第1話 来訪者

 ドン、と重い音がした瞬間、その音に心当たりがなかったアグニは顔を上げた。手中のカーヴァーの傑作選は、まさに一番良いシーンだった。この作家は、短い物語の中に、日常に潜む事件と、それに影響される心の大波を詰め込むのが上手い。短編は一気に読みたいのに、と途切れた小説への没頭を名残惜しく思いながらも、何か物が落ちたのかと部屋の中を見回す。異変はない。代わりに、本棚が足りなくて敢え無く積み上げた本が目に入った。読書家としてあるまじき失態だ、と苦い顔をする。

 ドンドン、と、今度は二回音がして、ついに正体がわかったアグニは思わず本を取り落とした。


(ノックだ!)


 咄嗟にソファの後ろに隠れたアグニは、好き放題に跳ねてボリュームのある髪の毛に苦戦しながら、やっとのことでフードを被る。音は間違いなく、未知の人間によって鳴らされているものだ。アグニにとってそれは何よりも恐ろしい。


(母さんは鍵を持っているし、宅配も頼まない。近所の人かな、どうしよう)


 玄関の方を伺うが、未だに一定の間隔でノックは鳴っている。せかされているような気持ちになって、アグニは足音を忍ばせながら玄関に向かった。

 震える手を押さえながらドアに近づいたアグニは、深呼吸してから息を止めた。できる限り気配を消しながら、こっそり覗き窓を覗く。

 ガラス越しで歪んだ視界の中に見えたのは、四角い眼鏡をかけた茶髪の男だった。皴ひとつないワイシャツに黒いネクタイを締め、重たそうなコートを羽織っている。胸のバッジに描かれたマークには見覚えがあったが、それが何かまでは思い出せなかった。顔立ちは、美麗よりも端正というべきか、目を見張るほど整っていたが、そこに表情はない。先ほどまでの機械的なノックからイメージされた通りの人間だった。


(近所の人……では、なさそうだけど)

「そこにいるんでしょう」


 突然男の口が動き、ドア越しに聞こえてきた声にアグニは飛び上がった。ドアノブに勢いよく手が当たり、がんと大きな音がする。


「……ああ、家主のマリラ・ウォーカーさんではないですね。ご子息のアグニ・ウォーカーさんでしょうか」

(ぜ、全部バレてる! ど、どうしよう!)


 アグニは盛大に打ちつけた指を押さえながら、録音されたような平べったい声を聴いていた。一瞬にして何の言い訳もできない状況になってしまった、と涙目で思う。

 ドアの向こうの男は沈黙し、アグニは返答を求められていることに気づいた。大好きな本で築き上げた自分の根城に逃げ帰ろうか、と考えたが、在宅であることはバレているのに、放置して去るのはマナー違反であるようにも感じた。再度ドアに近づいて、何度も喉を詰まらせながら声を出す。久しぶりの発声で、声はうわずっていた。


「は、は、母は今、外出しています。あの、ぼ、僕は、何も分からないので」

「アグニ・ウォーカーさんに用があって来たのです」


 すかさず告げられたことに、アグニの思考は一瞬止まったが、意味を理解すると同時にドアから飛びのいた。冷や汗がどっと出る。

 アグニは、新興国であるこの『グリア王国』に、唯一の家族である母とともに越してきてから、一度も、ただの一度も外に出たことがなかった。そのため近隣の住人は、この屋敷にアグニ・ウォーカーという人間がいることすら知り得なかったのだが……アグニは自分の現状を思い返してから、そんな自分にも客人が来る可能性があることに気づいた。


「ぼ、僕に用事がある人なんていません!」


 自分でも何を言っているのかさっぱり分からなかったが、アグニはそう叫ぶと、ばたばたと足音を立てながら逃げた。まさしく逃げた。

 ソファの陰に飛び込むと、積み上げた本がぐらぐらと揺れてついに倒れた。普段ならまったく見過ごせない有様でも、今は保身が最優先だった。膝を抱えて丸くなり、フードを深く被り直す。


