思い出のホットケーキ
佐楽
雨の喫茶店
窓の外を行き交う人の足はせわしなく靴をしとどに濡らしている。
17時頃からぽつぽつと降りだした雨は勢いを増し、18時頃には警報が出るほどの強い雨になっていた。
こんなことになるならカフェになど寄らず真っ直ぐ帰るのだった。
雨はいつまで強く降るのだろう。 コーヒー一杯では口寂しくなり、メニューを開くとおすすめのメニューとしてホットケーキの写真が載っていた。
今時のふっくらしているパンケーキではなく、家庭でも焼けそうな狐色の平べったいホットケーキだ。 焼くのに少し時間がかかるそうだが、私はすぐに店員を呼びこのシンプルなホットケーキを注文した。
オーダーをとってキッチンへと向かう店員の後ろ姿を見送ると、また外に目をやった。
傘を忘れたのだろうか、もう諦めたように上から下までびしょ濡れになった人が通りすぎていった。
まるで海の中に飛び込んだかのようだ。 古い記憶が甦ってきた。
幼い頃、私は母と二人で暮らしていた。
父親は物心つく前からいなかったためいないことに対して何も思っていなかったが、母はよく私に父親がいないことを謝っていた。
ごめん、ごめんね 謝られる理由のわからない私はそのたびに母に抱きついて、わからないなりに母を慰めていた。
母は大人しくて気の小さい人だった。
何でもすぐ謝る人で、幼心に可哀想な人だなとすら感じているくらいに。
ごめんね 私が悪いの ごめんなさい 私からすれば母は十分立派な人で、気にしすぎるきらいはあったが何もかもきちんとした人だった。 少し潔癖だったのかもしれない。
ちゃんと私を育てなければならない、そのためにはちゃんと働かなければならない。
でも働き手が一人しかいないためどうしても生活は裕福にならない。
母は私が強い不満を抱えているのではないかと不安だったのか、時折近所の喫茶店に私を連れていってはホットケーキを食べさせてくれた。
実際、私は母に不満など抱いておらず無理してホットケーキを食べさせに連れてきてくれなくていいと思っていた。
しかしホットケーキを食べる私をにこにこと眺める母に向かって何も言うことはできなかった。
あまりにも嬉しそうににこにこ笑うものだから。 ホットケーキを嫌いではなかったし母の笑った顔も見れるし、この時間は私にとってかけがえのない時間になっていた。
しかし段々とその回数は減っていった。
母の勤め先が倒産したのだ。 幸いにもすぐに次の働き口は見つかったが以前より賃金は安く、その上拘束時間が長い場所だった。
それ以外にも私の知らない母を悩ませるものがきっとあったに違いない。
母は家に帰ってきても何も言わず、ぼーっと何も無いところを見つめていることが多くなった。
ただでさえ地肌の透けた頭から髪を抜くようになり、夜になると突然涙を流したりするようにもなったのだ。
明らかに変調をきたしている母に私は何度も大丈夫かと聞いたが、母はにっこり笑って大丈夫だと言った。
その目に私は映っていないようだった。
「なっちゃん、久しぶりにホットケーキ食べにいこう」
それは曇り空の朝だった。
今日は珍しく休みなのだろうか。 私はうん、と頷き久しぶりのホットケーキに胸を踊らせた。
喫茶店は以前とかわらぬ喫茶店らしい喫茶店で、出てきたホットケーキもホットケーキらしいホットケーキだった。
私は焼き立てほかほかのホットケーキに載ったバターを溶かしてその上からたっぷりのメープルシロップをかけ、ひたひたになったホットケーキを切り分けてその一欠片を口に頬張った。
「おいしい」
久しぶりに食べたホットケーキは前に食べたときよりもずっと甘くて素晴らしく美味しいものに思えた。
「そう、良かった」
母はにこりと笑った。
良かった、今日はちゃんと私を見てくれている。 母のお冷やの入ったグラスの中で氷がかちゃりと鳴った。
「なっちゃん、海に行こうよ」
食べたらすぐ帰るものと思っていた私だったが、きっと母もたまの休みには普段見れないものを見たくなったりするのだろうと納得して母と共に一時間近く電車に揺れて一番近い砂浜へとやってきた。
天気が天気だからか砂浜には私たちしかいない。 母は私の手を握って波打ち際へと歩を進める。 私は砂浜に散らばる貝殻を見つけては母に昔のことを尋ねた。
「ねえ、海の貝って耳にあてると海の音がするってほんと?お母さん昔言ってたよね」 すると母は遠くを見るような微笑みを浮かべた。
「そんなこと言ったかしら…覚えてないや、ごめんね」
「あ、ううん」
少し残念だったが覚えてないなら仕方がない。
その間にも母と私は波打ち際へと進んでいく。
今日はサンダルじゃないシューズだから濡れたくないのに。
ざざん、ざざん 私たちはやがて靴どころかスカートまで濡らしていた。
さすがに私も段々と心がざわついてきて母の手を引いた。
「お母さん、これ以上は」
しかし母は依然として前を見つめたままぼそぼそと呟きながら波間へと進んでいく。
「ごめん、ごめんなさい、全部私が悪いの」
「お母さん!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、おかあさん、おとうさんごめんなさい。タカシマさんごめんなさい、オオタさんごめんなさい、キタダニさんごめんなさい」
「お母さん!いや、嫌だよ!」
もはや水面は胸あたりまできている。 それでも私は、母の手を引いて抵抗した。
口を開くたび、飛び込んできた海水のしょっぱさが拡がる。
「お母さん、お母さ」
「ごめんなさい、紀明さん」
その時、一際大きい波が私たちを呑み込んだ。
紀明という名は聞いたことがある。
私の実父の名だ。
気づいたときには私は病院のベッドの上にいた。 後に看護師や医師から聞いたのだが私は砂浜に倒れていたところをたまたま通りかかった人に見つけられたのだという。
「あの、母は」
もう一人、女性がいませんでしたかと言うと看護師らは青ざめた。
数時間後、母は砂浜から離れた海中に沈んでいるのを発見された。
「お待たせしました」
目の前に、コトリと音をたててホットケーキののった皿が置かれた。
私は添えられている銀色の小さいポットのような入れ物からつー、とメープルシロップを回しかけた。
紙に包まれた小さなバターを開いてホットケーキの表面に塗りたくる。
そしてナイフで切り分けると、そこに溶けたバターとシロップがとろりと流れ込んだ。
一口頬張る。
「良かった、おいしい…」
母の死後、私は遠い親戚に預けられた。
幸い冷遇されるわけでもなく、優しく接してもらえていた。 しかしある時おやつに出されたホットケーキを見て私は嘔吐してしまったのだ。
胃液にまみれた床を見ながら私はごめんなさい、とかつての母のように誤り続けた。
どうやらホットケーキとショッキングな記憶が結び付いていたらしく、それから何年も私はホットケーキから逃げていた。
しかし数年前、パンケーキブームの折にいけるのではないかとダメ元で挑戦してみたら食べることができたのだ。
口いっぱいに拡がる味は紛れもなくメープルシロップとバターの味。
そして瞼の裏をかすかに過る荒れた海。
いつか、母の墓前でホットケーキを食べよう。
もちろん母に供えるぶんも忘れずに持っていって。
雨はまだ降り続いていた。
しかし先程よりはずいぶんと小降りになっている。 食べ終わったら傘をさして 家に帰ろう。
思い出のホットケーキ 佐楽 @sarasara554
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