9話 疑似親子

 一太は、怜佳と高須賀未央の出迎えをディオゴに申し出た。

 しかし一任されたのはアイス。ディオゴにいまだ認めてもらえない苛立ちがわいたと同時に、やはりと納得するところもあった。

 佐藤アインスレーのことは、物心ついた頃から知っていた。近所のスーパーで見かける主婦と同じに見える人が、ボスの右腕であることが信じられなかった。

 ディオゴの手下の中には、いかにもな強面や、厳つい男たちがいくらでもいる。それらをおさえて、なお上の立場にいると。

 佐藤アインスレーの略名〝アイス〟は、本業の「アイスマン殺し屋」からくるものでもある。

 それを知る者は、そのままの意味とともに尊称、あるいは蔑称として使っていた。仕事を完遂するときも、いつもの笑みをうかべたまま片付けている「冷静な人間Iceman」に違いないと。

 アイスは否定も肯定もしなかった。

 一太は、その答えを知っている。



 幼かった頃、母はときどき一太をつれて<ABP倉庫>を訪れることがあった。

 いま思えば、本妻を意識して張り合っていたのだと思う。怜佳のほうは怒るでも嫉妬するでもなく、知人を迎え入れるように接していたから、暖簾に腕押し状態だったが。

 そこで会ったアイスは、文字どおり「甘いおばさん」だった。

 母がディオゴと、あるいは怜佳と話をしているあいだ、アイスが外に連れ出してくれることがよくあった。行き先は、甘いものが食べられる喫茶店。アイスクリームの専門店が新しくできると、そこにも連れていってくれた。

 一太がアイスクリームをなめている隣で、アイスはいつもコーヒーを飲んでいた。

 アイスクリーム屋にきているのにコーヒーを飲んでいるアイスが、子どもの目には不思議だった。

「いつもおんなじのばっか頼んで、よっぽど好きなんだね」

 お気に入りになった、ひとつのメニューばかり食べている一太と同様、アイスもまた何度も同じことを言って笑っていた。

 よく笑っている人であったが、嗤っている場面を見たことは一度としてなかった。

 母親がディオゴと話すあいだ、いつものように倉庫の隅にあったバットで遊んでいたときのこと。たまたま足元近くにあらわれた小さな蜘蛛に悲鳴をあげたことがある。

「ぼうず、どうした?」

 近くで荷物のチェックをしていた男ふたりが、すぐ駆け寄ってきてくれた。しかし、原因が蜘蛛とわかった途端、揶揄の声をあげた。

「キャー、ぼくって虫がダメなの!」

「ぼうず、蜘蛛ぐらいで悲鳴あげてるとタマが腐り落ち——」

「誰なの? 蜘蛛を虫とか言ってるおバカは」

 下品な嗤い声を遮ったのは、倉庫に入ってきたアイスだった。

「苦手なものいきなり見たら悲鳴ぐらいあげるでしょ。思い出しなよ。ナカノだって悲鳴こそ上げなかったけど、ゲロ吐いたりしたことあったじゃない」

「な……いい加減なこと言わないでくださいよ!」

「なんだそれ? サトーさん、こいつ何見たんです?」

「始末の現場の掃除に連れて行ったとき、死体見た途端にやらかした」

「あのときは初めてで……」

「うん、慣れないうちは仕方ない——ではすまされないけど、先に対処法おしえとかなかった、あたしも手抜かりだった。で、イケモトのほうは——」

「わ、わかりました! ぼうず、悪かった」

 よほど明かされたくないことがあるのか、子どもの一太に拝むポーズで謝った。

「一太、お母さんが呼んでる。いこう」

 アイスについて歩きながら、一太は早口で言った。

「別に怖かったんじゃないよ? 急に出てきたから……」

「うん、びっくりしたんだよね」

 本当は蜘蛛が大きらいだった。怖いと言ってもいい。

 そのことを母親に話すと、馬鹿にされた。だからナカノやイケモトの反応が特別なのではない。一太はアイスにも隠そうとしたのだが、

「あたしが怖いのは蝶々。あの胴体のぷっくりした感じがブキミでさあ」

 訊いてもいないのに、アイスは自分から話した。

「大人のくせにそんなこと言って、おかしいとか言われない?」

「大人になったっても怖いものは怖いよ。理屈じゃ説明できない。ちょっと座ろっか」

 会社の外階段に腰を落とした。お母さんが呼んでるんじゃなかったの?

「蝶々みても平気になりたいと思って、写真見たり、触ってみようと頑張ってみたことあるんだ」

「でも、さっき怖いって」

「そう。やってみたけど全然ダメだったんだよ。変わんない」

 他人事みたいに笑った。

「原因がわかんなくて、理屈抜きでダメならもう、どうしようもないじゃない? もういいやって思ったら、以前ほどビクビクしなくなった」

「開き直るっていうやつ?」

「むずかしい言葉知ってるねえ。それもあるかな。

 怖いって思うのは、自分を守ろうとしてる証拠でしょ? なら、怖いって気持ちを無理に抑え込まなくたっていい。どうして怖いのかとか、自分の怖いをよく知って、付き合っていくのもありっていうのが、あたしの蝶々対策」

「おれも蜘蛛ダメなまんまなのかな」

「怖いものって人によっていろいろだよね。カエルとかハチとかアリとか。で、一太の怖いは、一太がいちばんよくわかってる。たぶん、一太でしか答えが出せない。

 あたしがやった以外に方法があるかもしれないから、一太も考えてやってみて。いいのがあったら、あたしにも教えてね。蝶々対策に使ってみるから」

「わかった。やってみる」

「答えが出たところでアイスクリーム食べにいこうか」

「でも、お母さんが待ってるって」

「言ったっけ? お母さんの話が終わってたら、今度はお母さんに待ってもらえばいいよ。一太ばっかり待つんじゃ不公平だ」

 アイスが腰を上げた。やわらかな笑みをみせるアイスを見上げながら、一太も立ちあがった。

 一太の記憶のなかには、この笑みがずっとある。<ABP倉庫>に入ってから見るようになった笑みとは違う、特別な笑みだ。

 このせいで、アイスだけは理解してくれると過度な期待を抱くようになっていたのか……。

 怜佳と高須賀未央の件に、一太が援護に加わることすらも拒んだアイスに失望した。ディオゴの指示があったとしても、アイスならとりなして一太を加えることもできたはずだった。

 この件に関わるには、仕事ができるだけでは駄目なのだ。

 ディオゴのプライベートに関わる案件は、かなり近しい間柄にある〝ファムFAM〟でないと許されない。一太が関わることは、実の親子同然となる入り口だった。

 そのことを天涯孤独の身の上のアイスなら、理解してくれると思っていたのだが——。

 苛立ちが徐々に強くなった。怜佳と高須賀未央の情報をまとめ、ディオゴに上げたのは一太だ。どうせなら最後までやって、成果をつかみたくもあった。

 一太は数人の部下を伴い、独断で動いた。これはアイスと実行力を競り合う機会にもなる。

<オーシロ運送>に遅れて着き、子どもを連れたアイスの姿を見つけたときは遅きに失したと思ったが、怜佳の姿が見えないことが引っかかった。爆発火災が起きている中、アイスが怜佳を置き去りにするとは考えずらい。

 アイスが指示どおり子どもを連れ帰るのかの確認は部下に任せた。

 ひとり<オーシロ運送>のそばに残った一太は、怜佳の策略とアイスの変心を嗅ぎ当てることになる。

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