寝ても覚めても君を見る
ZENWA
寝覚めの悪い僕
〈夢〉と〈ゆめ〉はなにがちがうのだろう。前者は眠っているときに見るもので、後者は起きているときに見るものだ。どちらも自分が描いたもので、どちらも見ようとして見るものではない。
ただ〈夢〉は忘れるもので、〈ゆめ〉は諦めるものである。そして僕はその日、〈夢〉の中で〈ゆめ〉を見た。
電車は隣を行く車と並走し、駅が見えてきた辺りで追い越された。
少し目線を上げるときらめく海に、入学当初は目を揺らされた結人―も今ではぼんやり眺めるだけになり、あぁ空と同じ色だなあ、と無意識に思う程度だった。
電車が停車するなり降りるのは結人と既視感のある老婆だけで駅員すらいないこの駅は、なるほど快速通勤ライナーが停車する価値無しと思う他ない。
降りたホームからは校舎が拝め、下駄箱からシューズを取り出す前から登校した気持ちになる。
何歩で着くのかと気になりもしない近さの校門を、日課になったお辞儀をしながらくぐり、今度は高校一年生の教室のある校舎の四階を目指す。三階、二階は高二、高三の教室で、一階は職員室や実験室などがある。進級してやることが増えるのと、上る階数が減るのはどっちがマシなのかは、夏になればわかるだろう。
結人は誰もいない教室に入り、がらんとした空間を昨日の日直と誰も意識していないであろう今週の目標が書かれた黒板の端から広角に視界に収める。
こうして見れば、先の海も少しきらめいて映る。結人は、次の電車が停車するまで結人によって占拠されたこの空間が好きだった。
なにをしても、しなくても良い。いるのは結人だけだから。
時間は過ぎて、ひとりふたり…と増えていき、やがて教室は人で溢れかえる。
人が教室に入るとき、何も疚しいことなどないのだが無意識に誰が来るのかを確認する。
だから誰が何時ごろ来るかをなんとなくだが把握しており、その範疇を越えると出欠が少し気になったりもする。
予鈴が鳴り終わるか終わらないかのタイミングで先生が教室に入ってきて、皆まばらながらに、おはようございますだとか言っている。同時に着々と席に着いていき、結人も左から二番目の一番後ろに着席する。そういえば今日は左端で前から二番目の席が空いている。それ以外は揃ったようだ。
「今日は椿原が休み…と」
そう言ったのは結人の担任であった。皆に聞こえるように言っているのか独り言が大きいのか、その真意は分からないが、本人は気にしないという顔で出欠簿に記入をしている。
まだ学校が始まって一か月だが、この人の名前はフルネームで覚えている。なにせ美人も美人で椿の花さえ目劣りすると言われるほどであり、結人も入学式で当時まだ誰とも知らない椿原という美少女がクラスメイトだと知った時には自分を産んでくれた両親と、椿原を産んでくれた会ったこともない椿原の両親に深く感謝したものだ。
休むようなイメージが無かったため、またその容姿から、教室のあちこちで驚きの声と嘆きとがざわめいていた。
当然、結人もその現実を憂いた。
そのまま先生は淡々と連絡事項を述べると、朝礼の終わりを告げるチャイムが響き渡った。ありがとうございましたと言うや否や、一斉に皆が周囲の子と談笑を始めて予鈴前の活気をすぐさま取り戻す。一部の男子を除いて。
「最悪だあぁ」
そう言ってきたのは出会ってわずか一か月で結人の親友を名乗る鬮野信
これで「くじのあき」と読むらしく、自己紹介の時に「自己紹介とタピオカが嫌いです」と言っていた。
鬮野家はその書き難い苗字を理由に代々名前を小学校四年生レベルで統一するという謎の仕来りがあるらしい。真偽は不明。
