第19話

 レジャー制覇の旅の代償は大きかった。


 精魂尽き果てた僕たちは、一人を除いて這う這うの体で近くのファミレスへと逃げ込み、腰を落ち着けることとした。


「絵凜、明日はまともに動ける気がしない……」

「わ、私は、お花畑が見えた……」


 ぐでっとテーブルに倒れ伏して溶けていく綾芽さんと沖串さん。その疲弊具合は、僕にもよくわかる。今から明日の筋肉痛が恐ろしい。戦々恐々とする僕の隣で、しかし叶守さんだけがいつも通りの無表情でメロンソーダをちゅごごとストローで吸っている。


「絵凜、ココア注いでくる……」

「私も、お紅茶……」


 対面に座る二人が揃って飲み物を注ぎに行った。隣に座る叶守さんは、ストローを咥えてじっと気泡の弾けるメロンソーダを見つめている。その横顔はため息をつきたくなるほどの美しさだけれど、どこか心ここにあらずの様相でもある。


「さすがの叶守さんも疲れた?」


 ゆっくりこちらに顔を向けた叶守さんは、静かに言う。


「少しだけ。朝、十キロ走ってきたからかな」

「そんなに走ってあのパフォーマンスは驚きだね……。でも、自主練は禁止されてたはずでしょ?」

「? 十キロくらいの距離ならウォーミングアップ。自主練にはならない」


 こっわ。


「でも、身体温まってたからはしゃぎすぎて皆を連れまわしちゃった。反省してる」


 イタズラを叱られた子どもみたいにシュンと眉尻を下げる叶守さんもまた愛おしい。


「綾芽さんも沖串さんも、くたくたになるくらい熱中して楽しめたってことだから、気にすることないよ。僕も一度はああいうところで遊んでみたいっていう願いを叶えられて、むしろ感謝してるくらいだしね」


 まさか令和のバックスクリ―ン三連発だったり、ダーツで継ぎ矢だったりを見られるとは思ってもみなかった。そういう意味でも満足してる。

 素直に伝えると、叶守さんはもちもちのほっぺにいささかの色をつけてこちらを見つめた。


 薄い微笑みを添えて一言。


「優しいね。ありがとう」


 あ、しゅき♡


 ……はっ。あぶないあぶない。突発的に告白するところだった。

 このままお喋りを続けていると愛を囁きかねないので、気分をリセットするために僕も飲み物を取ってこよう、と腰を浮かしかけたところだった。


「叶守さん? キリカさんよね?」


 白いブラウスに黒のパンツの風体、薄化粧を施した大人の女性が、偶然見かけたという口調で叶守さんに声をかけた。


「重森さん……」

「こんなところで会えるなんて僥倖ね。今日は部活はお休み?」


 どうやらお知り合いのようだ。女性――重森さんはにこやかに話しかけているが、当の叶守さんは先ほどまでの笑顔もすっかり鳴りを潜めて、硬い表情をしている。姿勢も心なしか重森さんから背けるように変えており、突然の出会いを歓迎はしていない様子だ。


「せっかくのお休みのところ悪いんだけど、少しだけ時間を頂戴。すぐに済むわ」


 有無を言わさず綾芽さんが座っていた席に腰かけた重森さんは、まくしたてるようにしゃべり始める。


「聞いたわよ。あなた、今年のインターハイ出ないつもりだってね? 唐沢が言うには、怪我でもスランプでもないって話じゃない。あなたの実力なら、今年は複数の種目でメダルを狙える位置にあるのに、どうしてそんなもったいないことをするのよ」


 僕の存在はまるっきり無視みたいで居心地が悪い。このまま地蔵でいるのもなあ、と離脱するタイミングを窺っていると、「出たくないからです」と叶守さんが応戦する。


「出たくないって……」言葉を失った重森さんはしかし、「あなたは高校一年生で日本代表になった日本の宝よ。そんな子供みたいな言い訳でせっかくの才能を腐らせるの?」

「どうするのかは自分で決めます」

「あなたには多くの人が期待してるの。私たち柏丘陸上部OGだけじゃないわ、今では陸上界全体が、新しいスターの誕生を待ち望んでる。あなたにもわかるでしょう? あなたの決断は皆の期待を裏切ることになるのよ。せめて、なにか理由だけでも教えてくれないと」


