数子は計算する

ナリタヒロトモ

第1話

飯田橋数子は内房線で東京に向かう。

数子と書いて(すうこ)と読む。それは数学者になりたかった父親がつけた名前だった。父親は結局、数学者どころか学校の先生にもなれず、塾の講師も続かず、勤めていた家電メーカーも倒産し、妻にも逃げられ、失意と屈辱の果てに去年癌で亡くなったのだけど、飯田橋数子は割とその名前を気に入っていた。飯田橋数子は中堅メーカーアテネ食品で派遣社員として働くサラリーマンだった。33歳、独身であった。


9:00

神田のオフィスについた飯田橋数子は机に向かう。

飯田橋数子は一週間でこの月曜の朝が一番嫌いだった。

今朝出がけにテレビでヨーロッパの大国の指導者が膠着した戦争を終結するために戦略核の使用も辞さないと言っていた。


今世界にはどれくらいの核兵器があるのか?

数子は計算する。

 広島県と連携協定を締結しているストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は毎年,シプリ年鑑(SIPRI YEARBOOK)を発刊している。その中で,2021年1月時点の核兵器数が発表された。

2021年1月時点の核兵器保有数は13,080で,2020年1月時点の13,400と比較して320減少した。2020年と変わらず,90%以上を米露が保有している。米国,ロシアの核兵器保有数が減少した一方で,英国,中国,インド,パキスタン,北朝鮮の核兵器保有数は増加する結果となった。(*)

*(出展) 広島県ホームページ

 13,080×31万9186名(広島原爆死者)×3000(広島原爆との能力比較)=1兆5377億人 ここで世界人口は77億人であり、1兆5377億人÷77憶人=200となり、人類を200回死滅される量となる。

すなわち2022年現在の世界の核兵器は人類を200回殲滅させる量がある。人類は他の動物と違い、頭がよく臆病なので過剰な兵器を作ってしまうのだ。

だがその量は身を守る分をはるかに超えて、仮に攻撃すれば自分も失う量となっていた。

飯田橋数子はその人間の頭の良さと臆病さに恐怖するのだ。


10:00

飯田橋数子はちょっとした仕事の間違いをしたのだけど、それを「ゆとり」と言われて落ち込んでいた。

ゆとりとは何か?

詰め込み教育による落ちこぼれと剥落学力問題の反省から、大幅な学習量の精選と思い切った授業時間の削減が行われ、1980年度に「ゆとりと充実」を掲げて教育方針を掲げた学習指導要領、1992年度に「新学力観」を掲げた学習指導要領、そして2002年度に「生きる力」を掲げた学習指導要領が施行された。1980年から全面実施された学習指導要領の改訂では大幅な学習量の精選と思い切った授業時間の削減が行われた。

1986年にバブル景気が起きたが1992年に崩壊し、アジア通貨危機に伴うゼロ金利政策(1999年)や戦後初のデフレ宣言(2001年)が出された。2002年2月から2009年3月にかけていざなみ景気が起きたものの、リーマンショックに伴う不況が発生し、ゆとり世代の就職活動に影響を与えた。(Wikipedia)

実際には経済環境的な理由で職に就けなかったのだけど、「ゆとり世代」という言葉であたかも正社員になる能力のない人間のように言われた。

飯田橋数子自身、バブル崩壊の生まれで、今まで一度も好景気を体感したことがなかった。


バブル崩壊以降、日本はどれだけ人が増えなかったのか?

数子は計算する。

1970年2.13あった出生率は1980年には1.75に落ち込んだ。しかしこれは1966年生まれの丙午という特集要因も含んでいる。それがバブル崩壊後1990年には1.54まで落ち込んだ。その後の2000年には1.36と言う記録に達し、若干の上下はあるものの、2012年まで1.40以下で推移する。その後、景気回復があった2012年以降、1.40以上となるが、2.0には遠く及ばず、慢性的な人口減少が続いている。

適齢期である20歳から40歳までの人口で計算する。

男性が、20~24歳:329.9万人 5.4%、25~29歳:324.5万人 5.3%、30~34歳:334.7万人 5.5%、35~39歳:373.9万人 6.1%であり、合計1363万人である。

女性は、20~24歳:309.2万人 4.8%、25~29歳:303.8万人 4.7%、30~34歳:320.0万人 5.0%、35~39歳:363.9万人 5.6%であり、合計1296.9万人である。

