月曜日のゆーうつ

ナリタヒロトモ

第1話

俺は一週間でこの月曜の朝が一番嫌いだ。


 世の多くの人がそうであるように蒲田滝人もまた月曜の朝はゆーうつであった。

 30年も前のことである。蒲田滝人は地方からどうしても東京へ出たくて、東京の2流大学に入学し、留年して、東京の会社に就職した。、新人類(*)とか言われもてはやされたこともあったが、入社して直ぐバブル崩壊が起きて、あっという間にバブル入社組とか言われ馬鹿にされた世代だった。会社も多くのプロジェクトがとん挫した。それと一緒に会社のお荷物みたいになってしまった。

 *新人類(しんじんるい)とは、栗本慎一郎が作り出した造語[1]で、1980年代に用いられた。1979年頃からテレビやラジオ、大衆週刊誌などのマスメディアでも広く使われ、当時の若者を「従来とは異なった感性や価値観、行動規範を持っている」と規定し、否定的にも肯定的にも(要するに、都合良く)扱った。(Wikipedia)


 バブルはその後すぐに崩壊し、その後は長期の超不景気となった。入社することもできない氷河期世代という不幸な人たちを生んだが、結果として蒲田滝人の世代もまたいつまでたっても部下が持てないという不幸な目にあっていた。蒲田滝人は今年57歳、あと3年で定年を迎えるが部下はいなかった。

 (まあ私が出世しなかったのは元々才覚がなかったからだけどね)

 蒲田滝人はJR宇都宮線東鷲宮駅の長いエスカレーターを上りながら考えていた。

 オフピークが進んで会社は9:30過ぎでも出社を認めるようになった。それでも月曜日は7時前に乗っていた。それは月曜朝の電車は止まるからだった。多くは人身事故であり、乗客の不安を避けるため「線路内に人が立ち入ったため・・・」というアナウンスが流れた。どういう思いで線路に立ち入ったのか?それを聞くたびに蒲田滝人の胸は痛んだ。

 座れた日はまだ良いが、立って1時間遅れとかは本当にしんどい。でも人身事故と言うのは命に関わることなのであまり不平や文句も言えない。仮に自殺とすれば、よほどのことがあったのだろう。だから何も言えない。

 暮らしが良くなって、医療も進み、今や世界一の長寿国となったこの国で40歳以下お死亡原因一位は自殺と聞いた。(*)

*出所 : 厚生労働省「人口動態統計」

 梅雨がようやくあけたころ、日射しは強く、紫外線・赤外線カットガラス越しでも日差しは肌の痛みとして感じられた。

夏の本格的な暑さにはまだ遠いが、半そでの夏服でも汗がにじんで来た。

 蒲田滝人の嫌な予感があたり、白岡を過ぎたところで電車がとまった。中央線の人身事故が原因だった。(長くなるな)、蒲田滝人は覚悟した。

二日酔いで頭が痛かったが、蒲田滝人は目の前の妊婦に席を譲った。

事故は中央線府中駅近くの踏切近くで起きたようだった。

SNSには色々な情報は飛び交う。踏切で飛び込んだ男子高校生は近隣エリート校に通う2年生、中学卒業名簿の写真と卒業寄せ書きの言葉とかがさっそくさらされていた。

蒲田滝人は一人息子である新之助を思い出した。

蒲田滝人は最初千葉の会社に勤め、33歳の時に転職し、茨城県古河市に住んだ。東京に焦がれて上京したが、実際に東京に居を構えたのは留年を含む学生時代の5年間だけであった。その後の人生は千葉、茨城、埼玉と言う東京周辺で過ごし、かつて新之助が通った東鷲宮小学校を改築した養護施設で人生の終焉を迎える予定であった。

34歳のときに茨城出身の女性と結婚し、35歳のときに息子、新之助が生まれた。結婚も妻の妊娠も、これと言った決心も覚悟もなく進んだが、子供が1600gの超未熟児で生まれてきたとき、はじめて自分の役割、使命とか考えるようになった。