 険悪になりつつある雰囲気の中で、叶守さんはなにも語らない。語りたくないのか、語る意味がないと諦めているのか。ともかく、視線はメロンソーダの方に固定されていて、対話の意志は欠片もないようだった。


「はあ……」


 重森さんはこれ見よがしにため息をついてから、僕にキツイ視線を向ける。あ、僕の存在には気付いていらっしゃったんですね。


「やっぱり、この男なのね」

「はい?」

「あなたが、キリカさんを誑かしたんでしょう!?」

「誑かす!?」


 僕にそんなことができるだなんて買いかぶりも甚だしい。小学生の頃には校庭に咲いていたガーベラの花弁に触れたら、その翌日には枯れていたという逸話すら残っているのに。僕に誑かされる動植物がいるというのなら是非とも目の前に連れてきてほしいくらいだ。絶対に誑かせない男vs絶対に誑かされる動植物で世紀の対決を開催してやる。


「記者をやってるとよく見るのよね、顔がいいだけの男に騙される女の子。

 ――プロに入ればトリプルスリーは確実と噂されていた北信越の牛若丸。

 ――重量挙げ界隈では彼女に持ち上げられない者はなかった東北のキングコング。

 ――背中には羽が生えていると言われたエーススパイカー、沖縄の隼。

 みんな、将来的にそれぞれの競技で日本を背負って立つと言われた逸材よ。その全員、ろくでもない男に弄ばれて、最後には捨てられた」


 こぶしを握り締めて憤懣やるかたない様子の重森さんは、強い輝きを秘めた瞳で叶守さんを見る。


「あなたは鍛錬を積めば、必ず世界のトップに立てる。そのためには遊んでいる暇はないの。男なんかにうつつを抜かすのは時間の無駄よ。わかるわね、キリカさん? いいえ、あえてこう呼ばせてもらうわ――史上最速の韋駄天」


 し、史上最速の韋駄天……?


 異名が付くほどだったんだ、と感心するとともに、小一時間前に叶守さんが為した数々の偉業を思えば当然だと頷いている自分もいる。まあ、異名がダサい気もするけど。


「そのダサい呼び名やめてください」

 だよね。

「いいえ、あなたはその呼び名にふさわしい力を持っている。だから早く目を覚まして。こんな、顔だけが取り柄です、みたいなこんな男……やだあなた本当にカッコいいわね。こんなにイイ男初めて見た。よかったら今度お食事でもどう?」


 世紀の対決、僕の勝ちです。

 心の中で呆れながら、僕はようやく得心がいく。この人はスポーツ紙かなにかの記者で、母校の後輩である叶守さんの才能に惚れ込んでいるんだ。だからこれだけ厳しい言葉をかけて実力を発揮させようとしているのか。


「彼は関係ない。これは、私の問題」

 ぽつりと言った叶守さんに対して、重森さんは深く頷いた。

「そう。まあ、そうよね。陸上で結果を出した後ならまだしも、今のあなたに寄ってくる男なんているわけないものね」


 かっちーん。

 もう我慢ならないね。僕は机をたたいて立ち上がる。


「お言葉ですけど、僕は叶守さんと仲良くなりたくて今日は一緒にお出かけしに来たんです。今の言葉、撤回してください」


 綾芽さんと沖串さんももちろんそうなんだけど、ここであえてそれは言わない。


「へえ? 随分と鼻っ柱の強そうな男じゃない。嫌いじゃないわ。じゃあ聞くけど、キリカさんのどんなところがあなたに仲良くしたいと思わせるわけ?」

「普段は表情に乏しいけれど、時折見せてくれる無邪気な笑顔!」

「ほかは?」

「メロンソーダにストローで息を吹き込んでぶくぶくさせて遊んじゃうお茶目なところ!」

「ほかは?」

「遊びにも部活にも真剣に取り組むその姿勢!」

「やめて」


 袖を強く引かれて僕は無理やり着席させられる。僕はただ叶守さんのいいところを列挙していただけなのに、どうして止められたんだろう。顔を赤くしながら叶守さんが言うことには、


「恥ずかしい」

「あ……ご、ごめん」


 熱くなってしまったけどここはファミレスだ。他のお客さんの目もある。周りを見ればこちらをちらちらと気にしている様子の人がちらほらといる。僕は手を合わせて叶守さんに頭を下げる。


