R殺人

ナリタヒロトモ

第1話

17世紀にヨーロッパで科学革命(Scientific Revolution)が起こり、人類は大きく進歩した。人類は神話と迷信の世界から抜け出した。即ち、物理学は人間が世界の中心ではないことを証明し、更に化学は世界が何で出来ているか示した。科学は間違いなく進歩したが、人類が進化したかは疑問である。


1.ニコラウス・コペルニクスの地動説

六本木にある帝国大学新科学研究所有機物理学棟に年末の夕日があたっていた。戦前からそこにある大学はかつて帝国陸軍の建物であった。その性格上、そこでは多くの血が流された。窓にかけられたカーテンの隙間から血のような夕日が差し込んでいた。

今年十条ヒロキ教授は有機物理学の教授となったが、来年は60歳となり、定年であった。十条ヒロキは自分の仕事を言わばクラッシック奏者のようだと馬鹿にしていた。200年も前に書かれた音符をどう演奏するか?にもう一生を費やしている。

それと同じだ。十条ヒロキは思った。宇宙がいつ始まったのか?ブラックホールとは何か?を研究に人生を費やす意味は本当にあったのだろうか?


十条ヒロキは有機物理学棟の最上階に位置する尾久ヨウキ名誉教授の研究室にいた。戦前からある板張りの床と大理石の壁からなる研究室であった。床には流血の跡があり、壁には銃痕が残っていた。それはこの研究室こそがこの国の科学技術の中心であり、この国を動かしてきたことを示している。

尾久ヨウキ名誉教授は100歳をとうに越えていた。胃瘻による栄養補給、人口心臓による血液の循環、そして心電図は常にモニターされ、心室細動を検出した際は継続して除細動が行われていた。血液は常に透析され、毎日10リットルの輸血と劣化した血液の排泄が行われていた。劣化した大学の意向で血液は強力な酸でDNAが解析不能なレベルまで破壊された後にアルカリで中和し、荒川に流された。鼻にはシリコンチューブが入れられて常に高酸素濃度の空気が供給され、血液中の酸素濃度が監視されてていた。そして陰茎からは排尿が、肛門から排便が、連続的に吸引されていたが、それらの著作権は大学にあったのでやはり酸でDNAを破壊した後にアルカリで中和し下水に流された。

ここは東京大学新科学研究所のコンピューター室であり、膨大な知識をためた図書室でもあった。

尾久ヨウキ名誉教授は常に夢の世界におり、十条ヒロキが来るわずかな時間のみ目を覚ますのだった。

「おはよう」と尾久ヨウキ名誉教授は言った。

2度のノーベル賞を受賞した理論物理化学の世界最高の権威であり、大学の至宝であった。

「人類の科学は天文学から始まったのだ。医学でも、物理でも、化学でもない。よく錬金術が科学の始まりというが違う。天文学である。」

尾久ヨウキ名誉教授は言った。

「太古の昔、手の届かない夜空を見上げ、天体の運行から自分たち、人類が世界の中心ではなく、神の作られしこの世界の一部だと知ったのだ。エジプトのピラミッドはが建設されたのは紀元前2500年頃である。そしてこの巨大建造物はシリウス星が太陽とともに東の空に昇ることで夏の到来を知り、増水の時期を避け建設されたのだ。」

尾久ヨウキ名誉教授の目が再び、深い眠りの中に落ちようとしている。

「その中でコペルニクスこそが人類の進むべき道を示した最初の預言者である。」(*)

そう言い残すと尾久ヨウキ名誉教授は再び深い眠りへと落ちて行った。


*ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Pl-Mikołaj Kopernik.ogg Mikołaj Kopernik[ヘルプ/ファイル]、1473年2月19日 - 1543年5月24日[1])は、ポーランド出身の天文学者。カトリック司祭であると誤解されがちであるが、第二ヴァチカン公会議以前に存在した制度の「下級品級」であり、現在でいわれるような司祭職叙階者ではない。晩年に『天球の回転について』を著し、当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。また経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。

