2話 その夢はフラグになるか

 アーケード街に入ってからも人込みは変わらないが、人の流れに規則性がでてきた。

 両脇に商店が連なっていることで、横道からいきなり人が出てくるといったことがない。お呼びでない人間の発見が、これで多少やりやすくなった。

「追っかけてくるやつ、いるの?」

 ミオが周囲を振り返ることなく訊いてきた。

 逃げるための注意を守ってくれていることに感心しつつ、アイスは首を小さく横にふる。

「別に、ここで別れていいんだよ?」

 視線を足元に落としたミオがこぼした。

「そうすれば、あなたに危険がおよぶこともないんだから」

 思わず足をとめそうになった。子どもがなんの心配をしているのか。

「引き受けたんだから、こんな中途で投げ出したりしない」

「お金に困ってないって言ってたけど、ここまできて報酬をなくすのは、やっぱりもったいない?」

「あなたの依頼主から提示されたのは、失っても惜しくない額。けど、身体が動くうちに稼げるだけ稼いでおきたいっていう本音もある。ピンならともかく、あたしみたいなキリの報酬なんて、そういいもんでもないからね」

 十代の子ども相手に、こんな答えでいいのかわからなかったが、ミオだから本音を言っておいた。

 反発するところを見せてはいても、アイスを巻き込んだことを理解している。大人びた気遣いも、ひとりにされる不安からきている気がした。

「ミオにも用心してほしいから、はっきり言っとく。相手が子どもだろうが、麻生嶋あそうじまディオゴは金になることを簡単にあきらめたりしない。生きていたかったら、気を抜かないようにしてね」

「そういうこと笑顔で言うなんて、どうかしてる」

 困惑と軽蔑がまじったミオの視線をうける。アイスはゆるい笑みをうかべていた。

「笑んでいるのは、あたしのポリシーみたいなもんだから気にしないで。ウソでも笑っていれば気持ちが深刻になりすぎない。頭も柔軟に回転する。行き詰まっても何とかできるアイデアが出てくる」

 周囲に目を配りながら応える。

「じゃあ、怜佳さんのことも考えてる? どうやって無事を確かめるつもり?」

「その話は目的地についたあとで。もうすぐだから」

 返事をごまかしたのではなかった。

 怜佳が「麻生嶋の妻」であることで、話が複雑になっていた。

 報酬を出してくれるクライアントではあるが、ディオゴとはビジネスパートナーであるアイスを裏切り者へと方向転換させた張本人でもある。コンパクトにまとめて答えるには複雑すぎた。

 それに追手の影とは別のものも見つけようとしていた。いざ必要になって探しはじめると、なかなか見つからない。

 丸めたジャケットで押さえている左脇に、生ぬくく湿った感触がじわじわ広がる。

 見なくてもわかった。アッシュブラウンのソフトシェルジャケットが、黒褐色の領域を確実にひろげている。

 左脇を斬られていた。

 深くはない傷で、出血も酷くはない。しかしミオを預かったあとでは、最優先事項が手当よりミオの安全になる。そうして動き回っているうちに傷口がひろがった。

 わずかずつでも血が流れ出る感覚がなんともいえない。動きが鈍くなる前に早く処置しないと、休むどころか永眠してしまいそうな気がしてきた。

 こんな気の持ちようでは駄目だとわかっている。しかし、あまりに想定外の展開で、いつもの〝慎重な楽天的思考〟が追いつかない。

 笑むことで気楽に構え、自身から距離をとって本能的能力が発揮できるようにしてきた。なのに、ベテランと呼ばれて久しいここにきて、怜佳に覆されるとは。

「ちょっと……ほんとに足の故障だけなの? 顔色が悪いよ?」

「ミオもちょっと休まなきゃね」

 答えをはぐらかせた。正直に答えても不安を与えるだけだ。

 やっと目当てのものを見つけた。韓食酒房と日本式居酒屋のあいだにある公衆電話にむかう。人の流れを横切った。

 途中、会社員風の男にぶつかりかけた。左足が痛むとはいえ、よけきれなかったことが少しショックでもある。この頃とみに電池切れのタイミングが早くなってきていた。体力が落ちているのは間違いない。

 引退の現実味が増してくる。現役に未練はないけれど、麻生嶋ディオゴにボスを任せたことは、ずっと心の奥に引っかかったままだった。

 ワンマン気質のディオゴは、密かに進行している跡目争いをよそに、いまだ勢力拡大に夢中になっている。贔屓目にみても、そんな余力がある組織とはいえない。他のことに力を割いていては、いまの商売が傾いてしまうというのに。

 影の調整役として働いていたアイスだったが、身体のメンテナンスに時間がかかるようになると、抑える気力も失いつつある。

 もう頃合いだった。

 報酬を散財せずにきたから、そこそこの蓄えができている。早めの引退をきめて小さな店をもつ。そうして細々とでも、ゆっくりできる生活を夢見ていた。楽しみをかなえないまま死んでたまるかという気概だけが残っている。

 アイスは周囲に追手の影がないことを再度確かめてから、少額コインを公衆電話に落とした。

 回すダイヤルは暗記している。体力を過信せずに何度も連絡をとるうち、直通ダイヤルを覚えたくないのに覚えてしまった。優秀が助手がいるから問題ないのだが、いちおうは早めの晩酌に突入されるのを防いでおく。

 ミオが離れずにいることを視界のすみにおきながら呼び出し音を聞いた。

 左足の調整のために、いつもの整体師のほうの予約もとってある。予測外のドタバタで故障が悪化していた。遅刻しても待っていてくれると助かるのだけれど……。

 この思いは、かなわないほうが良かったのかもしれない。

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