「ふぅん……」こちらを見定めるように遠目に観察するのは重森さんだ。「そうね。キリカさんに半端な気持ちで近づいてるわけじゃないのは今のでわかったわ。でもね、キリカさんが自分の問題って言ったのは――」

「ねー聞いてよ王子! 絵凜たち、王子のことをお金でレンタルしてると思われてるんだけど……え、あれ?」


 飲み物を手に憤慨した様子の沖串さんと綾芽さんが戻ってきた。戻ってくるのが遅くて気になっていたけど、どうやら誰かに話しかけられていたみたいだ。二人はいつのまにか占領されている自席を前に、立ち往生している。


「ごめんなさいね」重森さんは沖串さんたちに頭を下げて、すぐに立ち上がる。「また今度、話を聞かせて頂戴。記者として、またあなたの記事を書きたいと思ってるの」


 叶守さんはうんともすんとも言わず、メロンソーダを飲み干して席を立ってしまった。それを見送って、重森さんは僕に名刺を差し出して帰っていった。海東スポーツ記者・重森寧々。


 海東スポーツ……。


「知り合いの人?」

「き、記者さん、って言ってました、けど」


 綾芽さんと沖串さんが対面に座りながらも、重森さんの立ち去ったほうをずっと見ていた。


「叶守さんのね」


 二人は納得したようだった。やっぱり二人とも叶守さんが有名人なのは承知しているのか。ま、そりゃそうだよね。お昼休みに集まってご飯を食べていたくらいだし、三人の様子を見れば付き合いが長いことはわかる。


 そうだ、と閃く。二人なら、叶守さんが大会に出たがらない理由を知っているかも。


「あのさ、」


 言いかけたところで、叶守さんがストローを咥えて下を向いている姿を思い出す。叶守さんが話したがらなかったことを、本人のいないところで聞き出すのは卑怯な気がする。それで聞き出せたとして、唐沢先生にそれを説明するのもまた後ろめたい。


 口を開いたままで制止する僕に首を傾げる綾芽さんと沖串さん。


「ごめん。やっぱりなんでもないや」

「そう? それより聞いてよ王子! さっきも言ったけど、王子がレンタル彼氏だと思われてるの! 一時間いくらなんですか、って聞かれちゃったから違います、って突っぱねたんだけど――」


 僕は沖串さんの話を聞きながら、叶守さんのことをずっと考えていた。


 *


 あれからファミレスにはしばらく滞在していたけれど、疲労困憊の綾芽さんがうつらうつらとしたところで、早々に解散することとなった。沖串さんはしきりに「また一緒にでかけようね、王子。これ一回きりとかなしだからね」と念押ししてきたので、僕も「是非やろう!」と答えて解散となった。


 一緒に車に乗って帰ろうと誘ったのだけど、護衛の人と一緒は気が引けるのか綾芽さんと沖串さんは固辞して二人で帰っていった。残念。もう少し一緒にいたかったな。


 叶守さんはというと、僕が少しだけ話があると伝えて待ってもらっている。すぐに済む話だ。ファミレス前の花壇の塀に二人で腰かける。


「引き留めてごめんね」

「大丈夫。私も、謝りたかった。変なことに巻きこんじゃったから」

「そのことなんだけど」僕は言葉を選びつつ言う。「重森さんって、海東スポーツの人なんだね」

「そう」叶守さんは自分の赤白のスニーカーを見つめながら言う。「記事、見たんだ?」

「うん、読んだ」記事というのは、盗み聞きしてしまったときに話題に出ていた、日本代表候補選出のネット記事のことだ。「ごめんだけど、コメントもね」


 あのネット記事のコメントには、叶守さんの高校生離れした偉業に純粋に賛辞を送るものも当然あったけれど、多くは写真に映った彼女の容姿を揶揄するものだった。あの時、見知らぬ女子三人が口に出したコメントなんてまだ良いほうで、思わず顔をしかめてしまうくらいの悪口もあった。他人であるはずの僕がそうなのだから、叶守さん本人がどのように受け止めたかなんて、火を見るより明らかだ。


 つまり、と僕は心の中で結論付ける。


「あの記事のせいなんだね」


 叶守さんが顔を上げて、僕を見つめる。


 記事本文では当然、叶守さんの容姿については一言も言及していない。書かれていたのは、彼女が為したことに対する賛辞と、これからの彼女への期待だった。叶守さんはきっと元気づけられたはずだ。でも、問題はそこじゃない。


