ダイヤハート

ナリタヒロトモ

第1話

大森ハナコが中学1年から2年にあがった5月の頃だった。12歳の誕生日の翌日、よく眠れなかった朝の重さを感じていたが、それでもいつもと同じ1日の始まりのように思った。母親が作った朝食を半分くらい残したが、それは気分というよりも増え始めた体重が気になったからだった。

2年生になって受験を意識しだし、クラスのざわついた雰囲気とか思い出したが、それは憂うつと言うほどのものではなかった。

日射しは強いが夏はまだ遠く、衣替えしたばかりの夏服では少し寒く感じるほどであった。

そう、それはいつもと同じ1日が始まる普通の朝であった。

思春期なのでそれなりに悩みはあった。1年生の頃に両親が離婚したことや、好意を持っていた先輩に彼女ができたこと。ひいきにしていた俳優のスキャンダル。悩みはつきなかったが、どれも大したものではなかった。

しかしその日、どうしても大森ハナコは家から出ることが出来なかった。ドアを出たとたん激しい頭痛と吐き気に襲われた。

母親はその日学校を休ませた。そして、その後も何度も医者に行き、高名な先生の往診も受けた。

しかし大森ハナコはその後2年間、まったく学校に行くことなく、卒業の日を迎えるのだった。


1.天文学の時間

30年も前のことである。蒲田滝人は浪人してやっと受かった2流大学で留年してしまった。

田舎からどうしても来たくて出た東京は貧乏人には住みづらく、また全然モテないので悶々とした悩ましい日々を送っていた。

そんなある日、大学学生課の正面に家庭教師のバイト広告が出ていた。何でも中学卒業まで引きこもりをしていた女の子に卒業までの1カ月だけ勉強を教えるというものだ。当然受験を意識したものではなく、ただ勉強の楽しさみたいなものを教えて欲しいとのことだった。家庭教師は時間が短いが時給が良いので蒲田滝人が通う2流大学では人気のバイト先であった。

そして蒲田滝人がたまたま最初にそのビラに応募できたのは、彼の不運な人生にあって非常にラッキーな事例と言えた。

そうして1989年の東京大田区の下町で蒲田滝人は大森ハナコの家庭教師を始めたのだった。

大森ハナコの家は小さく、慎ましいものであった。狭い庭は母親の軽自動車がようやく駐車できる程度で、花壇はなかった。

母親からは「先生。長く学校に行っていないので、簡単でも良いので勉強を教えてやって欲しいのです。今からとても追いつけないので、あの子になにか幸せな気分だけ持たせてあげれたら、それで良いのです。」と言われた。

蒲田滝人はとても先生と呼ぶに値する人間ではなかったで、その生涯にわたり、先生と呼ばれたのはこの1か月が最後である。

大森ハナコは中学1年のころは陸上部で精悍な体をしていたが、2年ひきこもった後はずんぐりとした体形になり、2年間、マンガと小説ばっかり読んでいたせいで、一人よがりな性格になったいた。

大森ハナコはあいさつもしないで睨むような目つきで蒲田滝人を見た。

蒲田滝人は軽く会釈すると授業を始めた。

「人類の科学は天文学から始まったと思います。医学でも、物理でも、化学でもありません。よく錬金術(*)が科学の始まりというが違います。天文学です。」

*錬金術(れんきんじゅつ、アラビア語: خيمياء‎、ラテン語: alchemia, alchimia、英: alchemy)は、最も狭義には化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのこと。広義では、金属に限らず様々な物質や人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。(Wikipedia)

「錬金術って何?」

「もともとは金を作ろうとしたみたいだね。もちろんそんなことは出来るわけがない。金を作ろうとする全ての試みは失敗したんだ。でもその試行錯誤の過程で化学薬品が発見されて、実験器具も発明されたんだ。古代エジプトから始まって、ルネサンスで化学へとかわっていくんだ。」

「じゃあ、やっぱり錬金術が科学のはじまりじゃない。」

「多くのひとがそう考えるね。じっさいニュートンも錬金術士の1人だったんだ。でも私はそれでも天文学が人類の科学の始まりだと思う。星は見えるだけで触ることもできない。永遠に不変でずっとそこにある。」

マンガだらけの狭い部屋で蒲田滝人は天空をイメージして天井を見上げた。それにならって、大森ハナコも天井を見た。

蒲田滝人は言った。

「太古の昔、手の届かない夜空を見上げ、人間は自分たちが世界の中心ではなく、その一部にすぎないと知ったんだ。季節ごとに精密に繰り返される天体の運行を見て、神の作られし世界の大きさを知ったんだ。」