男女合計2659.9万人の出生率1.75(1980年)が、今の1.40に落ち込んだのだから、計算は、2659.9万人×(1.75-1.40)/2=465.5万人となる。

1970年の出生率2.13ならば、2659.9万人×(2.13-1.40)/2=970.9万人となる。

この数字は太平洋戦争での日本人死者714万人を超える。

実際の人口は1975年(昭和50年)の1億1194万人から2021年(令和3年)の1憶2550万人に増えているのだけど、日本の平均寿命が1980年男性73.35歳、女性78.76歳が、2019年には男性81.41歳、女性87.45歳と男女ともに8.9%、8.7%伸びているのを考えれば、概ね968万人が増えるはずだった(*)。それが生まれて来なかった子供のために相殺された。

*1憶1000万人×8.8% 計算に用いた数字はすべて厚生労働省のもの

つまりバブル崩壊以降、日本で「増えなかった人の数」は約500-1000万人である。

飯田橋数子の父親もよく言っていた。

「数子は一人っ子で助かったよ。」

ばい菌だって同じだ。栄養のない場所では増えない。それをゆとり世代と馬鹿にされるのが飯田橋数子は腹が立つのだ。


11:00

5歳若い同僚の女性が男にバーキンのバッグ(*)を買ってもらったと威張っていた。

*HERMES(エルメス)  手提げつきバッグ イギリス人女優ジェーン・バーキンが偶然機内で隣り合わせたのは、エルメスの会長ジャン=ルイ・デュマと乗り合わせて発案された

何でも浮気の代償をバッグで払わせたとのこと。その娘の喜びようを見ているとむしろ浮気されてラッキーだったのではと思えるほどだった。

役職もなく、たいした賃金ももらえていない飯田橋数子はそのバッグを一通りほめて、心から羨ましがってみせた。しかし飯田橋数子はなけなしのプライドでそのバッグの価格だけは絶対に聞かなかった。


今、世界にはどれくらいのお金があるのだろうか?

数子は計算する。


現在において、金は紙幣ではないので、重さをもたない。ディスプレイ上の数値だけである。

実需の為替とは、特定の目的があって、その目的遂行のために必要な外貨を手に入れて使用するという実際的な為替取引であり、例えば、企業の貿易・個人の海外旅行など経済取引の裏付けがあるものをいう。

ここで投機の為替とは、実需に基づかず、為替取引で利益(為替差益)を得ることを目的としている。通貨を為替レートで交換しているだけで経済取引の裏付けがないものをいう。

為替取引だけも、1日に200兆円近いお金が動く現在の為替市場では、「実需の為替:投機の為替の比率」は概ね「1:9」であり、圧倒的に為替取引の利益そのものを目的とした投機が多くなっている。(*)

* (参考)FXトレーダー夢現政宗の公式ブログ

 日本の国家予算は年間でおおよそ100兆円である。為替取引だけでも1日にその2倍の金が動く。先物取引はさらにその10倍である。この社会は破綻の淵に立っていた。人やものよりもはるかに大きな金額が動いていた。2000兆円に365日をかけると74京円となる。それを世界人口の77億人(*)で割ると、1人あたり9千万円になる。

* 2022年現在

(計算式)

 100兆円×2×10=2000兆円 2000兆円×365日=74京円 74京円/77億円=9千万円

 この数字が意味するものは何か?これだけの金をみんなが持っていればみんながしあわせになれる。だがそんなことはない。

あふれるマネーは、それを支える人の財産なのか?人の借金なのか?世界の平均年収は約30万円と言われる。1人あたり、その300倍もの金額が動いているのだ。

貨幣をありがたがるのは人間だけで、そもそも数字に何の価値もない。食べることもできなければ、持つことも出来ない。

しかしそれに振り回され、ありがたがり、嫌な思いもする。そんな自分の惨めさに飯田橋数子は悲しくなるのだ。


12:00

飯田橋数子は給湯室の隣の小さな会議室で、いつもの3人の女子と昼食を取る。

お弁当はいつもの昨日の夕食の残りだった。ラップで包んだ昨夜の残りのおかずを入れたおにぎりだった。カップにインスタントのみそ汁を入れて、たわいもない話をして食事する。