ただ、読むのも書くのも面倒なお名前を持つ自称親友の境遇に、さすがの結人も当初は同情を余儀なくされた。
だがそれとこれとは別である。
「全くだよ。朝っぱらからこんな男に話しかけられるなんて」
「ちげえよ。椿原さんのことだ。今日一日ご尊顔を拝見できないとは…」
確かに結人もアイドルグループのライブで推しの子が休んだ時のような喪失感に駆られていた。
もっとも結人はアイドルのライブに行ったことなどなかったのだが。
「まぁあの無敵の笑顔を拝めないのは一日の損失だな」
「だよなぁ…」
鬮野は時々「はぁ」だとか「今日何食べたんだろ…」とか呟いている。
「あの人が笑ってるとこ見たことないけど」
クラスメイトで我が妹の
双子ではなく結人が五月十七日産まれで花菜が三月二十日産まれなのだ。
親曰く四月が予定日だったため、女の子だから花菜にしようとしていたら、想定より早く出てきてしまったらしくどうしようかと考えた結果、花菜が可愛い名だからと半ば勢いで決まったそうだ。
兄妹で(双子ではなく)同学年なのかとよく驚かれるが、モー娘。の誰かも姉弟で出産が一年以内だった気がするので別におかしいことはないだろう。
珍しいことはいささか否めないが。
「俺達には微笑んで見えるんだ!そうでなければあの美しさはどう説明する!なあ親友!?」
「いや、笑ってるとこみたことねえや」
「おめぇが言ったじゃねえか!?」
いやだってあの時アイドルを連想してたし。ね、言いたかったんだもん。仕方ない。
「そんなのじゃほんとに微笑んだ時死んじゃうよ?」
「「「それで死ぬなら本望だ!!」」」
クラス中の男達が唇をかみしめて頷いている。ちなみに女子は呆れている。
知らない間にこんなに話題にされてかわいそうに、そう結人は苦笑いしながら一限目の数学を準備していた。
次の日、教室に入ると椿原が一番乗りで座っていた。この狭い空間で美少女と二人きりというメッカを軽く凌駕する聖地を前に、結人は真っ先にドッキリを疑った。
ドアを開けた手をさっきと逆側の取っ手にかざして開き、体の向きをそのままに退室した。
廊下に出てドアを閉めて、一応言っておく。
「絶対だれか見てんだろー」
ミテンダローミテンダローミテンダロ― 誰もいない廊下にこだまする。
いや、こういうのは実際仕掛け人がいるかどうかより、言って保険をかけておくことに意味があるのだ。
意を決して本日二度目の入室を果たす。左端の前から二番目、そこに彼女は座っている。
凛とした姿は座っている姿勢からも十分に感じられ、まさに椿の花が如く、凛々しくも強い意志のようにそこに咲き誇っていた。
「おはよう」
結人が挨拶をすると、本を読んでいた椿原はふっと顔を上げて話しかけてきたのが誰なのかを確認する。
「おはよう」
そう言って椿原は読書を再開した。こうして淡い期待と一球限りの会話のピッチングは唐突に終わりを告げた。
ただどこか、最初に読んでいたときの表情より、少し物悲し気だった気がした。
そもそも、椿原は結人にとって文字通り高嶺の花であり、恋愛対象ではなかった。
ただ美しい花を見て美しいと思うように、推すことこそすれど、執心するつもりはない。それほどまでに椿原の存在は学年の中で類を見ないものとなっていた。
そんな彼女についた二つ名はシンデレラ泣かせの白雪姫。舞踏会でひと際目立ったシンデレラを泣かせる美貌の眠れる氷の姫、だとか誰かが言っていた。眠れるというのはまだ見せぬ笑顔やしぐさを秘めた潜在能力のことらしい。これは昨日の放課後、鬮野がグラウンドで結人に説いていた。面倒になったので、身振り手振りを加え熱く語る鬮野を置いて結人は先に帰った。あの熱量は、きっとあと五分は一人グラウンドで夕日に染められながら語っていたことだろう。