「でも天文学なんて何の役にも立たないじゃないかもだけど。」

「そんなことはないよ。エジプトのピラミッドはが建設されたのは紀元前2500年頃のことだけど、この巨大建造物はシリウス星が太陽とともに東の空に昇ることで夏の到来を知り、増水の時期を避け建設されたって言うよ。古代エジプトではシリウスの位置で季節を測っていたんだ。」

「でも今は天文学なんて何の役にも立ってないんじゃない?」

「それはそうかも。天文学なんて学科はないし、地学(*)の一部なっていて、望遠鏡からみる星そのものを研究する学問はもうないからね。」

*地球科学(ちきゅうかがく、英語: earth science、geoscience)とは、地球を研究対象とした自然科学の一分野であり、その内容は地球の構造や環境、地球史など多岐にわたる。近年では太陽系に関する研究(惑星科学)も含めて地球惑星科学(英語: earth and planetary science)ということが多くなってきている。地学(ちがく)は地球科学の略称である。


蒲田滝人は大森ハナコのベッドのわきに積み上げられたマンガを指さした。

「でも星座をモチーフとしたギリシャ神話は人気だよね。そこにある『聖闘士星矢』はギリシャ神の戦いだよね。」

*聖闘士星矢 『聖闘士星矢』(セイントセイヤ、SAINT SEIYA)は、車田正美による日本の漫画。1985年12月(1986年1・2合併号)より集英社の漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』(以下WJと表記)で連載を開始した。「聖衣(クロス)」と呼ばれる星座の趣向を凝らした鎧や、ギリシア神話をモチーフにした物語が人気を博し、1980年代WJの看板作品の一つとなった。2022年2月時点で全世界シリーズ累計は5000万部を突破している。(Wikipedia)。ギリシャ神たちの争いを描いたマンガ。その20年後、使徒(天使)たちとの戦いを描いたアニメ『エヴァンゲリオン』が庵野 秀明によって描かれる(筆者追記)。


「知らなかったわ。何か、それっぽいだけで関係ないかもだけど。」

「そうだね。名前だけであまり筋は関係ないね。でも星座は知っているよね。星座にはそれぞれ関連するギリシャ神話があるんだ。神々の王(最高神)ゼウスを中心に、さまざまな物語が繰り広げられているんだよ。中にはエロなのや、血なまぐさいのもある。」

大森ハナコは蒲田滝人と同じかに座だった。

まだインターネットのない時代だったので蒲田滝人は本棚から百科事典を取り出すと読み上げた。

『ゼウスの子勇者ヘラクレス(ヘルクレス座)は、誤って自分の子を殺した罪を償うため、12の冒険を行うことになった。そのうちの1つがヒュドラー(うみへび座)の退治である。化け蟹カルキノス(希: καρκίνος) は、最初はヘラクレスとヒュドラの戦いを見ていた。次第に同じ沼に住んでいる友人であるヒュドラが形勢不利になったため、飛び出してヘラクレスの足を挟んだ。しかし、ヘラクレスは振り払い踏みつぶした。一部始終を見ていた女神ヘーラーは、勇敢なるカルキノスを哀れに思って、天に上げて星にした。』(Wikipedia)

「あんまり活躍しないね。踏んで潰されたなんて、カッコ悪いかもだけど。」

大森ハナコは百科事典を見ながら、そう言って、続けた。

「ギリシャ神話って誰が作ったの?あまり面白くもないし。」

「4000年も昔のことだね。羊飼いたちは夜空を見て話を作ったんだ。文字なんてなくて、みんな創作した物語を口で伝えたんだ。芸術家でも何でもない、生活のためずっと星を見て過ごしていた羊飼いたちが神話を作ったんだ。」

「へー。思ったより庶民的なのね。誰か偉い芸術家が作ったと思っていたわ。」

「神話なんてそんなもんだよ。多分聖書も日本書紀も同じようなものだ。言い伝えが神話になって、ありがたがられるようになったんだ。もとはたわいのない、夜空を眺めてのお話だったんだよ。文字すらない世界で想像を膨らませてお話を作ったんだ。」

「へー。いい時代だったんだ。」

「それはどうだろう。」と蒲田滝人は言った。再び、百科事典を読む。

『ゼウスの王権が確立し、やがてオリュンポス十二神を中心としたコスモス(秩序)が世界に成立する。しかし、このゼウスの王権確立は紆余曲折しており、ゼウスは神々の王朝の第三代の王である。