テレビ番組とか、新しい韓流の俳優とか、何かふわふわした話をしながら、飯田橋数子は最近はずっと死んだ父親のことを考えていた。

数学者を志して地方から2流大学に入学、上京したが、大学院に進むほどの学力も財力もなく、結局公立高校の数学の先生になるが生徒に殴られて学校を辞め、華がないので塾の講師も続かず、そうこうしている内に色事に自分の才能を見出していた母は家庭を去った。

それでも父は何も不平は言わず、皆が(かずこ)と呼ぶ飯田橋数子を一人だけ(すうこ)と呼び、失業のまま、癌になってしまった。

そのころには祖母に残してもらった箱根の家も失い、何もない状態であったけど、教員時代に入った保険である程度の保険金が入ることとなった。しかしそれは父が死亡した後であった。しかし父は心からこのボーナスを喜び、保険金の受け取りに飯田橋数子を指定した。

そして「良かった。良かった。」と言った。

末期がんの絶望的な苦痛の中、父はモルヒネの闇をさまよいながら、「お前に渡せるものがあって」と続けた。

その遺志に従い、遺骨は細かく砕いた上、近くの里山に撒かれた。墓標には小鳥のそれのような小さな木っ端が立てられた。しばらく後にいくとそのアイスバーのような墓標はなくなり、その人生のとおり、誰からも忘れられたのだった。

飯田橋数子は父を愛していた。しかしその人生は本当にゴミのような人生だった。あんな風にはなるまい。飯田橋数子はいつも思うのだった。


13:00

飯田橋数子は派遣社員としてアテネ食品に勤めているのだけど、もう30年以上、会社は成長していなかった。むしろ減り続ける生産人口にあわせて規模を縮小してきた。日本に新工場を建てることはなく、すべてアジアの新興国に建てた。

33歳の飯田橋数子は生まれてからずっと好景気を経験したことがなかった。ずっと不景気であった。この30年はバブル崩壊に費やされた。


バブル崩壊で失った額は返すのにどれだけかかるのか?

数子は計算する。


バブル崩壊(バブルほうかい)は、日本の不景気の通称で、バブル景気後の景気後退期または景気後退期の後半から、景気回復期(景気拡張期)に転じるまでの期間を指す。内閣府景気基準日付でのバブル崩壊期間(第1次平成不況や複合不況とも呼ばれる)は、1991年(平成3年)3月から1993年(平成5年)10月までの景気後退期を指す。

1998年末の時点で日本の不動産の価値は2797兆円に及び、住宅・宅地の価値は1,714兆円と不動産全体の約6割を占めていた。1998年末の土地資産総額はピーク比で794兆円、株式資産総額は同じくピーク比で574兆円減少している。1980年末のバブル崩壊以降、日本の不動産の時価は600兆円以上暴落した。日本全体の土地資産額は、1990年〜2002年で1000兆円減少した。バブル崩壊で日本の失われた資産は、土地・株だけで約1,400兆円とされている。内閣府の国民経済計算によると日本の土地資産は、バブル末期の1990年末の約2,456兆円をピークに、2006年末には約1,228兆円となりおよそ16年間で約1,228兆円の資産価値が失われたと推定されている。(Wikipedia)


日本のGDPはおよそ540兆円である。バブル崩壊で失った約1,228兆円は、1228兆円/100兆円でGDP2.3年分に相当する。

飯田橋数子は思う。私が生まれてからの33年はバブル崩壊の借金返済にあてられてしまったのだと。

ここでGDP2.3年分は返せない借金であったのではないか?


2010年の日本の公債はGDPの198%と推計されている。これはジンバブエの234%に次ぎ世界で2番目であり、先進工業国の中では突出している。2011年に債務不履行の危機にあるギリシャは143%であった。2013年5月現在の日本政府の純債務は対GDP比で134%となっており、財政破綻したギリシャの155%に近くなっている。

2012年3月末現在の国のバランスシートでは、負債総額は1088兆円、資産総額は626兆円となっている。(Wikipedia)


返せてないじゃん!

飯田橋数子は思う。これから日本はどうなるんだろう?これから私はどうなるんだろう?


14:00

アテネ食品のオフィスは神田にある。西口商店街を抜けてすぐのところだ。郵便局へ行く簡単なお使いを済ますと飯田橋数子は帰りにコンビニでおやつのお菓子を買う。

レジ袋は有償なので使用しないが、次の人はコンドームを購入したので紙袋で渡された。見えないようにするためだ。


プラスチックが海洋プラスチックの原因である、

日本のすべてのプラスチックを使わなくなったら海洋プラスチック問題は解決するのか?