ご苦労なことだ。
家に帰って風呂に入り、髪を乾かしているとき、結人は今日の朝のことを思い出していた。愛想という観点で考えてみると、仮に朝の挨拶にもっと愛嬌がこもっていたら軽く悩殺されていたかもしれない。
具体的に言うなら、返事をする前に笑顔になって、挨拶の後になんでもない話を続けてくれて、できればその話の内容は学校での出来事だったりして、語尾は敬語で、髪を耳にかけたりする少しあざとめのしぐさで、自分のことを結人君と呼んでくれる、そんな椿原だったらな、などと思ってしまう。
そんな自分の気色悪さに嫌気がさしたので、隣でスマホを見ている花菜に「殴ってくれ」と頼んだ。
なぜだろう、その瞬間花菜は何も言わず五歩下がった。なので結人が五歩進むと唐突に右頬を平手打ちされた。あえて感想を言うなら、とても痛かった。
いや自分が望んだことなのだが、それ以上の感情がその手のひらには乗せられていた。ただ、その痛みの分だけ自分はまともなのだと安心する。だから「ありがとう」と笑顔でお礼を言ったら、なぜだろう。左頬もひっぱたかれた。なんだその目は。まるで出し忘れた粗大ごみを見るような眼差しでこちらを見てくる。違う、違うんだ。決してお兄ちゃんにそんな趣味はない。頼む、分かってくれ。だからその粗大ごみに貼るシールを置いてくれ。
「妹よ、明日は粗大ごみの日じゃない。燃えるゴミの日だ。」
「まぁ!それならなおさら出さないと。」
あぁ妹よ、君を泣く。君のお兄ちゃんは粗大ごみにもなれない燃えるゴミらしい。有機物と見なした点については評価するが、死ぬ前に火葬するのはどうなのだ。
「僕死にたまふことなかれ」
それが結人の最期の言葉だった。
明くる日、奇跡的に生還を遂げた結人は一人で学校に通っていた。昨日の一件で花菜に見放された..とかではなく、もともと結人が早起きなのと花菜が遅起きなので別々に登校しているのだ。
ちなみに産まれる時は逆で花菜が二十四時を回ったあたりで産まれてきて、結人は二十四時の直前に産まれたらしい。
先天的に花菜が早起きで結人が遅起きのはずなのだが。で、いつも通り一人で電車に乗り、一人で通学路を歩き、一人で校門をくぐる。一人じゃないとすれば、そう、椿原が今日も教室にいた。昨日ドッキリじゃないことが分かったので気兼ねすることもなく結人も教室に入る。
「おはよう」
昨日と同じで結人が話しかける。
「おはよう」
椿原も挨拶に応じたが、昨日と違い、誰かを確認することなく。返事をした。結人だと分かっていたのだろう。冷たくされていると言われればそれまでだが、それはどこか、信頼に近いもののようにも感じる。自意識過剰なのだろうか。
昨日はそこで会話が終わったのだが、今日は結人が鞄を席に置いた時点で椿原の方が話しかけてきた。
「富士宮君は、ユメを見たことある?」
「ユメ…?」
唐突に椿原に話しかけられたのと、問われたことの意味が分からず、回答に詰まってしまった。
「ユメってのは、あの寝てる時の?」
「そう、その〈夢〉ともうひとつ、〈ゆめ〉」
おそらくだが彼女は、睡眠時に見る〈夢〉と、将来の願望として見る〈ゆめ〉のことをいっているのだろう。
わかってなお、わからない。それらを同時に見るということが。
「ここで言うユメってのは、見たことないかなぁ」
「そう」
それだけ言ってまた読書に戻る。初めから目線は本に向けられたままだった。
長い沈黙の末、再び椿原が話し始める。
「死んだあとって、眠ってる感覚だと思うの、私。夢を見てないときの何も感じなくて、何も考えなくて、意識がない状態」
「ほぅ」