最初に星鏤めるウーラノス(天)がガイア(大地)の夫であり、原初の神々の父であり、神々の王であった。しかしガイアは、生まれてくる子らの醜さを嫌ってタルタロスに幽閉した夫、ウーラノスに恨みを持った。ウーラノスの末息子であるクロノスがガイアにそそのかされて、巨大な鎌を振るって父親の男根を切り落とし、その王権を簒奪したとされる。このことはヘーシオドスがすでに記述していることであり、先代の王者の去勢による王権の簒奪は神話としては珍しい。これはヒッタイトのフルリ人の神話に類例が見いだされ、この神話の影響があるとも考えられる。』(Wikipedia オリュンポス以前のギリシャ神話)

「何かどす黒いね。しかもグロい。」と大森ハナコは言った。

「そうだね。多分そんなことが実際にあったんだね。それを多分神様にあてはめたんだ。猜疑心と残酷さ、人間の業は神様から引き継いだものと思いたかったのかもね。」

「星の名前って、見つけた人がつけられるんでしょ?」

「そうだね。ただすでにほとんどの星は把握できているので名前が付けられるのは、移動して現れた彗星だね(*)。」

*彗星が新しく発見された場合ですが、自動的に発見者の名前がつけられます。何人かがそれぞれ独立に(お互いの発見情報を知らずに)発見した場合には、発見した順番の早い順に3人までの名前がつきます。例えば、1997年に地球に接近したヘール・ボップ彗星の場合には、最初にアメリカ人のアラン・ヘールさんが、続いて同じくアメリカ人のトーマス・ボップさんが同じ彗星を独立発見したので、それぞれの名前が順番についたわけです。(出典:国立天文台ニュース)

恒星の命名(こうせいのめいめい、nomenclature of stars)は、その他の天体の命名と同様に、国際天文学連合によって行われる。今日用いられている恒星の名前の多くは、国際天文学連合の設立以前から存続するものである。主に変光星(新星や超新星を含む)等の名前は、随時付け加えられている。(Wikipedia)

肉眼で観測できる恒星の数は、約1万個である。近代以前の星表(天体カタログ)は、そのうち特に明るいものだけを収録している。紀元前2世紀のヒッパルコスは、約850個の恒星を一覧表にした。ヨハン・バイエルは1603年にこの数を約2倍にした。これらのうちごく少数が固有名を持ち、その他は全てカタログごとの符号が付けられている。肉眼で見える恒星が完備されたカタログが作られたのは、19世紀になってからだった。銀河系には合計2兆から4兆個の恒星が存在すると推定されているが、近代のカタログの収録数は非常に大部のものでも、数10億個である(Wikipedia)。


「私も星に名前をつけようかな?」

「天文学は意味がないけど、星の命名こそ、もっと意味がないんじゃない。その星が手に入るわけでもないし、生きている間に行くことすらできないのに。」

「そうかもだけど。」と大森ハナコは少し寂しく笑った。

蒲田滝人は「つける名前は決まっているの?」と聞いた。

「ダイヤハート」と大森ハナコは答えた。

2年間ずっと引きこもっていた大森ハナコが今日1番元気に言った言葉だった。

「子供の頃にやっていたアニメの名前で、カブトムシ飼っていたときとか、そういうときにいつもその名前をつけていたの。」

天井の先にある夜空を見上げて、大森ハナコは言った。

蒲田滝人は図書館で読んできたネタを続けた。

「エジプトのピラミッドって知ってるよね。ピラミッドはが建設されたのは紀元前2500年頃である。そしてこの巨大建造物はシリウス星が太陽とともに東の空に昇ることで夏の到来を知り、増水の時期を避け建設されたのだって。」

「すごいね。天文学、万能じゃん。」

「でも天文学が本当にすごいのは人間に自分たちは世界の中心ではないと知らせたことなんだ。後に『地動説』とよばれるその理論は人間がこの世界の摂理の1つに過ぎないことを分からせたんだ。確かコペルニクス(*)とかいう人だよ。」


*ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Pl-Mikołaj Kopernik.ogg Mikołaj Kopernik[ヘルプ/ファイル]、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者。カトリック司祭であると誤解されがちであるが、第二ヴァチカン公会議以前に存在した制度の「下級品級」であり、現在でいわれるような司祭職叙階者ではない。晩年に『天球の回転について』を著し、当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。また経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。

コペルニクスは言った。

「私が言っていることは今は意味がわからいことかもしれない、しかしこのことは時期が来ればやがて皆に理解されるものとなるでしょう。

(Wikipedia)