数子は計算する。


海洋プラスチック問題とは、

・海洋プラスチックによる海洋汚染は地球規模で広がっている。

・北極や南極でもマイクロプラスチックが観測されたとの報告もある。

・2050 年までに海洋中に存在するプラスチックの量が魚の量を超過すると予測されている(*)。

・海洋ゴミの中ではプラスチック類が最も高い割合を占めている。

* (出展)The New Plastics Economy: Rethinking the future of plastics(2016.Jan. World Economic Forum)

ここで陸上から海洋に流出したプラスチックごみの発生量(2010年推計)を人口密度や経済状態等から国別に推計した結果、1~4位が東・東南アジアであった。

1位中国353万t / 年、2位インドネシア129万t / 年、3位フィリピン75万t / 年、4位ベトナム73万t / 年、5位スリランカ64万t / 年、20位アメリカ11万t / 年・・・30位日本6万t / 年。(*)

*陸上から海洋に流出したプラスチックごみ発生量(2010年推計)ランキング (出典) Jambeckら: Plastic waste inputs from land into the ocean, Science (2015) を基に記載。この日本の数値すら実際に計測したものではなく、経済規模から計算したものである。


中国+インドネシアで約4割を占めており、海洋プラスチックゴミはこの2国が主原因である。

海洋プラスチックゴミは年間500~1300万t排出される。中間値は900万tである。

ここで日本の排出量は2~6万t。中間値は4万tである。

日本からプラスチックをなくせば、4/900×100=0.4%の海洋プラスチックがなくなる。

逆に99.6%はなくならない。(*)

*(数字の出典)環境省プラスチックスマートキャンペーンについて(計算は筆者)


2019年6月にはG20大阪2019サミットが開催され、「海洋プラスチックゴミ」は大きく取り上げられた。 外務省はマリーン(MARINE)・イニシアティブ(2019年7月)の下で,具体的な施策を通じ,廃棄物管理,海洋ごみの回収及びイノベーションを推進するための,「途上国における能力強化を支援していくことを表明した」。

これはとても重要なことで、ようやく海洋プラスチック問題に解決の糸口が見えて来たとされた。

しかしかの国への配慮か、誰も海洋プラスチックゴミを出している国の名前を大きく取り上げない。それでいてスーパーやコンビニでプラスチックが使われていることを非難する。

小学生が学校でエコバッグを作って大人たちに褒められている。商魂たくましい企業はプラスチックのストローをやめてテレビの注目を集める。


そんなはどうでも良いのだけど、もっと大事なのはみんなが頑張って日本でプラスチックの使用をやめても海洋プラスチックゴミは全然減らないということだ。本当に早くしなくてはいけないのはプラスチックゴミを河川に捨てている国があるということなのに。

飯田橋数子はチョコの包みをプラスチックと紙に分けてゴミ箱へ入れた。

そしてプラスチックゴミでいっぱいになった海を思って身震いした。


15:00

朝止まっていた中央線のニュースが流れる。いつもの中央線の人身事故はやはり自殺であった。

暮らしが良くなって、医療も進み、今や世界一の長寿国となったこの国で40歳以下お死亡原因一位は自殺と聞いた。(*)

*出所 : 厚生労働省「人口動態統計」


世界保健機関 (WHO) は2016年時点で「全世界において約80万人が毎年自殺している」と報告し。世界の自殺の75%は低所得および中所得国で起こり、自殺は各国において死因の10位以内に入り、特に15 - 29歳の年代では2位になっている、と報告した(2016年)。

自殺は様々な事情が絡み合って行われる。高所得国においては、自殺と精神的な不調(特に抑鬱とアルコール乱用)には関係があることは明らかになっており、自殺の多くは、人生のストレスが各人の対処能力を超えてしまい破綻状態となった危機的な時(たとえば経済的苦境時、人間関係が破綻した時、病気と疼痛が長期化した時など)に衝動的に行われている。

WHOは「自殺は、そのほとんどが防ぐことのできる社会的な問題。適切な防止策を打てば自殺が防止できる」として、世界自殺予防戦略 (SUPRE) を実施している。このようなWHOに準ずる形で、各国で行政・公的機関・NPO・有志の方々による多種多様な自殺予防活動が行われている。(Wikipedia)


自殺しなかったら平均寿命はどのくらい延びたのか?