「さっきの人が、ただのセールスマンとかでありますように!」


 思わず神に祈る。切実だった。再度鳴り始めた機械的なノックに身をすくめたアグニは、頼りない自分の両手をしばらく見つめてから、ぎゅっと握った。手は不自然に熱く、収まらない激しい心音に合わせて温度はますます上がっていった。


 いつもこうだった。いつもこうだから、ダメだった。

 アグニの身体は、ストレスを感じると不自然な熱に覆われる。この奇妙な現象は、彼が物心つく前からのものだった。心配した母親が連れて行った病院で、さまざまな機械に閉じ込められ、精密な検査をされた彼は、文字通り『発火』した。人類史上初の症例なのは間違いなかった。母親は息子を連れて逃げた。こうして、二人のせわしない暮らしが始まった。

 アグニの『病状』は年々深刻化した。彼の感情が高ぶると、辺りのものはたちまち真っ赤な炎に包まれる。騒ぎになる前に引っ越すことを繰り返していくうちに、アグニは少しずつ、家から出ることを諦めていった。幸い人間に危害を加えたことはなかったが、それも時間の問題であるように感じていた。

 数年前にこの国に来てからは、外との交流を断ち、不用意に感情を波立たせない生活を心掛けた。まともな人生を送れないことよりも、自分の力が露呈してしまうことの方が怖かった。『父親』という言葉も『友人』という言葉も口にしたことがない母親が、痩せぎすで活字中毒で、得体の知れない息子のために人生を犠牲にし続ける方が怖かった。


 アグニは、足元まで滑ってきていた大好きな推理小説の表紙を眺めながら、やっと人並みの体温に戻ってきた皮膚を感じて拳を解いた。ノックはいつの間にか止んでいた。


(本当にセールスマンだったのかな)


 その割には、営業向きの顔じゃなかったな。アグニはそう思ってから、散らばった本を集め始める。力を入れすぎたのか、指がしびれていた。


(令状を持った私服警官か、僕を攫いに来た謎の研究機関なんじゃないか、なんて早とちりしてしまったけど)


 ただのセールスマンだったのなら申し訳ない、とアグニは思った。どうも小説脳というか、すぐにファンタジックな方向に考えてしまうのは悪い癖だと、小さくため息をつく。自分の不思議な力が、人類にとってどれだけの発見なのかは分からない。けれど、血相を変えて荷物をまとめる母親や、燃えかすと自分を交互に見つめる人々の視線を思い出すと、身体が震えて、外に怯えてどうしようもないのだ。

 ふと、本を積み上げたテーブルの上に、置きっぱなしにされた手紙の束があるのが目に入った。ついでに片づけてしまおうか、と手に取ったところで、一番上の手紙に見覚えのある紋章があるのに気づく。

 送付元は国税庁。毎年見かける簡素な通達文だが、グリア王国と印字されたその横の紋章は……つい先ほど、見たものだった。開拓のしるべであるつるはしが描かれた盾と、民の平和を象徴する鳥の羽根。火山活動によって海底が隆起して生まれたこの小さな島国に、繁栄と安寧をもたらすと言われるシンボルだ。

 アグニは、覗き窓から見た男性の胸元を思い出す。


「さっきの人は、グリア王国の———」


 玄関で破裂音がしたのはそのときだった。


———


 突然非常事態が訪れると、人間は正しい行動をとることができない。何かでそう読んだことはあったが、アグニは咄嗟に玄関を覗き込んでしまった自分を振り返って、その言葉の正しさを理解した。裏口からでも窓からでも、一目散に逃げるべきだったのだ。

 玄関は西日が差し込み、眩しいくらいだった。アグニは、久々の日光に目を細めた自分に違和感を覚える。

 ドアがなかった。そしてその向こうで、先ほどの男が銃を持っていた。


「えっ……ええ!?」


 後ずさりをしようとして、余ったズボンの裾を踏んで尻もちをつく。男と目が合った。アグニは口をぱくぱくとさせたが、命乞いをすることも助けを呼ぶこともできなかった。

 男はパニック状態のターゲットを認めると、鍵穴を吹き飛ばし、足でなぎ倒したドアの上に立つ。ただでさえ男の方が数十センチも大きいというのに、ターゲットの少年はすっかり縮こまって、余計に小さく見えた。