蒲田滝人は続ける。

「ペルーのナスカ地上絵(*)が描かれたのは今からおよそ2000年前なんだって。そして1939年6月22日考古学者のポール・コソック博士が上空を飛行した時に発見したそうだよ。つまり地上絵は飛行機が飛ぶ前は確認できなかったんだ。観察者が存在しない高地で星の位置で方位を測り、精密に描かれた。何のために描かれたのかは未だに不明なんだけどね。」


*ナスカの地上絵(ナスカのちじょうえ、英名:Nazca Lines)は、ペルーのナスカ川とインヘニオ川に囲まれた平坦な砂漠の地表面に、砂利の色分けによって描かれた幾何学図形や動植物の絵の総称であり、古代ナスカ文明の遺産である。ナスカの図形群が描かれているエリアは縦横30kmもある非常に広大な面積があり、全体に千数百点もの膨大な数の巨大な図形が描かれている。あまりにも巨大な絵が多く、空からでないとほとんどの地上絵の全体像の把握が難しい。なぜこのような巨大な地上絵を描いたのかということが大きな謎の一つとなっている。また、ナスカの地上絵のエリアから川を挟んですぐ南にはカワチの階段ピラミッド群があり、その関係性は深いと予想されている。


「へー。そんな大昔に誰に見せるために描いたのかな?」

「地上にはいない誰かだね。世界を作り、天空から地上を見下ろす誰かだね。この世界を作られし誰かに、感謝と畏敬の念を込めて描いたんだ。」

「天文学も面白いね。星で方角や季節を読み取ったんだね。」

と大森ハナコは言うと、

「私も学校でみんなと勉強すればよかったな。」とさみしく笑った。

蒲田滝人は何か応えようと思ったのだけど、何を言えば良いか分からなかったので、黙ったままだった。

そうしている内に時間になった。

何もできない無力な蒲田滝人は13万円で買った中古のバイクに乗るとかえって行った。

東京の夜空は明るい上に薄汚れていて星なんて見えなかった。



2.物理の時間

30年も前のことである。蒲田滝人は浪人してやっと受かった2流大学で留年してしまった。その後、幸運にも東京大田区の下町で大森ハナコの家庭教師を始めた。そして卒業までの時間を食いつないだのだった。

蒲田滝人はとても先生と呼ぶに値する人間ではなかったで、その生涯にわたり、先生と呼ばれたのはこの1か月が最後である。

蒲田滝人は軽く会釈すると授業を始めた。

「人類の科学を大きく進展させたのは物理学です。物理学といえばアイザック・ニュートン(*)。彼は科学界のモーツァルトでした。優れた才能で今日まで残る物理学を残しました。今あるすべての物理法則はニュートンの発見を基礎としています。ニュートンは引力が質量×加速度であることを見抜き、その積分がエネルギーであるとした。それはすべての物質が物理法則下であることを示したものでした。」


*アイザック・ニュートン(英: (Sir) Isaac Newton、ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日)は、イングランドの自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者・神学者。主な業績としてニュートン力学の確立や微積分法の発見がある。1717年に造幣局長としてニュートン比価および兌換率を定めた。ナポレオン戦争による兌換停止を経て、1821年5月イングランド銀行はニュートン兌換率により兌換を再開した。国際単位系 (SI)における力の単位であるニュートン(英: newton、記号: N)は、アイザック・ニュートンに因む。(Wikipedia)


「知ってる。リンゴの人だよね。」

「そう。有名だよね。でもそれはありがちな誤解なんだ。ニュートンによる『万有引力の法則の発見』」を“重力の発見”だと解釈してしまう例があるが、これは間違った解釈なんだ。リンゴが木から落ちるのを見て、ニュートンは万有引力を発見した」などとする単純化された巷に流布している逸話も、この誤解を広める原因になっている可能性があるよね。ニュートンは『リンゴに働く重力』を発見したわけではないんだ。重要なのは、『リンゴに対して働いている力が、月や惑星に対しても働いているのではないか』と着想したことなんだ。」

そう言い、さらに蒲田滝人は昨日図書館で読んだ話を続けた。

「地上では物体に対して地面(地球)に引きよせる方向で外力が働くことは、(ガリレオなどの貢献もあり)ニュートンの時代には理解されていたんだよ。ニュートンが行った変革というのは、同様のことが天の世界でも起きている、つまり宇宙ならばどこでも働いている、という形で提示したことにあるんだ(そして同時に、地球が物体を一方的に引くのではなく、全ての質量を持つ物体が相互に引き合っている事と、天体もまた質量を持つ物体のひとつに過ぎない事)。『law of universal gravitation 万有引力の法則』という表現は、それを表しているんだよ。」(*)