飲んだ帰ったある日のことだった。切迫早産で出血した妻を見て、蒲田滝人は生まれて初めて救急車を呼んだ。そして栃木の大きな大学病院で帝王切開で出産した。妻は早々に退院できたが、子供は未熟児でそのまま周産期母子医療センター(*)で1年近く入院した。

*周産期母子医療センター(しゅうさんきぼしいりようセンター、英:Perinatal Medical Center)は周産期(出産前後の時期という意味)に係わる高度な医療を対象とした医療施設で、産科と新生児科の両方が組み合わされた施設。施設の状況により「総合周産期母子医療センター」「地域周産期母子医療センター」に別けられて認定されている。


SNSで事故の状況を追う。事故現場の写真が出ている。高校生の乗り捨てた自転車が映っている。カバンと散乱した教科書、踏み切り近くの路上には黒いしみも見える。蒲田滝人にはそれが血の跡にように思えた。

若い人間が死にたがるのは、もちろんやむにやまれぬ状況はあるのだろうけど、人生の短さを知らないからだと蒲田滝人は思った。どんなことも過ぎてしまえばあっという間なのに、年を取れば、その悩んで苦しんだ時間すらかけがえないものと分かるのに。

日本だけではない。世界中で若者の自殺が問題になっている。(*)

若いと純粋さからナイーブになるのだ。しかし歳を取り、どっぷり泥に浸かってしまえば汚れも気にならなくなる。


*自殺(じさつ、英: suicide)とは、自分の生命を絶つこと。自害(じがい)、自死(じし)、自決(じけつ)、自尽(じじん)、自裁(じさい)、自刃(じじん)などとも言い、状況や方法で表現が異なる場合がある。

世界保健機関 (WHO) は2016年時点で「全世界において約80万人が毎年自殺している」と報告し。世界の自殺の75%は低所得および中所得国で起こり、自殺は各国において死因の10位以内に入り、特に15 - 29歳の年代では2位になっている、と報告した(2016年)。

自殺は様々な事情が絡み合って行われる。高所得国においては、自殺と精神的な不調(特に抑鬱とアルコール乱用)には関係があることは明らかになっており、自殺の多くは、人生のストレスが各人の対処能力を超えてしまい破綻状態となった危機的な時(たとえば経済的苦境時、人間関係が破綻した時、病気と疼痛が長期化した時など)に衝動的に行われている。

WHOは「自殺は、そのほとんどが防ぐことのできる社会的な問題。適切な防止策を打てば自殺が防止できる」として、世界自殺予防戦略 (SUPRE) を実施している。このようなWHOに準ずる形で、各国で行政・公的機関・NPO・有志の方々による多種多様な自殺予防活動が行われている。(Wikipedia)


電車はようやく蓮田に着いたが、さらに10分止まり、東大宮、土呂へ進み、大宮へ着くころには8時を回ってしまった。京浜東北線に乗り換える人たちが多く電車を降り、蒲田滝人はそのまま空いた席に座り、宇都宮線に残った。

子供が出来てからの人生は本当に早かった。今まで自分のことで一生懸命な人生であったが、自分ではない小さな自分勝手なわがままな悪魔に振り回された人生であった。

新之助は超未熟児であったため背が低く、頭の成長も遅かった。そのため新之助はいつもクラスで並ぶのは先頭で、テストの出来は最後方であった。だがそうしたことも持ち前の明るさでこなしており、妻や自分を笑わせたりもした。