コペルニクスは言った。

「私が言っていることは今は意味がわからいことかもしれない、しかしこのことは時期が来ればやがて皆に理解されるものとなるでしょう。

(Wikipedia)


十条ヒロキは天上の尾久ヨウキ名誉教授室を離れると自分の研究室へと降りて行った。階段は地上10階、地下3階からなる吹き抜けのらせん階段であった。十条ヒロキは地上10階から地下3階へと降りてゆく。

旧陸軍省の建屋に増築を重ねて帝国大学新科学研究所は出来ていた。油を引いた板張りの床に血管のようなケーブルが横たわっている。ケーブルの中には電気信号と蒸気とガソリン、そして増築した棟に設置したトイレの排せつ物が流れている。漏れ出した蒸気で十条ヒロキの眼鏡は曇り、ガソリンの臭いにむせ返りながら十条ヒロキは自分の研究室に戻っていく。

この時間、いつも研究室には助手が一人で残っている。

助手の疋舟サト子である。20歳で帝国大学に入り、それから20年間、十条ヒロキの助手を務めている。小柄な体格もあって、もともとは開けっ広げな明るい性格であったが、この20年の間に無口で心に秘密を隠した性格へと変わって行った。しかもずいぶんと太った。それはこの20年の間、思い続けた十条ヒロキへの恋心が報われず、腐敗した汚物のように疋舟サト子の中で膨れ上がったからである。何度も告白し、女から露骨に誘っても十条ヒロキは乗ってこなかった。出世した研究室の卒業生を紹介しましょう、とも言われた。屈辱、怒り、憎しみ、そして愛が疋舟サト子を暗い性格にし、太らせ、狂わせていたのだった。

20歳の疋舟サト子は20年が経ち、処女のまま40歳を迎えようとしていた。そして今や合法的の枠を超えた手段で60歳になる十条ヒロキの童貞を奪う決意をしていた。

そして十条ヒロキはそのことに気づいており、神にささげる純潔、すなわち童貞を守ることを決意していた。

夕暮れの中、十条ヒロキは研究室へと降りてゆく。十条ヒロキは勤務表をつけるため、どうしても一日の最期に研究室に戻らなくてはならなかったのだ。

研究室のドアを開けると疋舟サト子がいた。

夕闇みの窓の前に立っていた。地下3階の研究室であるが、同じ深さまで掘られた窓から、かすかだが光が差し込むのだった。

「先生。大先生のご様子はどうでしたか?」

疋舟サト子は十条ヒロキを先生と呼び、尾久ヨウキ名誉教を大先生と呼んでいた。

「尾久教授はご健在でしたよ。私はコペルニクスに関する500回目の講演を聴きました。」

そして研究室のパソコンにかけると尾久ヨウキ名誉教授の言葉を記録した。

夕闇が深くなってきたので、たまらず十条ヒロキは灯りのスイッチを入れた。

そこに疋舟サト子はコーヒーを1杯持ってきた。

「ありがとう。」

カップを口元に持ってきた

超短時間作用型睡眠導入剤であるトリアゾラムの甘い匂いがした。(*)

*トリアゾラム(英語: Triazolam) とは、ベンゾジアゼピン系の超短時間作用型睡眠導入剤である。アメリカ合衆国のアップジョン(後にファイザーが買収)が開発し、商品名ハルシオン(Halcion)として販売され、特許切れ後は後発医薬品も発売されている。


疋舟サト子は窓の外を見ていたが、ガラスの反射で十条ヒロキの口元を注視しているのが十条ヒロキには分かった。トリアゾラムは厳しく管理されている物質であるが帝国大学医学部出身である疋舟サト子であれば造作もないことだった。

十条ヒロキが間違った判断をすると、それは疋舟サト子の行動をより大胆にする可能性があった。また一瞬の躊躇は、同じく疋舟サト子に作戦の失敗を感づかせることになるのだ。そしてその結果は同じである。