「同行しろ」


 男は、はっきりと口にした。最早かしこまる必要はなかった。


「これは国からの命令だ、アグニ・ウォーカー」

「な、なんで……」


 アグニはやっとのことで口にした。この状況に疑問しかなかった。


「今説明している時間はない。近隣住民に騒がれたら面倒だ。そもそも、君が話に応じていれば急ぐ必要はなかった」


 西日を背中に受けた男は、質問に対する回答とは到底言えない内容を返した。眼鏡の奥のグレーの眼光には温かさも何もなく、アグニはとりあえず頷いた。内心、何も了解できていなかった。

 アグニが大人しくなったのを見ると、男はおもむろにコートの内ポケットから紙切れを取り出した。銃をペンに持ち替えて何かを書き込み、床に放る。ひらひらと落ちてきたそれが、『ただしドア代として』と書かれた小切手であることを理解すると同時に、アグニは駆け出した。


(どうしようどうしようどうしよう!!)


 運動不足の身体は全く思い通りに動かなかったが、追っ手の足音は聞こえなかった。目に飛び込んできた電話を抱え込み、ダイニングのドアを勢いよく閉める。


「け、警察!」


 そうだ、なんでもっと早く思いつかなかったんだろう、とアグニは涙目で思った。こんな絶体絶命の状況で警察を呼ばなくて、一体いつ呼ぶというんだ。

 本棚の陰に身を隠し、言うことを聞かない手で番号を入力する。ほとんどぶつけるようにしてスピーカーを耳に当てると、電話の冷たさと、自分の手の熱さを肌に感じた。


『警察です。事件ですか?』

「もしもし! 家に! 不審者が——」


 次の瞬間、アグニの手に電話はなかった。何が起こったのか理解するまで、かなりの時間を要した。吹き飛ばされた電話を目で追う。床に転がった粉々の破片が、どうやらそれの成れの果てらしい。


「警察か、面白いな」


 全く面白いとは思っていない声だった。アグニは、恐る恐る声のする方を見た。


「先にも言った通り、これは国からの命令だ。まさか『国家』警察に通報しようとするとは」


 男は蹴り倒したダイニングのドアの上に立ち、二枚目の小切手をちぎった。硝煙が漂っていた。


「だがまあ、確かに、通報されると面倒だ」


 アグニは、自分に向けられた銃口を見つめる。どこか現実感がなく、ふわふわとした気持ちだった。


(さっき逃げられなかったのは、結構まずいかも)


 そんなことを冷静に考えていた。銃口と同じ無機質な目をした男は、一度逃げ出した相手から銃口を外すようなことはしなかった。


(抵抗せずに言うことを聞いたら、生きていられるのかな)


 深呼吸をする。息が震えていた。


(でも、抵抗しないってことは、素性も分からない相手の言いなりになるってことだ。もし本当に男の目的がこの力なら、何をされるか分からない)

「こちらに手の平を見せて、肩より上にあげろ。三歩、足を踏み出せ」


 アグニは、恐る恐る言う通りにした。手をあげるとき、握り締めた手に籠っていた熱を頬に感じた。


(……武器はある)


 ふと、そう思った。武器はある。予想外で、銃に負けないほど攻撃的な武器が。

 そう思った途端、流れる血がかっと熱くなった。息が荒くなって、心臓が燃えていた。本当に燃えているのかもしれない、と思った。

 視線の先には、アグニの様子を観察する男がいる。背は高く、均整の取れた身体には仕立ての良い服を身につけている。歳は20代後半くらいだろうか。表情のない顔と抑揚のない声、それに先ほどの正確な射撃と言い、機械のようだという第一印象は変わらなかった。


(この力を、この人に向ける?)


