第3話
急にいろんなことが不安になり始めた。心臓もばくばくと大きく早く鳴っている。もう空は真っ暗になっていて、夜になっているのが分かる。自分を包む闇が、心の中まで入ってくるようで、不安と恐怖に襲われる。
僕は頭をぶんぶんと振った。怖がっていても仕方がない。どうにかしなければ。夜になったからと言って誰かに襲われるという心配はないけれど、自分の家に帰ることが出来る可能性は一気に減った。まずは自分がどこの誰なのかを思い出さなければいけない。
どうする?警察に行くか?
頭の中にそんな言葉が浮かんだ。まるで他人事のように。でもどこかで他人事のように思っていなければ、冷静な判断なんてできそうになかった。自分のことがわからないことが、こんなに不安だなんて。
「おじさん、まだいたの?」
聞き覚えのある声が、僕の、やかましいほどの心臓の音を破って耳に届いた。振り向くと、街灯の明かりの中に見覚えのある影が佇んでいた。
さっきの少年だ。影の雰囲気と、声でそう思った。ランドセルはもう背負っていない。代わりに今度はショルダーバッグを下げている。バッグにはどこかの学習塾の名前が入っていた。
「もうご飯の時間なんじゃないの?それともまだお仕事してるの?大人って大変なんだね。でも、ご飯は食べた方が良いよ。おなかすくと元気も無くなっちゃうよ?」
少年はそう言いながら僕に近づいてきた。街灯の明かりで顔が見える。これと言って特徴は無いが、何だか懐かしい顔立ちの男の子だった。
「ああ、うん。そんな、時間だよね」
僕はどうにか心を静めて、当たり障りのない返事をした。つもりだった。しかし少年は、どうも腑に落ちないという顔をして首を傾げた。
「お母さん、心配してるよ?」
「おか……うん。そう、かも、しれないね」
そういって僕は苦笑いした。そう言われて改めて考えてみると、困ったことに母親の顔も思い出せない。自分の名前も、年も思い出せないのだから、家族のことが分からなくても当たり前かもしれない。
僕は改めて今の自分のことを分析してみた。見える範囲での自分の服装はスーツだったから、恐らくは社会人だろうと思われる。
僕は自分の掌をじっと見た。皴もシミもない。それなりに若いような気がする。年寄りでは無いだろう。しかし、スーツが新品、と、いうわけでもないから、新入社員というような若さではないと思った。
「おじさん、ホームレス?」
そう言われて、正直どきりとした。反面、少しばかり腹も立った。そして、違和感。でもそれが、自分の希望でないという証拠はない。本当は、そうなのかもしれない。けれど、そうは思いたくはなかった。そう思うのは、そうなりたくないという気持ちの表れだ。
「……いや、そういうわけじゃないけど……」
言いながら財布を出してみた。決して多いというわけでは無いが、それなりに手持ちの金がある。札を出してみると、札自体はくたびれてはいない。中には皺もない綺麗な状態の札もある。ホームレスはそういう札はもたないような気がした。あくまで自分のイメージだけれど。
でも、
「ある意味、そう、なるのかなぁ」
ホーム、レス。家を、失くす。失くしたわけではないと思いたいが、どこだか、分からない、なんて。
「ある意味?」
「うん。ええとね、その……記憶喪失なんだ」
だんだん小さな声になりながらそういうと、少年は目をぱちくりさせた。しん、と、二人の間に沈黙が流れる。
やばい、警戒されたか?と、思った。そもそもこんな小さな子にこんなことを話してなんになると言うのか。警察を呼ばれたら……ある意味それはそれで解決するのかもしれない、とも思った。やっぱり交番が一番か?と、思った時。
「僕の家、来る?今日誰もいないし」
予想外の言葉が返って来た。
「えつ、でも」
「泊まるところないと、困るでしょ?」
「お、親御さんは……」
「いないよ。お父さんは忙しくてめったに帰ってこないし。お母さんは……」
そこまで言って、少年は目に涙を浮かべて唇を噛んだ。死別か、離婚か。あるいは、長期で入院しているのか。とにかく、今の少年の生活範囲にはいないのだろう。そして、少年もそれをさみしいと思っている。そんな感じがした。
「お、せわになろう、かなー」
僕はとにかく少年の涙を止めたくてそういった。
「本当?」
「うん。泊まるところないと、困るし」
そういって笑うと、少年もへへっと言って笑った。目じりには零れそこなった涙が光っていた。それでも、少しでも笑顔になったのなら良かったと、素直に思った。
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