蒲田滝人は電車の窓のいつもの風景を見ながら思い出していた。

親である蒲田滝人は子供の頃の一時の感情などたいして意味がないと言うことを経験から知っているので、あまり深刻にも考えなかった。

それは新之助がまだ12歳の初夏だった、日射しは強いが夏はまだ遠く、蒲田滝人は衣替えしたばかりの夏服の背広では少し寒く感じたある日のことであった。

そう、それはいつもと同じ1日が始まる普通の朝であった。

子供は子供なりにそれなりに悩みはあるだろうとか考えていた。後になって分かったが、教室で流行っていた純真だが執拗な仲間外れ、人間の根本にある弱い者をいじめることで憂さ晴らしをしたいという欲望、そうしたものにすっかりやられていた新之助はその日、どうしても家から出ることが出来なかった。ドアを出たとたん激しい頭痛と吐き気に襲われ倒れ込んだのだった。

妻はその日学校を休ませた。そして、その後も何度も医者に行き、高名な先生の往診も受けた。しかし新之助はその後6年間、まったく学校に行くことなく、中学校卒業の日を迎えるのだった。中学校には1日も通わなかった。そして担任から卒業証書が届けられた。アルバムには一枚も子供の写真が載っていないが分かっていたので受け取りを断った。(*)


*引きこもり(ひきこもり、英: hikikomori, social withdrawal、引き籠もり)は、仕事や学校に行けず家に籠り、家族以外とほとんど交流がない(社会関係資本を持たない)人の状況を指す。現時点では、日本の厚生労働省はこうした状態が6か月以上続いた場合を定義としている。

内閣府は引きこもりの実態を把握するために、若年層(15歳〜39歳)を対象に調査してきたが、引きこもりが長期化する人が増えていることから、2018年12月、中高年層(40歳~64歳)を対象とする初めての調査を行い、中高年層における引きこもりの人は、推計で61万3000人に上り、15歳から39歳を対象にした調査若年層で推計した54万1000人より多くなっており、また、引きこもりの人たちを強引に施設に入所させ、高額の費用を親に請求する「引き出し業者」も問題となるなど社会問題となっている。(Wikipedia)


電車はようやく浦和を抜けて、赤羽駅に着いた。赤羽駅の線路は大きき弧を描いているので乗客は開いたドアから零れ落ちないように踏ん張る必要があった。

蒲田滝人は時計を見る。もうじき9時だ。このままではとても10時の御前会議には間に合いそうにない。

でも蒲田滝人はもうどうでも良い気持ちになっていた。込んだ車内ではガムを噛む音がうるさいとかで言い争いも始まっていた。蒲田滝人は椅子に背を持たれると、今や終わろうとしているサラリーマン生活を思い、その後もいくらか続く人生を考えた。

6年間、引きこもった子供に何かしら一人で生きていける術を与えたい、そう思って蒲田滝人はフリースクールに通わせたり、自治体が運営する施設に相談したりした。

しかしすべての試みは失敗し、最期の望みも断たれたのだった(*)。

*The End by Doors

そして5年前のことである。すでに18歳になった一人息子新之助と蒲田滝人は決定的な喧嘩をした。物を投げ合い、殴り合った。家族という苛性の液体にさらされた皮膚がひりひりと痛むのを感じた。妻が警察を呼ぶ直前まで行ってしまった。

次の日、新之助は家を出て行き、帰って来るこなかった。

何よりも大切な息子を蒲田滝人は失ったのだ。

そう言えば蒲田滝人も父親が嫌いであった。そして逃げるようにして長岡を離れ、大学入学と同時に東京へ逃げてきたのだ。

しかし蒲田滝人は息子にその逃げ場を与えることも出来なかった。むしろ引きこもる息子を責めたりもした。

(後悔ばかりの人生だな)、蒲田滝人はそう思うのだった。

ようやく電車は上野駅に着いた。乗った電車はJR上野東京ラインだったので蒲田滝人はそのまま会社のある新橋に向かった。(便利になったものだ)、蒲田滝人は感心する。都内の駅はオリンピック前から工事が始まり、オリンピックが終わってからも果てしない発展を続けている。