 今まで、力を意図的に人に向けたことはない。むしろ、一番避けてきたことだ。何より避けられるべきことだ。アグニは慌てて男から視線を外した。


(ダメだ、危険すぎる。脅しのつもりでも、人に危害を加えたら……)


 自分を叱咤するように歯を強く食いしばる。


(……でも相手は僕に銃を向けている)


 垂れた汗が床に落ちて、アグニは砕け散った電話を思い出した。ぞっとする。意識しないと呼吸ができなかった。命を握られているというのはこういうことなのだ。


「アグニ、今から君を連れてこの家を出る。人に見られても構わないが、騒ぎにはしたくない。大人しくついて来るなら、危害は加えない」


 男は唐突にそう言うと、視線と銃口を外さないまま、身体だけで玄関の方を向いた。


「君が前、私が後ろを歩く。君は私が言った通りの方向に歩く。理解したか」

「……い、行き先は?」

「行き先も目的も、今は言えない」


 声色も言葉も冷酷だった。男は長い指で自分の前を示すと、「来い」と短く言った。アグニは慣れ親しんだ床を踏みしめるようにして、ゆっくりと歩き始めた。断頭台に上るような気分だった。

 数歩進んですぐ、アグニは足を止めた。自分がこれからどこへ行くのか、どうなるのか分からなくとも、何としても聞き出さねばならないことがあった。


「一つだけ、教えてください」


 アグニの嘆願に男は反応しなかったが、アグニは必死に尋ねた。


「は、母は……」


 語尾が伸びるようにして震える。


「母は、どうなるんですか……」


 男はちらりとアグニの方を見たが、興味なさげに視線を外した。


「さあ?」


 どうしてそんなどうでもいいことを聞くのか、とでも言わんばかりの投げやりな返答に、アグニは血の気が引いた。自分だけでなく、大切な家族の安全さえも保障されていなかったのだ。絶望で冷え固まったような思考に反して、肌の熱は増していた。限界が近いのは自分でも分かっていた。

 アグニの様子を見ても、男は玄関の方を見て「早くしろ」と急かしただけだった。夕日はさらに傾いて、外は暗くなり始めていた。ドアがなく開きっぱなしの玄関のことを考えると、野次馬が集まってくるのは間違いない、と男は考える。のろまな少年を急かした方がいいだろう。


「日が沈む前に───」


 男は振り向いた。目を離していたのはほんの一瞬だった。ターゲットが想定以上に萎縮していたため、油断していたのかもしれなかった。


「僕の家から出ていけ!!」


 叫び声と同時に、爆発するような勢いで炎がほとばしった。壁に激突して弾けた熱気は、男の目の前に迫っていた。


———


「う、うう」


 最悪の気分だった。

 泣きそうな気持ちで、なんでこんなことになったのだろう、と思う。今すぐここで死んでしまいたかった。

 喉がヒュッと音を立てて、アグニは自分が酸欠になりかけているのを自覚した。自分が生み出した炎は木造の床で未だ立ち燃えていて、紙が焼ける臭いもした。玄関のほうには到底行けそうになかった。


(あの人は?)


 爆発と同時に吹き飛ばされたのか、アグニは床に這うような姿勢で転がっていた。パーカーの袖で口と鼻を押さえつつ、煙がないところまで移動する。ふらつきながら立ち上がるが、男の姿は見えなかった。咳き込みながら後ずさる。


「怪我してたらどうしよう。こ、ころしちゃってたら……」


 うわ言のように呟く。男を探そうと一歩踏み出したが、燃え盛る炎でじりじりと肌が焦げた。ひりつくような痛みではっとする。


「に、逃げなきゃ……」


 吹き飛んでいたフードを被り直すと、深い青色と赤色の前髪が視界を覆う。目の端にじんわりと涙が滲んだ。間違いなく、最悪の事態だった。

 そうして何とか身体を叱咤し、出口を探し始めた時だった。


「……信じられないが、本当に存在したとは」


 ふっと力が抜けた。アグニは全体重で床に膝をついたが、痛みは感じなかった。そのあとに急激な眠気が来て、ばたんと倒れ伏す。


「タイミングは想定外だったが、攻撃自体は何もかも素人だった。君に大した戦闘力はないらしい。まあこれで、裏付けを取ってから君を連れて行くことができる」

(ね、ねむい……?)


 視界がぼやけて前が見えなくなる。男の声が、真上から降ってきていた。


「私はセシル。アグニ、君と話をするのを楽しみにしている」


 全く楽しみだとは思っていないような声だった。

 強制的な眠りはすぐそこだった。アグニは、この人が生きていてよかった、と思ってから、まぶたの重さに任せて目を閉じた。

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