 想像もつかないくらいすごい人なんて、世の中にごまんといる。それは陸上競技という種目に限ってもそうだ。いくら叶守さんと言えど、いつも結果を出せるわけじゃない。でも、もしも今後活躍したり記録を残すことで、また記事にされて、見た目を揶揄うコメントをされるかもしれない、写真を見た人たちの間で笑い者にされるかもしれない。そう考えたら、誰だってイヤになる。人前に立ちたくなくなる。


 だから叶守さんは、大会に出ることをやめた。

 もう、叶守さんは傷つきたくないんだ。


「叶守さん」


 手を取る。叶守さんはその刹那、逃げるようにして顔を背ける。それでも僕は手を離さない。僕だって恥ずかしいけれど、言葉だけでは伝わらないこともある。僕の誠意を見せるために、いま一度、彼女に触れるのだ。


「誰にどんなことを言われようと、覚えていてほしいんだ。叶守さんはとってもかわいいし、魅力的で神々しさまで感じるほどに綺麗な人だよ。僕が保証する。だから、気を落とさないでほしい」


 陳腐な言葉だったけれど、これは僕の本心だ。この世界の人たちはみんな、これほどまでに綺麗な人を平気でブスだなんだと罵るけれど、その評価は決して正しくない。正しいのはいつだって僕の評価だ。


 だってこの世界の住人は、僕以外みんなブス専なんだから!


 僕の熱い思いは伝わったはずだ。手を繋いだまま、僕は叶守さんの言葉を待つ。

 十秒間、そうしていた。

 はたして叶守さんは、こちらを振り返る。

 彼女の顔に浮かんでいたのは――


「言っていることがよくわからない。あの記事のせい、ってなに?」


 本気(マジ)の疑問顔だった。


「え、あれ、ええ――――っと」予想外の反応にしどろもどろになりながらも僕はなんとか二の矢を継ぐ。「あの、記事のコメントにショックを受けて、大会に出なくなったっていう、そういうこと、だよね……?」

「…………? 私が大会に出ないのは、お姉ちゃんのせい。お姉ちゃんが一年くらい前から、アマ陸上のレースを賭けの対象にし始めたから」


 リカさんは、競馬競輪競艇などの国営のギャンブルに飽き足らず、アブナイ団体が取り仕切る非合法な賭けにも手を出し始めているらしい。その触手はついに妹の叶守さんが選手として出場するアマ陸上にまで及び、実際、叶守さんの勝利一点賭けで懐を温かくしていた時期もあったらしい。そんな姉の所業に嫌気がさした叶守さんは、去年のインターハイを最後に、姉のターゲットが別のものに向くまでは大会出場を自粛することを決めた。あくまで身内のことなので他人には話すことができず、嵐が過ぎ去るのを待つばかりの日々……。


 そういうことらしい。ちなみにネットに転がっている誹謗中傷は、そういうものだと割り切って見ないようにしているので、さほど気にはならないらしい。


「は、恥ずかしい……っ!」


 なんて思い違いをしていたんだ僕は! その場でもんどりうって悶えるけれど、それだけではとても収まらない!


「叶守さん、いっそ僕を殺してくれ!」

「やだ」

「そんな殺生な!」

「だって、嬉しかった。かわいいとか綺麗だって言ってくれる人、これまでいなかったから。だから、大氏くんにはこれからも生きて、私の味方でいてほしい」


 唇をわずかに尖らせた叶守さんに、僕はむせび泣いた。


「か、叶守さん……! マイゴッデス!」


 その慈悲に報いるため、大氏義也は必死に生きます!


 *


 リカさんには、今度なんでもお願いを一つ聞くので、違法賭博から手を引いてほしいと頼んだ。リカさんは鼻息荒くして「なんでもってなんでもスか!?!?!? わかりました今すぐ手を引きますというかもう手を引きましたこれからウチは清廉潔白低リターンのゴミみたいな国営ギャンブルしかしないと誓います!!!!!」と高らかに宣言してくれた。


 そのおかげで(?)、叶守さんは次の大会で無事に100mの日本新記録を打ち立てた。


 海東スポーツの紙面には、タイム表示板を指さしてポーズを取る叶守さんのさわやかな笑顔が載っていた。

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