*Wikipediaを参考にした

「つまりニュートンは星もリンゴも同じ物理法則下にあると言ったんだ。」

「それはすごいことなの、かもだけど。」

「そうだよ。重さも大きさも関係なく、すべてが平等に物理法則に従っている。それは当時の出生に縛られた身分社会を否定するものであり、何でも神様の威厳をもとにて好き勝手していた教会の権威をも否定するものだったんだ。神様を否定するものではないが、すべての人も物も神様に平等に愛されていることを示したんだ。」


17世紀にヨーロッパで科学革命(Scientific Revolution)が起こり、人類は大きく進歩した。人類は神話と迷信の世界から抜け出した。即ち、物理学は人間が世界の中心ではないことを証明し、更に化学は世界が何で出来ているか示した。

この時期に起こった明確な科学の変革はまず、従来の宇宙体系の変革にあった。それ以前の天動説に立った宇宙観が捨てられ、地動説への転換がなされたのである。これにもとづけば、科学革命の中心的な担い手はポーランドのコペルニクス、ドイツのケプラー、イタリアのガリレイ、イングランドのニュートンの4名であった。地動説は、単に惑星位置の計算方法の変更にとどまらず、当時の宇宙観そのものの転換に大きな影響を与えた。また、ガリレイによる自由落下運動の法則などの力学的な発見は、従来の目的論的自然観(物体がそれぞれの目的に向かって運動するというアリストテレス的な自然観)に変更をせまるものであり、万有引力の発見などをはじめとするニュートン力学の発表は、近代的な機械論的自然観の提唱につながり、また、これまで地上のものと天上のものとを二分してきたキリスト教的世界観をくつがえした一方、多くの技術革新を導き、18世紀における蒸気機関の開発、さらには産業革命へとつながった。(*)

*Wikipediaを参考にした

「物理と言う名前は面白いんだ。」

蒲田滝人は大森ハナコの本棚から百科事典を取り出した。それは彼女の祖母が買い与えたものだけどほとんど読まれたはいなかった。

「・・・。現代の立場でいえば、物理学の対象は「自然現象を引き起こすもととなっている物質とその運動」、というべきであろう。さらにいえば、物理学の特徴は、それらの自然現象の奥に潜む普遍的な法則をできるだけ統一的に求めようとするところにある。イタリアのガリレイに始まりイギリスのニュートンにより事実上完成した古典力学では、対象は地球上の「物体」だけでなく、月や惑星などの天体をも含んでいる。ただ、このときの「物体」は、その内部の構造などは無視して、「質量」というような属性を抽出している。また、「運動」というときには「位置」とその変化とに着目している。しかし、その後の物理学の発展では、星をも含めて、それをつくっているもの、すなわち「物質」を対象とするようになっている。また、「運動」という場合、狭義の物体の運動だけを意味するのではなく、光の伝播(でんぱ)とか液体から気体への変化とかいうように、着目する属性の変化を対象として含んでいる。さらにまた物理学は、物質の構造と運動だけでなく、その運動を規定する枠組みである「時間・空間」の構造をもその研究対象としている(一般相対性理論)。

しかし、このような規定ではまだ物理学と他の自然諸科学との区別は明らかではない。たとえば化学に関して、現代の物理学者の一部には、いまや化学は物理学に包含されてしまったなどという見解がある。確かに、現代では物理学と化学との研究対象領域は互いに浸透しあっている。しかし、このようなことはすべての個別科学の境界についてもいえることであり、これをもって物理学と化学の区別がなくなったと考えるのは正しくない。」(*)

*日本大百科全書(ニッポニカ)「物理学」の解説


蒲田滝人は続ける。

「大雑把だけど物理は物の運動を研究する学問なんだ。例えば地球は太陽の周りを弧を描いて回るけどそれは太陽と地球が引力で引き合いながらも遠心力で遠ざかろうとしている。そのバランスで周回運動をしている。しかも宇宙は真空なのでその回転速度は堕ちることがない。即ち、永久に運動し続けるんだ。多くの山師や研究者が思い描いた永久機関が出来ているんだ。

これを運動の第1法則(うんどうのだい1ほうそく、英語: Newton's first law)または慣性の法則(かんせいのほうそく)という(*)」

*Wikipedia

蒲田滝人は百科事典を本棚に戻した。

「ここで、化学は化学変化をともなう現象の学問なんだ。紙も木の葉も石油も、もっと言えば人も木も花も死んで焼けば、すべて二酸化炭素と水になる。全く違うものでも、同じものから出来てるかが、最期は同じものになるんだ。」

