。
「ここ、残ってたんだ」
「今度はどうした」
「この水煙草屋、昔よく通ってたの」
三年前、当時住んでいた家から決して近くはなかったが、足繁く通った場所だ。
「流行病のせいで経営が厳しいって噂は聞いてたけど、生き延びたんだ。よかった。この店のおかげでようやく現在地がわかったわ」
「ずっとわかってなかったのか」
「仕方ないじゃない。もう三年経ってるんだから」
ギャラリーカフェはメインの大通りを抜けて、更に一本小道を入った所にあった。予め此処にあると言われていなければ、店があるとも気がつかないような場所だ。小さな木製のドアを開けると、思った以上に狭い空間が二人を出迎えた。
狭い部屋を構成する壁に所狭しと額縁に入れられた作品が飾られている。店内には三組のテーブルと椅子が置かれており、一番奥の席には、縮こまる様にして黒づくめの青年が座っていた。
「黒木先生ですか?」
恋が声をかけると、青年は肩をびくつかせて見上げてきた。軍帽に似せられた革の帽子の下から、ぎょろりとした目が覗いている。
「先日記事を書かせていただいた、片須です」
「あ……あの、その節は、大変、お世話になりました……」
まるで怯えた小動物が震えているかのように、何度も頭を下げる。依頼文に対する返事は素っ気ないように感じたが、どうやら単純に人と接するのが苦手らしい。
緑川のことも紹介して席に着く。店の主人が三人分の珈琲をテーブルに置いた。
「先日は突然の話で大変失礼いたしました。先生のご協力のおかげで、無事に雑誌を発行することができました」
緑川が切り出すと、またしても何度も頭を下げながら黒木は言う。
「こちらこそ……。僕も、何度も読んだ雑誌ですから……まさか、自分が掲載されるなんて……とても、嬉しい、です」
革製のマスクで顔の下半分を覆っているせいで、ただでさえおどおどと喋っている声が非常に聞こえづらい。しかし、こういうタイプはこちらが聞き取りづらいと思っていることを察すると、萎縮して余計に喋れなくなることが多い。表には出さないように努めながら、細心の注意を払って耳を傾ける。
「先生のお話は片須から伺いました。大学卒業と同時に漫画家としてデビューされたそうですね」
「運が、良かっただけです」
「でも、あの有名青年誌に既に四本も掲載されているじゃないですか」
緑川の言葉に、彼は悲しそうに顔を歪める。
「逆に言えば、連載できるほどの実力ではないってことです……。もう何本もネタは上げているんですけど……全然、会議に通らなくて……。今だって、絵だけで生活できてるわけじゃないし……」
あまり大柄ではない彼の体格が、縮こまって更に小さく見える。
緑川が珈琲を啜った。恋には「やり辛い」という心の声が聞こえる。仕方なく空気を変えようと、恋は席を立った。本当は話が終わってからゆっくりと展示品を見たかったのだが、今はこれが最適解だろう。
「これは?」
本棚の上に、紐で綴じられた紙の束が置かれている。
「あ……それは、賞は獲ったんですけど……掲載はされていない作品です」
「未公開原稿ってことですね。すごい、貴重品だわ」
漫画の原稿など普段目にすることが無い。雑誌やネット媒体で見る漫画とは趣が違う、生の絵を感じられるような気がした。
ストーリーは、うだつの上がらない主人公が偶然に不思議なアイテムを手に入れ、それによって一時は幸福になるが、やがて節度を失い身を滅ぼす──という、特に目新しいものではない。だが、執念を感じる程の細かい描き込みと、力強いタッチが主人公が滅びる様を迫力のあるものにしている。
「本当に、すごい迫力」
いつの間にか隣に立っていた緑川にも、暗に「読め」と告げたつもりで原稿を手渡す。緑川が頁を開いたのと同時に、黒木がぽつりと言った。
「片須さんに褒められて、僕、間違ってなかったんだなって、思えたんです」
「創作に正解も不正解もありませんわ」
反射的に返してしまい、しまった、と後悔する。若い漫画家は、編集者と方向性が合わなかったり、意に沿わない修正を求められたりと苦労が絶えないというのは有名な話だ。
黒木は珈琲のカップを両手で持ったまま、目を見開いて恋を見ている。
「すみません、部外者が好き勝手言ってしまって」
「いえ、あの……嬉しくて……。僕、最近、否定されてばかりだったから……そんなこと言って貰えたの、久しぶりで……」
そこで初めて、彼は少し笑った。
「僕、もっと自分の強みを伸ばそうと思います……もっと練習します……」
失言をしたかと思ったが、少しだけでも彼の心が楽になったようで良かった。若いアーティストは特に悩みが尽きないものだ。
それから一通り作品を見て、二人は店を後にした。
「なんだか疲れた。やり辛い相手だったよ」
緑川が心底くたびれたと言うように呟いた。
「作品はどう思った?」
「とても素晴らしいと思う。君が記事で書いていたように、読ませる力がある。上手くいかないのは、本人のあの態度にありそうだ」
「まあ、あんなに自信なさげじゃね。もっと堂々とできればいいんだけど」
会話は、電話の呼び出し音によって中断された。鳴ったのは恋の携帯だ。相手を見ると、
「ごめん、先に帰ってて」
緑川に告げて電話に出る。
「この前の死体遺棄事件についてだ」
開口一番、不機嫌そうな声が飛んでくる。
「例の店の男を問い詰めたらすぐに白状したよ。孕ませた女が結婚しろって詰め寄ってきたそうだ」
「だから殺したの?」
「いや、そいつは殺しはしてない。その女の扱いに困って、店の上の奴に相談したらしい。それきり、奴は女が死んでたことすら知らなかった」
「店の上役は見つかったの?」
「それについて、お前に聞きたいことがある」
蘇芳の声のトーンがもう一段階落ちる。
「店に踏み込んだら、上の連中はもう逃げた後だった。わかったのは名前だけなんだが、そいつの名前が……
頭を殴られたかと勘違いする衝撃だった。あまりのことに声も言葉も出ず、思考ごとフリーズする。
「おい、聞いてんのか」
「聞いてる」
思わず声が上擦る。
「まさか、身内なのか?」
「……身内じゃないわ」
「じゃあなんだ? まさか偶然だとか言うんじゃねえだろうな」
「ごめんなさい、少し落ち着きたい。また連絡するから」
おい、と何事か言いつのる蘇芳を無視して、一方的に電話を切る。今の精神状態では、とても冷静な判断ができない。
「おい」
肩に手を置かれて、思わず飛び退きそうになる。まだ、緑川はそこにいた。
「帰っててって言ったでしょ」
「帰ろうとしたが、なにかただならぬ感じがしたからな。大丈夫か、顔色が悪い」
「なんでもない」
動揺のせいで、つい突っけんどんな言い方になってしまう。
「敢えて聞き出すことはしないが……協力はする。そういう約束だからな」
「そうして。帰りましょ」
言い放ってから、礼を言うべきだったと後悔する。だが、内心の動揺が言動を攻撃的にする。これ以上はなにも言わない方が良いと思い、恋も黙った。
何故今更「あれ」は、恋の名字を名乗りだしたのだろう。頭の中はそれでいっぱいだった。
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