9:30、蒲田滝人はぎりぎり間に合って、新橋にある小さなオフィスで月例のプレゼンをした。

蒲田滝人は開発部にいた。もっとも年上にかかわらず、もっとも役職が低く、課長職にとどまっていた。課長職とは課長ではないので課を持たず、ただ長年勤めた敬意で付けられる役職であった。いわば何の役にも立たない人間の呼び名であった。

蒲田滝人は努力家ではあったがサラリーマンとしては失敗していた。転職して来た東京ペロポネソスにはアテナイ化学の子会社であり、その後何人もアテナイ化学から出向者が来たが皆蒲田滝人よりもえらくなってしまった。皆蒲田滝人の上司となるのだが、皆禿げているので(そのような縛りでもあるのか)と蒲田滝人は思った。

蒲田滝人は仕事人間であったのにも関わらず仕事では大成しなかった。また家族にも失敗した。60歳を目前にして(どのように生きれば良かったのか?)と真剣に考える

身の入らない仕事の時間は長く感じた。社長に指摘を受けた内容をまとめ、年下の上司のチェックを受ける。この会社では仕事で成果を上げたり、潜在的な能力が高いとかで昇進することはなかった。皆、昔から仲の良い連中が互いに高い評価をつけて昇進するのだ。結果とした皆仲良しで同じような人間ばかりが経営陣に入り、同じように禿げて太っていた。そうこうしているうちに蒲田滝人も禿げて太ってきたのだけど、出世コースにはまぜてもらえなかった。

昼になるとカップ麺とおにぎりの昼食を取る。外で食べるとどうしてもお金がかかってしまう。

蒲田滝人は孤独で惨めで役立たずで、ごみのような人間であった。

先日出した交際費支払い申請が机に戻ってきていた。中小企業社長と飲んだ2万円の領収書が落ちなかったのだ。昼食込みで小遣い月4万円の蒲田滝人にとっては本当に痛かった。妻に買ってやると言った誕生日プレゼントも買ってやれなくなった。

担当役員が今月飲み過ぎて、その分を営業部で払うことになったのだ。

役員はいつも自分のことに一生懸命で、(ああ、ああいう人が偉くなれるのだ)と蒲田滝人は思った。(もっと偉くなって社長にでもなれば良いのに)と蒲田滝人は思った。(自分もあんなごみになりたかった)と蒲田滝人は思うのだった。

蒲田滝人はもうずっと昼は1人オフィスで食べていた。そんなとき妻から(今日は早く帰るように)とメールが届いた。

(了解した)と返すと、予定していたお客との会食にキャンセルを入れた。

新之助がいなくなってもう5年が経とうとしていた。蒲田滝人は再来年60歳になる。

(若い奴が死にたがり、こんな年寄りがのうのうと醜態を晒す社会に反吐が出る)

蒲田滝人はカップ麺の容器をつぶすとゴミ箱へ入れた。

ゴミは自分だと蒲田滝人は思った。そしてゴミ箱みたいな会社を後にした。

外に出て針のような日差しを浴びる。湿度は執拗にまとわりついてシャツもびっしょりになった。

熱砂(アスファルト)と灼熱の地獄を一人で外回りをし、蒲田滝人は夕方オフィスに戻るとその結果をまとめ、昼夕方定時を過ぎたところで帰る。


国の年金資金が枯渇したので年金給付を抑えるため、国から会社に60歳の定年以降も雇用を維持するよう要請がある。しかし会社としては若く、将来も働ける人材を雇いたかった。

