第9話 別れの日
それから話は怒涛の如く進んでいって、私はおばあちゃんの家でしばらく暮らすことになった。おばあちゃんの家はうちから近いから、今まで通り学校にも通える。
お父さんも起業の準備で忙しくて、私の世話を投げた。ためらいなく、ポーンとね。
おばあちゃんは、「あなたたち、葵の親でしょ? 親なら、子育てが一番じゃないの? 仕事のほうが娘よりも大事なわけ?」と激怒してくれた。それだけが、唯一の救いだった。
お母さんは私の目の前で「葵の生活費は振り込むから」と平然と言って、おばあちゃんは泣きながら怒っていた。
「私の育て方が悪かった。こんな薄情な子になるなんて。あんたは、なんで、そんな風になっちゃったの?」
おばあちゃんがなじっても、お母さんは興味なさそうに目をそらしていた。
「葵ちゃん、ごめんなさいね。私が理沙の育て方を間違ったばかりに、こんなことになって」
おばあちゃんに頭を下げられて、私は却ってオロオロしてしまった。
「この子、自分の意見を全然言わないんだもん。かわいくないっていうか、なんか、愛情わかないんだよね」
この言葉を聞いて、おばあちゃんはお母さんの頬をひっぱたいた。
「あんたこそ、私の子供じゃないっ。もう二度と、この家の敷居を跨がないで!」
お母さんはおばあちゃんを睨んで、家を出て行ってしまった。
私はもう、泣く気にさえなれなかった。うつむいて、ミニチュアのことを考えていた。
市原さんのおばあさんの家、畳の質感をどうやって出そうかな。こたつの布団はどうしようかな。
そう。ミニチュアのことを考えていたら、何も感じないから大丈夫。
何も、感じないから、大丈夫。
スマホのケースにつけているミニチュアの焼きそばパックをいじりながら、私は懸命に目の前の光景から意識をそらせようとしていた。
この焼きそばは、なかなかうまくできてるよね、うん。
「あなたも葵の父親でしょ? 起業とか何とか言って、子育てから逃げてるだけじゃない」
「いや、僕は男だから、年頃の娘をどう育てたらいいか分からなくて」
「そんなの最初から分かってる父親なんて、世の中にいるわけないでしょ? 二人目や三人目を育てたのならともかく、一人目の娘の親なら、誰も同じように分からなくて、手探りしながら育ててるんだからっ」
「まあ、そういう考えもありますよね」
おばあちゃんが必死に説得する言葉を、お父さんは軽く受け流す。おばあちゃんは目を吊り上げた。
「あなたも、前々から表面的に葵に優しいことを言うだけで、深く関わろうとはしないわよね。イクメンをポーズでやってるだけって言うか。楽なところだけしか関わろうとしてないじゃない。理沙と同じで、自分のことしか考えてない。親の責任なんて、まったく考えてないんでしょ?」
おばあちゃんの言葉に、お父さんは「親の責任ってなんですかねえ……」と聞き取れないような声でつぶやいた。空になったグラスを手に持って、ずっといじってる。
おばあちゃんは深いため息をついた。
「もういいわよ。葵ちゃんは、私が責任を持って育てる。高校を卒業させる。あなた達に任せてたら、葵ちゃんは……」
そこで言葉を切ると、おばあちゃんは唇をキュッと結んだ。わなわなと震えている。
お父さんはしばらく何かを言おうとしていたみたいだけど、言葉が見つからなかったのか、黙って頭を下げた。
焼きそばのミニチュア、また作ろうかな。今度は、もっと上手に作れる気がする。うん。そうだよね。
6月下旬、お母さんはタイに向けて出発することになった。
羽田空港の国際線のターミナルに、私はおばあちゃんと一緒に見送りに行った。お父さんは見送る気になれないらしく、お母さんが家を出る時も、無言で目を合わせようともしなかった。お母さんも、お父さんをガン無視してた。
あー。もうダメなんだな、うちは。
きっと、もう戻れない。あの夏。ミニチュアハウスを作りながら、はしゃいでいた、あの夏には、もう、戻れないんだな。
羽田に向かう電車の中でも、お母さんはずっとスマホを見ていて、何も話そうとしない。おばあちゃんが気を使って、時折話しかけてくれた。
「私が海外に行ったのは、新婚旅行でハワイに行ったときぐらいねえ。あのころは海外旅行に行くのはまだ珍しかったから、大きなスーツケースに荷物をたくさん詰めてねえ」
おばあちゃんはたぶん、私がほとんど話を聞いてないことに気づいてる。それでも、話し続けている。
お母さんの前には、大きなスーツケース。
空港の駅に着くと、お母さんは背筋をピンと伸ばして、ヒールをカツカツ言わせながら、さっそうとスーツケースを引いて歩く。パンツスーツが似合っていて、いかにも「仕事ができる女」って感じ。相変わらず、カッコいいなあ。
今だってお母さんは、何の迷いもなく目的地に向かってる。私とお父さんのことなんて、あっさりと切り捨てて。
空港には、お母さんの会社の人が10人ぐらい来ていた。
「後藤先輩、しばらく会えないなんて、寂しすぎます」
「持田は誰からも好かれるタイプだから、大丈夫。いいチームをつくってね」
「課長、向こうのスタッフからも怖がられるんじゃないですか?」
「志村あ、言ってくれるじゃない。志村は、私至上、一番怒った部下だから」
会社の人とのやりとりを見ていると、お母さんはみんなから好かれて、頼りにされているのが分かる。女の人も、男の人も、みんなお母さんが好きなんだ。
「後藤さんのご家族でいらっしゃいますか」
50代ぐらいの白髪が目立つ男の人が、愛想よく話しかけてきた。
「は、ハイ」
「もしかして、後藤さんの娘さん?」
「ハイ」
「そうですか。後藤さんから、あなたのお話をよく聞いてます。成績が優秀で、県内でもトップクラスだそうですね。生徒会の役員もされているんですよね」
「え???」
「絵画のコンクールで大賞を取ったことがあるとか、英語の論文のコンクールで優秀賞をとったとか、さすが後藤さんの娘さんだって、社内でも評判ですよ。すごすぎる娘さんだって」
「……」
それ、誰のこと?