大森ハナコは背伸びをすると、

「今日はもう疲れたからやめるね」と言い、気を使ってか、

「先生はきっといい先生になるよ。」と付け足した。

「学校の先生になるんでしょ。分かりやすいし、いい先生になるよ。」

蒲田滝人はそのころ覚え始めたタバコを探すしぐさをすると、もちろん生徒の前では吸わないでいた。彼がそのような態度を取ったのは照れていたためだった。そして自分の未来に自信があり、不安そうな大森ハナコに申し訳ないと思ったからだった。

そうしている内に時間になった。

モテなくていつも同じ服装をしていた何もできない無力な蒲田滝人はガソリンタンクの穴をガムテープでふさいだバイクに乗ると帰って行った。

東京の夜はいつも明るいが空気は路面に霜が降りるほど冷たかった。



3.化学の時間

30年も前のことである。

蒲田滝人は浪人してやっと受かった2流大学で留年してしまったが、それでも好景気の中で卒業の時を迎えていた。その後の氷河期と呼ばれる不運な世代を考えればラッキーな世代であった。卒業間際、家庭教師のバイトが見つかったのもラッキーであった。

3年間引きこもったまま中学を卒業する大森ハナコの家庭教師は受験勉強ではなく、3年間学校へ行けなかった子供に勉強の楽しさみたいなものを教えることであった。期間はわずかに1か月で、蒲田滝人はとても先生と呼ぶに値する人間ではなかったで、その生涯にわたり、先生と呼ばれたのはこの1か月が最後である。

冬の夜、家庭教師最後の日、蒲田滝人は軽く挨拶すると授業を始めた。借りて行った百科事典に何か所かしおりを挟んできた。それを読んでいく。

「紙も木も燃えれば少しの灰を残して消えてしまう。金や鉄は燃えない。水も燃えないが氷や蒸気へと形を変えることがある。油は水に似てるけど凍らないし、蒸気にもならない。しかし紙のように燃えて消えてしまう。」

人間だって燃やせば煙と灰になってしまう。人間はこの変化が何故なのかを考えた。すべてのものは変わってしまうのか?不変なものはあるのか?いろいろなモノが一体何からできているのかという疑問と考察は洋の東西を問わず古代からあったんだ。そして物質観・自然観・世界観と関連づけながらそれぞれの文明圏で体系がなされた。いつもそうだけど神様や宗教と関連づけられることもあったんだ。」

蒲田滝人は続ける。

「古代中国ではこう考えた。物質の根源要素には「木」「火」「土」「金」「水」の5つを基本物質である。

古代インドではこう考えた。世界を構成する物質元素は、地・水・火・風の四大であり、生命は絶対的な地・水・火・風・楽・苦・命の7つの要素から構成されている。命も1つの元素と考えたんだね。

仏教ではこう考えた。万物の構成要素として「地・水・火・風」を四大とした。更に「空」を加えた五大、さらに「識」を加えた六大へと発展し、それは哲学となった。

古代ギリシアではこう考えた。「水」がすべてを作っている。氷や水蒸気などの相を持ち、硬い岩も風化させる「水」が万物のあらゆる生成と変化の根源にある原理、即ち、アルケーだと論じた。

今日の学問の礎をつくったのはギリシアなんだ。ギリシアが最初に世界が何で出来ているかを解き明かそうとし、すべての学問の根本である数学へと発展していく。

ピタゴラス学派は「万物は数である」と述べ、「火・土・水・空気」に「正4・6・8・20面体」を置き、正12面体は宇宙を現すと主張した。

プラトンは土が正六面体でもっとも重く、他は三角形からなる正多面体で、火が最も軽く、これらはそれぞれの重さに応じて運動し互いに入り混じると考えた。更に三角形がイデアを示すかたちであり、これは分割ができないものという主張を行った。分割できないもの、これは現在の元素の考えに結びつくんだね。

更にアリストテレスは無限を考察する際に、宇宙を満たす媒質エーテルの構想へとつながっていく。これは真空の存在を予言していたんだ。」(*)

*Wikipedia参考

蒲田滝人は言う。

「物質の根源は何かという問いを改めて提議した人物がアイルランド生まれのロバート・ボイル(1627年 - 1691年)みたいだね。彼は著作『懐疑的化学者』にて思索だけに頼った古代ギリシア哲学の元素論を批判し、実験を重視して元素を探求すべきという主張を行ったんだ。また彼は、元素に「これ以上単純な物質に分けられないもの」という粒子説の定義を与え、さらに元素は古代的考えの4-5個では収まらないという先見的な予測を示したんだ。