「だからね、天国も、地獄もないんじゃないかって。そもそも今の人間の善悪の指針なんて法律だし、それで言ったら世界各国別々の地獄が存在することになるじゃない」
確かに、そうだとしたら面白い。白人の閻魔様とかがいるのだろうか。なんとも滑稽だ。
「そして思うの。死んだ人が何も感じないなら、私たちは死者の何を憐れむのだろうって。私達も何も感じなくなって、自分自身が自分自身の存在を忘れるなら、今生きる意味はないんじゃないかって。何のために今、生きて苦しむのかしら」
「楽しいこともあるからじゃないの?欲を満たすときの生きててよかったって感じる気持ちの代償が苦しむってことなのかも」
思ったことを率直に話した。椿原は続ける。
「でも大体、未来のちっぽけな幸福のために、今を犠牲にたえているのよね。それって割に合わないと思うのよ。それに、死んじゃって何も覚えてないなら、今死んだとしても、長生きして死んだとしても変わらないじゃない」
「それは大げさなんじゃ…」
「えぇ、別に私も死にたいって言ってるんじゃないわ。ただ、結局私たちが恐れているのは死んだ後のことより、その死ぬ過程でどんな目に遭わなきゃいけないのかを想像して、死におびえているだけよ。私は、あと七十年くらい生きるのが面倒だな、て思ってる。」
こんなにも自分の話をしてくるとは思わなかった。でも彼女の言ってることは思春期の多感な男子高校生にはあまりにも、大きく響いた。
「それで、ユメってのは…」
そこまで言って、結人は口が止まった。椿原に遮られたのではなく、太陽が海を照らし、海がそれを反射して、教室をピンクに染め上げて、教室中の光を椿原が一身に受けているように、見えた。
―神秘的―
目に映る光景が0.5倍速で流れ、窓から吹く海風が、椿原の長い髪を揺らす。
「あなたもいずれ見るかもしれないわ。今を、現在を生きる意味を見いだせなくなった時、貴方自身が望んだ形でその世界は創り上げられ、あなたを生かそうとする」
どれくらい時間が経っただろう。物理的な時間以上に、体感した時間は流れていた。気づけば結人はただ突っ立っていて、教室内には何人もクラスメイトがいた。たわいない話で盛り上がっている。
一日はまだ、始まったばかりだった。
椿原が結人にユメの話をしてから、何日も経った。
あの日から結人は自分自身の存在意義を、自分自身に問い続けていた。
一向に答えは返ってこない。
(何故産まれてきたのか。死ぬため…いや、生きるから、死ぬんだ。なら、なんで生きるんだ…)
「どしたのお兄ちゃん。なんか嫌なことでもあった?いじめ?お兄ちゃんにそんなことするやつがいたら私がパピコをそいつの両耳にぐにゅーって入れてやるんだから」
花菜はシャドウボクシングの真似をしてシュッシュと拳を出したり引いたりしている
「ありがとな、違うから安心してくれ。」
到底かつて兄を焼却しようとした人間の発言とは思えないが、こうして心配してくれる兄想いな妹には感謝しかない。今度パピコの正しい使い方について教えてあげよう。
「そう、何かあったら言ってね。雪見大福とかならいつでも投げてあげる」
「ああ、真っ先に花菜に伝えるよ。」
仮にいじめられても絶対に花菜にだけは言わないようにしようと結人は誓った。花菜なら本気であらゆるアイスを駆使して結人を守ろうとするだろう。アイスは食べ物、武器じゃない。富士宮家の家訓として今度掲げとこう。
こうして結人の疑問は解消されないまま、時間だけが過ぎていった。
「生きる…死ぬ…生きる…死ぬ…生きる……」
寝る前にベッドで毎日花占いのように言い続け、言うたびに訳が分からなくなる。どうせ死ぬならなぜ生きる。せっかく生きてもどうせ死ぬ。