中学の時、絵画のコンクールには一度だけ入選したけど、佳作だったし。
生徒会の役員なんて、今までの人生で一度もしたことないよ??? ってか、私にそんなこと、できるわけないし。
お母さん、私のこと、会社でそんな風に言ってるの?
私は、つま先がジンとしびれたような感覚になった。
「課長、普段は料理はあんまりしないけど、運動会のお弁当は張りきって作ってるって言ってましたよ。お弁当の写真も見せてくれましたよね」
部下らしき女の人も笑顔で話しかけてくる。
私はおばあちゃんと思わず顔を見合わせてしまった。
お母さんが学校のイベントでお弁当を作ってくれたことなんて、一度も、ない。
小学校1年生の時、運動会の朝、お母さんは何度起こしても起きてくれなかった。お父さんは確か、出張でいなかったのかな。
どうしよう。私だけ、お弁当はナシ?
どうしよう、どうしようってパニクったまま学校に行って、運動会が始まって。私は同じ組の応援なんてしてられなくて、膝を抱えてうずくまっていた。
ふいに、背中をトントンと叩かれて、振り向くとおばあちゃんが「どうしたの?」と声をかけてくれて。私は半ベソをかきながら、訴えたんだ。
事情を聴いたおばあちゃんは顔色を変えて、そのころ私たちが住んでたアパートに飛んで行った。
そして、お昼までにお弁当を作って持って来てくれた。
お昼はおばあちゃんと一緒に食べた。
「理沙は何度起こしても起きなくて。ごめんなさいね、こんなお弁当で」
おばあちゃんは、家にある材料で急いで作ってくれたんだろう。
おにぎりに、ソーセージに卵焼き。ブロッコリーとからあげは、たぶん冷凍食品だ。
まわりはみんな親と一緒に食べていて、顔が書いてあるおにぎりや、目や口がついているウズラ卵とか、かわいらしいお弁当ばかりだった。私のお弁当はと言うと、リンゴウサギが唯一、かわいらしいって言えるかな。
前の晩は「お弁当作るから」って言っていたお母さんが、起きようともしなかった事実に打ちのめされて、私は泣きべそをかきながらお弁当を食べた記憶がある。
そんなんだから、初めての小学校の運動会の成績は散々だった。
苦い、苦い想い出。
その後、おばあちゃんが見かねて一緒に暮らそうと言ってくれたんだ。お母さんには私の面倒を見れないって気づいて。
お弁当の写真って、ネットでどこかから拾ったんだろうけど。そんなことまでウソついてるなんて。
「あの子は、まったく」
おばあちゃんは小さくため息をつく。
「課長、いいお母さんじゃないですかあ」
「私、課長みたいにバリキャリになるなんて、ムリ~」
「娘さんもすごすぎる。うちの子とは全然違うなあ」
みんなの言葉に、お母さんは「まあ、そんな、たいしたことはしてないから」と、ちょっと気まずそうな感じ。
私はいつの間にか、自分の手を強く握りしめていた。爪が掌に食い込むぐらいに。
「でも、偉いと思いますよ。高校生なのに、お母さんが海外に赴任するのを快く送り出してくれたって聞いて、親離れできてるんだなあって思って。うちの子は社会人なのに、いまだに親のすねをかじってますから。向こうの学校に転校することも考えてるんですか?」
上司らしきおじさんに聞かれて、私はうつむくしかなかった。あまりにもあんまりで、とっさに話を合わすことなんて、できない。
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