十条ヒロキは一瞬の迷いもなくコーヒーを飲み干した。

 経口投与の場合、その影響が出るのに時間がかかるのでまだ対処が出来るのだ。(*)

*経口投与 口腔粘膜、胃壁、腸壁などから薬理物質が体循環血液に到達するまでには投与錠剤の溶解(脂溶性の変化による)、膜吸収を経て血液中に取り込まれて患部に送られる。ただし、腸壁から吸収された物質を含む血液は最初に肝臓に送られるため代謝による影響を受けることになる。肝臓の代謝能力は高く、薬理物質が患部に届くまでに肝臓で代謝を受けることを初回通過効果と呼ぶ。投与された薬理物質が体内循環血液中に取り込まれる量の割合をバイオアベイラビリティと呼ぶが、経口投与では初回通過効果などにより一般的にバイオアベイラビリティは低く、また、同量の投与でも体内での吸収部位や吸収量が当初の想定とはバラツキの出る結果が惹き起こされやすくなってしまう。(Wikipedia)


経口睡眠薬の対策として十条ヒロキは薬指の爪に塗った覚せい剤舐めた。(*)睡眠薬と覚せい剤が腸壁を経て肝臓からせめぎあいながら吸収されていく。睡眠と覚醒、歓喜と絶望の中でふらふらになりながら、

「お疲れ様です。帰ります。」

と言い、鼻血と小便を漏らしながら研究室を出て行った。


*覚醒剤(かくせいざい、覚醒アミンとも)とは、薬用植物のマオウに含まれるアルカロイドの成分を利用して精製した医薬品であり、アンフェタミン類の精神刺激薬である。脳神経系に作用して心身の働きを一時的に活性化させる(ドーパミン作動性に作用する)。乱用により依存を誘発することや、覚醒剤精神病と呼ばれる中毒症状を起こすことがある。本項では主に、日本の覚醒剤取締法の定義にて説明する。ほかの定義として、広義には精神刺激薬を指したり、狭義には覚せい剤取締法で規制されているうちメタンフェタミンだけを指すこともある。俗にシャブなどと呼ばれる。医師の指導で使われる疾病治療薬として、商品名ヒロポンとして、住友ファーマで製造されている。


研究室に残された疋舟サト子は舌打ちをしたが、それでもやがて来る勝利を確信していた。


2.ヨハネス・ケプラーの天体運動則

今日もまた六本木にある帝国大学新科学研究所有機物理学棟に師走の夕日があたっていた。戦前からそこにある大学はかつて帝国陸軍の建物であった。かつて陸軍が226事変と呼ばれるクーデターをおこした場所でもあった。そのときはまだ青年将校であった尾久ヨウキは今や大学の名誉教授となり、帝国大学新科学研究所で眠っていた。最新の科学が太古のシーラカンスを生かしているのだ。


(*)二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)とは、1936年(昭和11年)2月26日(水曜日)から2月29日(土曜日)にかけて発生した、日本のクーデター未遂事件。皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。


尾久ヨウキ名誉教授は100歳をとうに越えていた。冷却装置により体温はマイナス0.5℃で管理され、血液には連続的に抗生物質と防腐剤が投入されていた。血液は常に帝国大学病院でモニターされていた。

すなわち血液学検査として、白血球数(WBC)、赤血球数(RBC)、Hb(ヘモグロビン)、Hct(ヘマトクリット、PLT(血小板数)、血液像は1時間ごとに測定され帝国大学病院で管理された。

さらに生化学検査として、TP(総蛋白)、Alb(アルブミン)、A/G比(エージー比)、T-Bil(総ビリルビン)、D-Bil(直接ビリルビン)、AST(GOT)、ALT(GPT)、LDH、ALP(アルカリフォスファターゼ)、γ‐GTP

Ch-E(コリンエステラーゼ)、CPK、AMY(アミラーゼ)、GLU(グルコース・血糖)、HbA1c、Na(ナトリウム)、K(カリウム)、Cl(クロール)、CRP、