数子は計算する。


2021年の全国の自殺者数は、20年より74人(0.4%)少ない2万1007人だった。人口10万人当たりの自殺者数(自殺死亡率)は、0.1人増の、16.8人となった。(厚生労働省)

自殺者の平均年齢をまとめたデータはない。解析不足というよりも、あまりに問題が深刻だから公表されないのであろう。

しかしピークの記載はある。平成15年の自殺死亡数の総死亡数に占める割合をみると、男女とも「25~29歳」が最も高くなっている(厚生労働省)。平均は27歳である。

そこで年間自殺者2万1007人が天寿をまっとうした場合の平均寿命の伸びを計算する。

2021年(令和3年)の1憶2550万人、2019年の平均寿命、男性81.41歳、女性87.45歳、即ち平均84.4歳(厚生労働省)。

自殺する人は、2万1007人/1憶1000万人×100=0.2%である。その人が天寿を全うした場合の寿命の伸びは、0.2%/100×(84.4-27.0)=0.1歳である。

自殺がなくなったら寿命は0.1歳伸びる。これは取るに足らない数値であろうか。

でも飯田橋数子にとっては深刻であった。

ここ何か月も飯田橋数子は踏切に飛び込むのをこらえてきた、つまり飯田橋数子は自殺予備軍であったのである。



16:00

秋の夕暮れは早い。飯田橋数子は暗くなりかけた空を見ながら一人でつわりに耐えていた。オフィスにあるラベンダーの芳香剤を苦痛に感じた。

飯田橋数子は妊娠していた。

相手は前の派遣先で上司だった男だ。不倫だった。

飯田橋数子は思う。私はお父さんよりも馬鹿で愚かだ。こんな結果になるのは分かっていたんだ。

(馬鹿、馬鹿、馬鹿。本当にダメな人。お父さん、ごめんなさい。)


シングルマザーは絶望なのか?

数子は計算する。


厚生労働省が行っている国民生活基礎調査(2019年)の結果によると、日本全体の貧困率は15.7%である。これに対して、子供がいるひとり親世帯の貧困率は、日本全体の貧困率の約3倍にあたる48.3%となっている。母子家庭や父子家庭の世帯では実に2人に1人が困窮した生活を送っている。(出典:2019年国民生活基礎調査 – 厚生労働省)

ひとり親世帯の年間の就労収入を母子家庭と父子家庭で比較すると、母子家庭は父子家庭の半分程度の収入しかない。母子家庭の約60%が200万円未満の収入での生活を余儀なくされており、ひとり親世帯の中でも特に母子家庭の貧困が深刻な問題となっている(*)。

*参考:【シングルマザー・母子家庭の年収・預貯金額】年収階級や割合、貧困状況など

世帯就任平均は552万円である。これが父子世帯では398万円に下がり、更に母子世帯では200万円に下がる。世帯数が3人を2人になることを勘案して、

(552-200)×2/3=235万円少ない金額でやり繰りをすることになるのだ。


飯田橋数子はため息をついた。そしてその金額が自分の年間手取りとぴったり一致した偶然に驚愕した。



17:00

派遣社員の飯田橋数子は定時に退社する。神田駅から東京に行き、総武線快速に乗る。この時間なら始発なので座ることができた。

ひとりぼっちで何の希望ももてない飯田橋数子はずっと死ぬことばかり考えていた。でも今はひとりではない。まだまだ不安で押しつぶされそうだけど、日に日に大きくなる胎動に希望を見出していたのだ。

エコーで女の子であるのはわかっていた。だから量子と名付けた。

量子と書いて(りょうし)と読む。それは大学で量子力学を専攻し、結局は何の役にも立たなかった飯田橋数子の矜持であった。名前は命であり、親の祈りであった。


飯田橋数子は思う。数子にとって父の人生はゴミみたいなものだった。かわいそうで、悲しくて、仕方のないものだった。量子も同じ不満を私に思うだろうか?

飯田橋数子は計算しない。


未来がどうなるかなんて、計算できないのだ。

ときどきポコポコと蹴る量子は飯田橋数子に言うのだ。

(私はあんたたちよりもちゃんとやる自信がある。だからほっといて。)

千葉を過ぎると一気に田園地帯が広がる。飯田橋数子は姉ヶ崎へ戻る電車の中、穏やかな内房の景色を見ながら、膨らみかけたお腹にそっと手をあてる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

数子は計算する ナリタヒロトモ @JunichiN

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