生まれ変わるなんてこともないのだろう。
もしそうなら、臓器移植をした人の魂は提供された人の中で再び生き続けるということなのか。
じゃあ死ぬっていったい何なんだ。
親の血肉が子供をつくるなら、親は子供の中で生き続けるのだろうか。
じゃあ生きるって何なんだ。意識をもって、色んなものを感じて、考えて、思って、想われて…それが生きるということだとするなら、生物学的な死以前に、人はとっくに死んでいるのだろう。
―ならいっそ産まれなければ―
その日は、五月十六日の夜だった。
目が覚めると朝ごはんと思われるスクランブルエッグの香りが結人の部屋までしていた。
上にはねた前髪の寝癖を気にしながらリビングへ向かう。
その後、母の仏壇に手を合わせる。
父は早起きの結人よりも先に起きて朝食を作って仕事に行く。帰ってくるのはいつも結人が寝た後か、帰ってこないか。いずれにしろ平日に親に会うことはほぼないのだ。
昼食は呉駅のコンビニで買っていき、夜ご飯は結人が作る。洗濯や掃除は花菜がやってくれて、皿洗いは毎日じゃんけんをしている。
ちなみにごみ捨てはあの日以降結人がしている。理由は言うまでもない。
なので親が不在なことを不便に感じたことはないし、傍から見れば新婚のように見える家事の分担も兄妹でするのはそれなりに楽しい。兄妹円満のコツは妥協である。
スクランブルエッグをパンに乗せてケチャップをかけて食べる。父の機嫌が良い時や、ゆとりがあるときはウインナーがそばに置いてある。いつもの朝食がグレードアップし、その日は少し人に優しくなれる。
今日は置いてなかった。
朝ごはんを食べながらニュース番組で昨日のカープのハイライトを視る。
負けた次の日なんかは赤ヘルが映った時点でテレビを消すのだが、昨日は五対一で勝った中継を見ていたので気分よくテレビを眺めていた。
『昨日のカープは投打ともに冴え渡っていました‼︎まずは一回…』
勝つか負けるかのスリルのある中継を視るのもいいが、勝ちが確定した状態で視る報道もまた一興。
皿を洗おうと食器を持ち上げたとき、何か紙が落ちていった。皿を持っていたので結人はあまり気に留めず、シンクに皿を運んでいく。
その後、時間と天気予報を見て傘の必要性の高さを確認して制服に着替える。
『今日の最高気温は二十九度、最低気温十七度と寒暖差に注意してください。それでは各地の…』
「ジャケットどうしよっかなぁ。着てくか」
テレビを消して、自分の部屋から鞄を取ってきて玄関に向かい、ジャケットを着てから靴を履く。ドアを開けると肌寒い。ジャケットを着て正解だった。
「行ってきます」
まだ寝ている花菜に言ったのではなく、特に誰かに言おうというつもりもなく、ただなんだか、いつも言いたくなるのだ。今日もいつも通りの一日が始まる。だがいつもと違うなにかを忘れている。
(今日って何かあったっけ)
もやもやしたまま少し重い足取りで呉駅に結人は向かった。
呉駅でお婆さんに道を教え、コンビニで今日までというクーポンをもっていないか懸命に探し、結局なかったので定価で支払い、電車に乗って登校し、教室に入る。すると教室には椿原がいた。あの日以降こんなに早く登校することはなかったが、今日は彼女が一番乗りのようだ。
「おはよう」
いつも通り結人が切り出す。
「おはよう」
椿原は本から目を離さないまま返事をした。あの時以降、結人の中で椿原に対する見方が変わっていた。自分がまだ体験していない何かをすでに経験しているような、未知という名のベールに包まれて見えた。あの日から、椿原とは会話をしていなかった。
「今日は早いんだね」
少しラフに話しかけてみる。
「えぇ。」
「……」
え、それだけ?