57歳の蒲田滝人はまだ一人で営業回りをしており、訪問先のがっかりしたような反応を見てきた。年金がもらえるまで、この生活が後5年以上続く。

まだ帰るには少し早かった。店に行く金のない蒲田滝人は上野駅地平ホームにいた。

地平ホーム(*)とは、上野駅13 - 17番線(宇都宮線・高崎線・常磐線)ホームのことである。

*地平ホームとは、地平にある4面5線(うち1面は豪華列車専用ホーム)の櫛形ホームで、ヨーロッパのターミナル駅の風情を漂わせている。尾久・日暮里方面へ発着する。

13 - 15番線は主に宇都宮線・高崎線普通列車が発着する(主に14・15番線を使用しており、13番線の使用機会は少ない)。一番端の単独ホームである13番線は、かつて「北斗星」などの寝台特急の発着ホームとなっていたが、同列車が全廃された2016年3月26日改正以降は定期の特急発着がなく、2021年3月13日改正以降は定期普通列車の発車も無くなった(到着は朝ラッシュ時に数本ある)。この他、常磐線の普通列車も到着扱いの列車が数本あるが、到着後は回送となるため、発車はない。(Wikipedia)


華やかな駅ナカが出来てすっかり変わってしまった上野駅もここだけは30年前蒲田滝人が長岡から出てきたときと変わらなかった。30年前上野駅に着いた蒲田滝人はいかつい駅舎を見て期待と不安に胸が震えたのだった。

ストロングの500ml缶を買うとベンチで一人飲む。

(ああ東京になんて出るんじゃなかった)、と蒲田滝人は思った。

(死にたいくらいに憧れた花の都、大東京)(*)、と蒲田滝人は思った。

*長渕剛 とんぼ

スマホで今朝の人身事故を見た。自殺ではなかった。立ち往生した年寄りを高校生がたすけたのだった。シルバーカー(高齢者手押し車)が軌道上に残り、電車と接触したため電車は止まってしまったが2人は無事だった。

 (良かった)蒲田滝人は心から思った。

 (でも俺に同じことができただろうか?いやできやしない。口で言うのと実際にするのは全然違うんだ。若い人間はもろく弱いがが、年寄りにはない勇気がある。結局世の中を変えていくのはそんな若い力なのだ。)

 そして飲み干した缶をカバンにしまった。上野駅のこのホームにはゴミ箱がないのだ。

そして上野始発の宇都宮線に乗る。気持ちが高まってきた。

 妻からのメールを思い出した。

今日新之助が帰ってくる。

新之助は群馬の工場に務めていると聞くが、5年間家に帰ることはなかった。

妻の話では3歳年上のバツイチ子持ちの女性と結婚するそうだ。世間知らずなあの子にはそれくらいの女性が良かったと蒲田滝人は思った。今は新之助の子供も身ごもっており、蒲田滝人は名実ともにおじいちゃんになる。

年取って、その内働けなくなって、やがて死んで、みんなにも忘れられる。

でも人生とはそういうものだ。


(何を話せば良いだろう)

蒲田滝人は思いを巡らせた。

(どうも俺はしゃべりすぎるんだ。今日は黙って2人の話を聞こう)と思った。

生活が苦しいなら、家の2階に住んだらどうか?と妻は言っていたが、今日はその話はしないでおこう。何事も急ぐと良いことはない。

上野駅ナカでケーキを買おうとも思ったが、やめて東鷲宮駅前のつぶれたイオンの1階で営業しているお好み焼き屋で何か買っていくことにした。

地元貢献にもなるし、小さい頃の新之助はそこのタコ焼きがすごく好きだったのだ。

蒲田滝人は車窓に映る自分の姿を見た。

ゆーうつな月曜日を乗り切り、家族の待つ家に帰る、役立たずでゴミみたいな、それでも一生懸命生きて来た、古参の兵士がそこにいた。3等兵のまま退任を迎えようとしていた。

古い歌を思い出す。


ありがとう ぬくもりを ありがとう 愛を

かわりに おれの生命を 置いてゆけたなら

男は誰もみな 無口な兵士

笑って死ねる人生 それさえ あればいい

*「戦士の休息」町田義人

大宮を過ぎると灯りはぐっと少なくなり、地平には夜の田圃が広がる。

これから東鷲宮までの道のり、ずっと蛙の声が響いている。

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