そして人類はようやく、やがてすべての物質はわずか118種の元素からなり、質量、電荷が整数で表される元素周期律表(ロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフ(1869年))に到達するんだ。すべての物質はこの元素からなり、その元素が結合の形、分子構造を変えることで変化するんだ。

例えば、空気中の二酸化炭素は植物に吸収され、セルロースと言う構造にかわり樹木を形成する。セルロースは紙としても使われるのだけど、燃やすと炭素をまた二酸化炭素の形で放出する。

二酸化炭素はセルロースではなくデンプンの形で植物に作られることもある。それは動物に食されるとエネルギーとして使われて、同じく二酸化炭素として呼気で排出されることもある。また炭素はタンパク質となり、その動物の体を作ることとなる。

つまり炭素がこの世界を作っているんだ。

こうした一連の発見を科学革命(Scientific Revolution)と呼び、人類は迷信と神話のしがらみを抜け出し、科学と論理の世界へと大きく進歩したんだ。(*)」

*Wikipedia参考

蒲田滝人は百科事典を置いた。

「今まで話したことはもう何百年も前に分かったことなんだよ。実は中学校の教科書で勉強していることも、それくらい前に分かったことなんだよ。」

「そんな昔に発見なんかするから私が勉強しなくちゃいけなくなる。ムカつくかも、だけど。」

蒲田滝人は「そうだね。」と言った。

「でもこうした発見は名前も残せなかった多くの人が努力したおかげなんだ。すべての動物の中で人間だけが知識を受け継ぐことができたので人類は発展したのだと思う。人生は大体80年って言われる。人間はおおまかに20歳くらいまで勉強して、50年くらい働く生き物なんだ。」

「よく分からないけど」と蒲田滝人は「言った。

「お母さんはきっとハナコちゃんにそうしたことを勉強させたかったんだ。それで僕が呼ばれたんだと思うよ。」


それは蒲田滝人が家庭教師をした最後の日のことだった。

大森ハナコは唐突に「先生は特殊浴場(*)とか行ったことある?」と聞いた。

*1960年代後半頃より、性風俗店としての「トルコ風呂」は日本で広く通用する言葉になっていた。1981年から1983年にかけて、トルコ人留学生の告発を受けて変更することとなった。しかし、代わりとなる名称が決まらず、暫定的に「特殊浴場」「特浴」「湯房」などの名称が使われた。東京都特殊浴場協会は新しい名称を一般公募し、同年12月19日に赤坂プリンスホテルで会見を行い、新たな名称である『ソープランド』を発表した。


蒲田滝人が答える前に、大森ハナコは「私こんなのだから、お母さんがいなくなった後はそんな仕事も考えないとね。」と言った。

そのとき蒲田滝人は何を思ったか?

田舎からどうしても来たくて出た東京は住みづらく、悩ましく、また全然モテないので悶々とした日々を送っていた。

それでも好景気で自分の未来は明るいと信じていた。

だからこれから大変な大森ハナコの人生を思うと胸が痛んだ。

そして特殊浴場には行ったことなく、実際に童貞であったのだけど、それがカッコ悪いみたいな変な意地があって、蒲田滝人は何も答えなかった。

「就職して落ち着いたら連絡するよ。フリースクールとかいろいろあるからね。これからだって、きっとちゃんとやれるさ。」


4.30年後の未来

30年も前のことである。

30年が過ぎて、蒲田滝人が大森ハナコに連絡することはなかった。蒲田滝人は思う。

30年前、口にした言葉もすべて意味のない空絵事だった。当時1989年末につけた日経平均株価はあれから30年も過ぎても越えることがなかった。4万円直前であったので多くの欲深な愚か者がこの上昇に賭けた。銀行で多額の借金をして、最高値の株を買う者はたくさんいた。

蒲田滝人もまた欲深で愚か者であった。そのため予定していた教師の仕事をけり、土壇場で証券会社に就職した。

*1989年12月29日 、日経平均株価は算出開始以来の最高値(ザラ場 38957.44円、終値38915.87円)をつけた。


バブルがはじけると最初の波をかぶったのは証券会社である(*)。蒲田滝人は親戚中に最高値で株を買わせ、仲良かった親類とも疎遠になった。


*バブル崩壊 バブル崩壊(バブルほうかい)は、日本の不景気の通称で、バブル景気後の景気後退期または景気後退期の後半から、景気回復期(景気拡張期)に転じるまでの期間を指す。内閣府景気基準日付でのバブル崩壊期間(第1次平成不況や複合不況とも呼ばれる)は、1991年(平成3年)3月から1993年(平成5年)10月までの景気後退期を指す。