いやあんなにおしゃべりだったツバッキーが今日はすごい塩対応。
否、元来彼女はこうなのだ。あの日に多くを語っていただけであって、愛想がなく、愛嬌もなく、可愛い見た目なのに可愛げのないいつもの椿原だ。
そう納得はしたものの、あの時みたく、もっと話がしたかった、という感情が結人の心の奥底でうずめいていた。
(せめて笑ってみて欲しいなぁ)
その後お互い干渉もなく時間が過ぎ、クラスメイト達も登校してきて予鈴が鳴った。
そういえば花菜がまだ来ていない。
「今日は富士宮の、花菜の方が休みだな」
少し驚いた。今更ながら昨日の夜少し体調悪そうだったので結人が代わりに掃除をしたことを思い出した。だが、今日はなんだか会いたかった気がした。なぜ今日なのかはわからないが、今日に限って花菜に、妹に会いたかった。
(やはり何か、忘れているような…)
その後、花菜がいないというだけでいたって普通の学校生活がスタートする。
一限目は古典で自習だった。
先生が出張で東京に行ってるとかなんとか。二限目の地理では先生イチオシのスキー場を紹介され、三限目の英語は月一で行われるオンライン上で行う憂鬱な英会話の日だった。
四限目に数学の怖い先生に当てられて肝を冷やして、五限目の公共では八割の人が寝ていた。六限目の化学では理系か文系かを問われ、まだ決めていないと言ったら「大丈夫かな?」と言われた。
部活動をしていない結人はその後普通に下校し、コンビニで花菜にプリンを買って帰宅した。
ドアを開けて中に入り、靴とジャケットを脱いで自分の部屋に向かう。部屋に鞄を下すとプリンを持って花菜の具合を見に花菜の部屋に行く。
「花菜、大丈夫か?」
部屋のドアをノックしても返事がない。
「入るぞー」
部屋に入ると花菜は寝返りを打って寝ていた。雲一つない健やかな寝顔に安心し、プリンだけを置いて部屋から出る。夜ご飯でも作ろうと思ったが、なぜだか全く、そんな気になれなかった。
今日一日、結人自身は自分のいる意味を繰り返し考えていた。そして意識して生活して初めて分かった。
―世の中は、僕がいなくても勝手に回っている―
父さんは僕が起きる前から出勤しているし、花菜もいつも僕が起こさなくてもちゃんと起きて学校に行っている。
今日も僕が看病してやらなくたって自分で療養していたみたいだし、学校で僕が話しかけようとかけまいと、椿原は読書をし続けた。
授業だって僕が受けようと受けまいと進んでいくし、電車も僕が乗ろうと乗るまいと時間通りに発車する。
駅で出会ったお婆さんでさえ僕以外の人でも同じ様に目的地に辿り着いただろう。
(僕が関わって変わることなんて、何一つないじゃないか)
結人は活力がなくなった体をベッドに委ね、意識を意識的に遠ざけていく。
(生きる意味って、何なんだ…)
結人は静かに目を閉じた。
目を覚ますと、スクランブルエッグの香りが結人の部屋まで香ってきていた。朝になったのだ。
上にはねた寝癖を気にしながらリビングに向かう。スクランブルエッグをパンに乗せていると、ウインナーが添えてあることに気が付いた。結人は小ガッツポーズを決めるとウインナーを乗せていつもの倍の量のケチャップをかけた。
テレビをつけると昨日のカープの試合結果を報道していた。昨日は寝てしまったので少し食い気味にテレビを覗き込む。
『昨日のカープは投打ともに冴え渡っていました‼︎まずは一回…』
(五対一…一昨日と同じか)
カープの勝利に朝食の味も深みが増す。
一気に食べ終わり、皿を片付けようとすると、一枚の紙が落ちていった。皿を持っていたので拾うことなくキッチンに行き、皿を洗う。そして天気予報を確認しながら制服を着る。
『今日の最高気温は二十九度、最低気温十七度と寒暖差に注意してください。それでは各地の…』
「昨日と似たような陽気だな。ジャケットを着よう。」
そう呟きながらテレビを消して、自分の部屋から鞄を取り、ジャケットを着てから靴を履く。そして花菜と母が眠っている家に向かって「行ってきます」と言ってから歩き出す。
(なんだか昨日もこんな感じだった気が…)
駅に着いたら昨日話しかけられたお婆さんにまた話しかけられた。お礼でも言われるのかと思ったら、再び道を尋ねられた。それも昨日と同じ場所を。
(物忘れが多いのかな)
少し腑に落ちないまま昼食を買おうとコンビニに行くと昨日までが期限のはずのクーポンを前のレジで会計をしているサラリーマンが使っている。
(このクーポン、昨日までだったはず…だからこうして財布の中を懸命に探して…)
そう思って開けた財布の中に昨日はどれだけ探してもなかったはずのクーポンが入っていた。レジで店員に見せると笑顔で受け取られ、結人は定価の七割の価格で弁当を買った。
(でも確かに、あのクーポンが使えたのは昨日までだったはず。なんだかまるでもう一度昨日を生きているような…)
その瞬間、結人の脳裏をよぎる、昨日確かに〈存在した記憶〉
(カープの戦績、気温、お婆さんとの受け答え、コンビニのクーポン…僕はもしかして、昨日の中に…?)
