第73話 失った色、失った光

 リビングのソファに腰を下ろす。

 ああ。また一人になっちゃった。しばらく涙が流れるに任せていた。泣き声が、からっぽの家に響く。

 リビングの景色も、1年半前とは違う。

 ここに置いていた教室の生徒さんたちのミニチュアがないからだ。


 圭さんの裏切りにあった後。

 私はミニチュアを見るだけで、吐き気に襲われるようになってしまった。

 何度もトイレに駆け込む私を、心は黙って介抱してくれた。トイレの床にうずくまって泣きじゃくる私のことを、心は優しく抱きしめてくれて。

 そんな状態だから、生徒さんのミニチュアは持って帰ってもらった。


 井島さんたちには詳細を話さずに、しばらく教室を休みたいと伝えた。

 たぶん、井島さんは圭さんの騒動のことを知っていたんじゃないかな。半年教室を休んだ後、「オンラインで再開するのはどうか」と提案してくれた。迷ったけど、お金を稼がないと生活できない。パソコンの画面越しならミニチュアを見られるから、今のところ、何とかなってる。老人ホームのワークショップは、フェイドアウトしちゃったけど。


 ひとしきり泣いた後、心が置いて行ったミニチュアをしまうために、自分の部屋に行く。

 部屋中に飾ってあったミニチュアは、今はすべてクローゼットの中だ。机の上にも、何もない。作業道具もすべてしまってある。

 私はもう、ミニチュアを作る道具に触ることもできなくなってしまったんだ。

 今まで、どんなに辛いことがあっても、傷つくことがあっても、ミニチュアを作ることで何とか乗り越えて来たんだ。それは現実逃避になるかもしれない。それでも、自分を保っていられる唯一の手段だった。

 その時間を失ってしまった。


 樹脂粘土を触るだけで動悸が激しくなって、デザインカッターを持つと手が震えて。

 あの時の、圭さんの顔。

 得意満面で、私からすべてを奪ったことなんて、何とも思ってなかった。私を踏み台にして、切り捨てることなんて、呼吸をするぐらい簡単なことだって感じで。

 そして、無邪気に話しかけた私に対して、動揺していた佐倉さん。その腕には、圭さんとの赤ちゃんを抱いていて。

 全部、知ってたんだろうな。私が圭さんの手伝いをしてたことも、圭さんと深い仲になったことも、圭さんが私のアイデアを盗んだことも。それでも圭さんがコンテストで賞を取るためならって目を瞑ったのか……。


 あの光景がフラッシュバックすると、吐き気がこみあげてきて、作業なんてできない。

 二人とも、何も気づいてない私をバカみたいって、陰で笑ってたんだろうか。

 ミニチュアは、私のすべてだった。

 なのに、今は、私を苦しめる存在でしかない。

 音楽を聴きながら、一人で実況中継しながら作ってたあのころは、もう戻って来ない。

 あの二人は、私からすべてを奪ってしまったんだ。


 

 あの騒動の後は、いろんなことがゴチャゴチャ起きて、大変だった。

 南沢さんと編集者の牧野さんに事情を話すと、既にミニチュアの撮影も終わって、カバーが決まった段階だったから、編集部は大騒ぎになった。

 これは、だいぶ経ってから聞いたけど、圭さんの作品に差し替えようって意見も出てたみたい。だけど、南沢さんと牧野さんで、どこかで展示していた圭さんの作品を観に行ったら、あまりにも出来が悪すぎて絶句して、「これはカバーに使えるレベルじゃない」って判断したんだって。


 二人で圭さんを問い詰めても、「葵ちゃんが僕のを盗作したんでしょ」「僕が盗作したって証拠、あるんですか? こっちが訴訟してもいいんですよ」とか、しらを切られたみたい。

 その横に、佐倉さんと赤ちゃんもいたって聞いた時は、今すぐ記憶喪失になって、何もかも忘れてしまいたいって思った。


 圭さん、あの夜、優しくしてくれたのに……みんなみんな、作品を盗むためだったなんて。

 どうして? 一緒に作品を考えて、作ってたのに。どうして、あの作品を盗んだの? タイトルまで一緒なんて。

 私が偉そうに意見したのが気に入らなかった? お酒をやめてほしいって言ったから? それとも、私の仕事がうまくいってたから? どうして? どうして、あんなひどいことをしたの?

 私、初めてだったのに。初めて、男の人に。

 こんな痛み。体が切り裂かれるような激しい痛み。いつか消えるなんて、思えないよ。


 純子さんも信彦さんも、心も、裁判になった時は、私の作品のほうが先だったって証言してくれるって言ってくれたけど。私にはもう、そこまで闘う気力がなくて。

 心は激怒して、本気で圭さんのところに乗り込もうとしてた。純子さんと信彦さんが必死で止めてたけど。

 で、結局、イラストレーターさんにカバーのイラストを描いてもらうことになった。

「後藤さんのミニチュアがこの作品にはピッタリだったのに。ホントに許せない!」

 穏やかな南沢さんが泣いて悔しがってたのが、せめてもの救いだったかも。


 けど、南沢さんは怒りが収まらなかったみたいで、SNSで「カバーで使うはずだった作品を盗作されて使えなくなってしまった。とても美しい、ユイカの物語にピッタリなミニチュアだったのに……許せない」ってつぶやいた。

 圭さんの名前を出さなかったけど、そのつぶやきは、あっという間に拡散された。

 大勢のファンから「誰が盗作したんですか?」って聞かれて、「あるコンテストで優勝した作品」って書いちゃったから、すぐにネット民に圭さんを特定された。


 それだけじゃない。そのタイミングで、「望月圭の作品作りを手伝った」って名乗り出る人が何人も現れたんだ。

 圭さんは、クラウドソーシングでミニチュアを作れる人を20人ぐらい募ったみたい。「管楽器を作れる人」「椅子を作れる人」って感じで。

 いろんな人が短期間で作ったからコンテストには間に合った。でも、仕上がりがバラバラだったのはそのせいだったんだ。

 圭さんは偽名を使って発注したらしいけど、ネットで作品の画像が出回ってたから、「あ、これ、自分が作ったミニチュアだ」ってすぐに分かったみたい。


 最初、圭さんは全部自分で作ったって誤魔化そうとしたけど、圭さんに送る前に自分のミニチュアを写真に撮っていた人が何人もいて、圭さんのミニチュアと照らし合わせて、「同一作品だ」ってなって。

 クリエイター展の事務局にもそれが伝わって、結局、大賞はなかったことになったんだ。

 圭さんはいろんなメディアからバッシング受けて。

 再び、姿を消した。今はどこでどんな生活を送ってるのか、分からない。



 南沢さんには、「次の作品こそ、後藤さんのミニチュアをカバーに使いたい」って力説されたけど、半年前に出版された新作は、普通のイラストのカバーだ。写真集の話なんて、消え去ってしまった。

 私はすべてを失ってしまったんだ。

 あの日から、私の世界はずっと色あせて見える。光も色も、すべて失ってしまったようで。


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