バブル崩壊という現象は、単に景気循環における景気後退という面だけでなく、急激な信用収縮、土地や株の高値を維持してきた投機意欲の急激な減退、そして政策の錯誤が絡んでいる。

1980年代後半には地価は異常な伸びを見せた。公示価格では北海道、東北、四国、九州など、1993年ごろまで地価が高騰していた地方都市もある。

バブル経済時代に土地を担保に行われた融資は、地価の下落により、担保価値が融資額を下回る担保割れの状態に陥った。また各事業会社の収益は、未曾有の不景気で大きく低下した。こうして、銀行が大量に抱え込むことになった不良債権は銀行経営を悪化させ、大きなツケとして1990年代に残された。

また、4大証券会社(野村證券・山一証券・日興証券・大和証券)は、株取引で損失を被った一部の顧客に対して損失補填を行ったため、証券取引等監視委員会設立のきっかけとなった。(Wikipedia)


苦しんだ蒲田滝人は戦後安定して上がり続けた土地へと糧を求めた。即ち、不動産会社に転職した。途中入社社員のノルマを果たすため、年老いた親に退職金でマンションを買わせた。そして土地神話の崩壊、ついに蒲田滝人は両親にも見捨てられる者となった。(*)


*バブル崩壊 不動産

1980年代末期の日本での不動産バブルは、価格上昇の原資は主に国内のマネーだけであった。大蔵省が行った総量規制で銀行の不動産向け融資が沈静化し、地価が大幅に下がり始めバブルが崩壊した。それまで土地神話のもと、決して下落することがないと言われた地価が下落に転じ、以後、2005年に至るまで公示価格は下がり続けた。2005年以降は、一部の優良な場所の公示価格が上昇に転じている。

1998年末の時点で日本の不動産の価値は2797兆円に及び、住宅・宅地の価値は1,714兆円と不動産全体の約6割を占めていた。1998年末の土地資産総額はピーク比で794兆円、株式資産総額は同じくピーク比で574兆円減少している。1980年末のバブル崩壊以降、日本の不動産の時価は600兆円以上暴落した。日本全体の土地資産額は、1990年〜2002年で1000兆円減少した。バブル崩壊で日本の失われた資産は、土地・株だけで約1,400兆円とされている。内閣府の国民経済計算によると日本の土地資産は、バブル末期の1990年末の約2,456兆円をピークに、2006年末には約1,228兆円となりおよそ16年間で約1,228兆円の資産価値が失われたと推定されている。

また、バブル崩壊直前に高値で住宅を購入し、以後の価格下落で憂き目を見る例も少なくない。資産価格が下落したにもかかわらず固定資産税が高止まりしたままだったり、バブル崩壊後の低金利へローンを借り替えようとしても担保割れで果たせないなどである。高値で買った同じマンションの別室がバブル崩壊後に破格値で売り出され、資産価値下落の補償を求める訴訟も起こされたが、大半は自己責任として補償を得られずに終わっている。

経済学者の竹中平蔵は「バブル崩壊によって日本の地価が下がったが、これもグローバリゼーションの一環であると考えることができる。日本の地価が下がってきたことは、グローバリゼーションによって起きた制度の競争、『要素価格均等化の命題』の流れに沿っているという見方もできる」と指摘している。(Wikipedia)


9回の転職、2回の結婚と2回の離婚、2回の自己破産、多分3回目もすぐそこだ。ホームレス同然に落ちたことの3回ある。自殺未遂は4回。1回だが、執行猶予がついたものの刑に服したこともある。

つまり蒲田滝人は蒲田滝人でそれどころではなかったのだ。ずっと心の深いところに刺さっていたのだけど、結局は自分のことに一生懸命で、何もしなかったのだ。

だけど蒲田滝人は思う。

こんなボロボロでゴミみたいな人生だけど、生きていたのは良かった。人の馬鹿にされたり、邪魔にされたりした人生だけど、東京の曇った夜空を見上げ、安酒をあおって、管を巻くだけなのだけど、生きていて良かったと思うのだ。

だから大森ハナコのこともそう思うのだ。

きっと簡単ではなくて大変な人生だと思うけど、生きていさえくれればそれで良い。つまり人生とは生きているという、そのものに意味があるのだ。

蒲田滝人は惑星ダイヤハートを東京の汚れた夜空に探す。何の役にも立たなかった人生の、飲み過ぎた酒の、薄汚れた夜空の・・・・。

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ダイヤハート ナリタヒロトモ @JunichiN

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