自分がいかにばかげていることを考察しているかは重々承知している。そのうえで、もう一度冷静に考えてみる。
(いや、昨日と違う点もあった。朝食のウインナーとか、クーポンとか…)
全く訳が分からないまま電車に乗り込む。そのまま考える、というより現実に頭が追い付かずボーッとしていた。とっくに頭は限界だが、ホームに降りて、学校を目指す。
(教室で座ってゆっくり考えよう)
うつむいて教室に入ると誰かが明るい声で話しかけてきた。
「おはよーっ」
そう言って左手を振りながら結人に溢れんばかりの笑顔で話しかける絶世の美女。
(誰だ…この人…僕が知ってる絶世の美女は不愛想で、僕が話しかけないと挨拶してこない愛嬌のない塩対応の…)
―
態度、しぐさ、声色…その全てにおいて結人の中の椿原の情報と一致しないが、その美貌が物語っているのは椿原そのものでしかなかった。
「もう、おはよって言ってるでしょー。聞こえてるー?」
「お、おはよぅ…」
もはや結人に返す言葉はそれしかなかった。
「おはよっ。今日は天気良いねぇ」
ニッっと笑って話を続ける椿原。まさか椿原からそんなたわいもない話が飛び出すとは…これではまるで結人が望んだ椿原のようである。
「そう…だね」
状況が全く呑み込めない結人にとって精いっぱいの受け答えだった。
そんな中ふと、椿原なら今日起きている不可思議な事象もわかるかもしれない、そう結人は思った。
「ねぇ、前に言ってたユメって…」
「そういえばさあ、昨日物理の先生のθの発音独特だったよねー」
そう言って笑う椿原の声に、呆気なく結人の声はかき消される。だが何も悪い気はしない。なぜならこれは、結人自身が望んだシチュエーションそのものだから。
「確かに、僕もずっとそれ気になってた」
この会話において、結人にとって阻む理由は何一つ無かった。
どれくらい話をしていたか。気づけば他のクラスメイト達も登校していた。他の人は椿原の態度に違和感を覚えていないようだ。どちらかと言えば結人の方が別の世界の住人のようにも思えて…
「お兄ちゃん!!」
振り返るとそこには花菜がいた。
「花菜っ!体の具合、悪くないのか?」
「何言ってるのお兄ちゃん、昨日お兄ちゃんが看病してくれたから夜のうちに熱が下がったじゃん」
やはり、昨日の事実とは異なる現象が起きている。
「はいっこれ」
そう言って花菜に何か小包を手渡される。
「どうしたんだ、これ」
「どうしたんだって?」
これが何かも、どうして渡されるのかも、わからない。
「いったいこれは…」
「これはって…プ、プレゼント…だよ…バカ」
花菜が赤面して答える。でもまだわからない。
「プレゼントって…どうしてまた」
結人が言うと、花菜はきょとんとした様子で言ってきた。
「だって今日、お兄ちゃん誕生日じゃない」
結人の中で、昨日(?)からずっと渦を巻いていたもやもやが一気に晴れる。
(思い出した。僕は今日、産まれたんだった。だから昨日、僕は花菜に…)
「おっ、今日誕生日だったのか我が親友よ。いいだろう、俺の熱い抱擁を…」
「お兄ちゃん、もしかして忘れてたの?」
花菜が鬮野をガン無視して思いっきり笑っている。それを見て結人も安心し、喜びがこみあげてくる。
「よし、今日は夕飯パスタな」
結人がそう言うと、花菜はやったーといいながらvサインを見せてくる。予鈴ははそこで鳴り始めた。
昨日と同じで、昨日と違う、今日。あれ以降、ほぼ昨日と同じ学校生活だった。
古典の授業は自習で、地理ではイチオシのスキー場を教えられた。だが英語はオンライン英会話ではなく普通も授業で、数学の先生に当てられることもなかった。公共の授業は相変わらずみんな寝ていたが、化学の授業で文理を問われることはなかった。
その日は花菜も部活が無く、一緒に帰る。帰り道コンビニで花菜と一緒にプリンを買って食後に食べようと約束した。
花菜がドアを開けてくれて家に入り、靴とジャケットを脱いで自分の部屋に鞄を置きに行く。今日は花菜も料理を手伝うと言って二人でパスタを作った。それを二人で食べ、たわいもない話で笑いながら、一緒に皿洗いをする。
その後順番に風呂に入り、花菜の紙を乾かしてやって、さっき買ったプリンを食べる。
「ありがとうな、花菜」
「どしたの急に。でも、どういたしまして、お兄ちゃん♪」
心から、生きていたいと思った。この世界で一生。ずっと、花菜達と。
プリンは僕が片付けるから、と言って花菜の分のプリンの容器を手に取る。花菜はありがとうと言いながら頼りない足取りで自分の部屋に戻っていく。プリンの容器を捨て、さて寝るかと踵を返そうとしたとき、ふと一枚の紙が落ちているのに気が付いた。
(どこかで見たような…)
拾って中を開いて見てみると、紙がぽたぽたと濡れていく。
『結人へ お誕生日おめでとう。いつも誕生日にいなくてごめんね。また仕事が落ち着いたらプレゼントもあげるから、今日のところはウインナーを添えておきます。
いってらっしゃい、
結人 母・父より』
結人は思い出す
―あなたもいずれ見るかもしれないわ。今を、現在を生きる意味を見いだせなくなった時、貴方自身が望んだ形でその世界は創り上げられ、あなたを生かそうとする―
(この世界は、僕が望んだ形に創り上げられた、今日だ。僕はずっと、母さんと父さんに…!)
何一つ理解はできないが、ただの寝ているときに見る夢でも、起きているときに見るゆめでもない。言ってみれば…
―夢の中のゆめ―
この世界がどういうもので、どういう位置づけなのかはわからない。ただ、確実にわかることは、この世界で花菜達は生きている。今日の花菜と昨日の花菜は全く別の人格として生きている。ただの夢でもゆめでもなく、ユメとして、この世界は存在しているのだ。つまりこのままここで生きていくこともできるわけで…
(昨日に帰ったら、今日の花菜はどうなるんだ。いや、そもそもどうやって帰るんだ。僕は、帰りたいのか…?)
―あなたを生かそうとする―
(そうだ、僕が昨日の世界で生きたいと思った時、このユメは覚める。だが花菜が…花菜が…!!)
もう頭の中も外も涙でぐちゃぐちゃになり、自分のうめき声だけが心の中を響いている。手にはもう文字が濡れて何が書いてあるかもわからない紙だけがある。
ふと結人は昨日の記憶がよみがえる。
―皿から落ちたあの紙は―
(もしあれが、父さん達からの手紙だったら。誕生日を祝ってくれる手紙だったら..!)
そう考えた時、結人の心から一瞬声になって溢れた気持ち。
―帰りたい―
目を覚ますと結人はベッドの上で横になっていた。外はうっすら陽が射して、デジタル時計の文字が見える。
(ここは…そうか、帰って…)
―どういたしまして、お兄ちゃん♪―
「花菜…は..な..?」
「は、はなぁぁあああああ..!!!!………………」
…………………
生きると望んだ責任感。
そのすべてを請け負うことは、高校生には酷過ぎた。
デジタル時計は日付の欄を、五月十八日と映している。
富士宮結人 十六歳
寝覚めの悪い朝だった。
寝ても覚めても君を見る ZENWA @zenwachanneru16
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