TG(中性脂肪)、T-CHO(総コレステロール)、HDL-C、LDL-C、BUN(尿素窒素)、CRE(クレアチニン)、UA(尿酸)、Fe(鉄)は半日ごとに測定され、そのデータは帝国大学病院で管理された。

ここは帝国大学新科学研究所のコンピューター室であり、人の死を乗り越えようとする壮大な実験場でもあった。

尾久ヨウキ名誉教授は常に意識がなく、十条ヒロキが来るわずかな時間のみ意識を取り戻すのだ。

「おはよう」と尾久ヨウキ名誉教授は言った。

宇宙飛行士として月に2度の行った航空宇宙工学の世界最高の権威であり、大学の至宝であった。


「人類の科学は天文学から始まったのだ。医学でも、物理でも、化学でもない。貨幣の発明に伴う数学が科学の始まりというが違う。天文学である。」

尾久ヨウキ名誉教授は言った。

「太古の昔、手の届かない夜空を見上げ、天体の運行から自分たち、人類が世界の中心ではなく、神の作られしこの世界の一部だと知ったのだ。


ペルーのナスカ地上絵(*)が描かれたのは今からおよそ2000年前である。そして1939年6月22日考古学者のポール・コソック博士が上空を飛行した時に発見された。つまり地上絵は飛行機が飛ぶ前は確認できなかったのだ。観察者が存在しない高地で星の位置で方位を測り、精密に描かれた。何のために描かれたのかは未だに不明であるが。」


*ナスカの地上絵(ナスカのちじょうえ、英名:Nazca Lines)は、ペルーのナスカ川とインヘニオ川に囲まれた平坦な砂漠の地表面に、砂利の色分けによって描かれた幾何学図形や動植物の絵の総称であり、古代ナスカ文明の遺産である。ナスカの図形群が描かれているエリアは縦横30kmもある非常に広大な面積があり、全体に千数百点もの膨大な数の巨大な図形が描かれている。あまりにも巨大な絵が多く、空からでないとほとんどの地上絵の全体像の把握が難しい。なぜこのような巨大な地上絵を描いたのかということが大きな謎の一つとなっている。また、ナスカの地上絵のエリアから川を挟んですぐ南にはカワチの階段ピラミッド群があり、その関係性は深いと予想されている。


「その中でヨハネス・ケプラーこそが人類の進むべき道を示した最初の天文学者である。」(*)


*ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler、1571年12月27日 - 1630年11月15日[1])は、ドイツの天文学者。天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を唱えたことでよく知られている。理論的に天体の運動を解明したという点において、天体物理学者の先駆的存在だといえる。また数学者、自然哲学者、占星術師という顔ももつ。太陽中心説は、日本では一般におおざっぱに「地動説」と呼ばれているもの。ヨーロッパでは本当は「太陽が中心」というコンセプトを軸に体系を考えており、あくまで「Helio(太陽)centrism(中心論)」(=Heliocentrism 太陽中心説)と呼ぶ。本当は、両者(地動説と太陽中心説)は厳密に言えば異なる(異なりうる)。西洋人にとっては、シンプルに「地球が中心」という考えから「太陽が中心」という考えへとシフトさせた点が、肝心なところなのである。そして「自分のいる星が宇宙の中心ではない」という点が、当時の人々にとっては、非常にショッキングだったわけである。)


そう言い残すと尾久ヨウキ名誉教授は再び深い眠りへと落ちて行った。

十条ヒロキは天上の尾久ヨウキ名誉教授室を離れると自分の研究室へと降りて行った。階段は地上10階、地下3階からなる吹き抜けのらせん階段であった。十条ヒロキは地上10階から地下3階へと降りてゆく。

旧陸軍省の建屋に増築を重ねて帝国大学新科学研究所は出来ていた。油を引いた板張りの床に血管のようなケーブルが横たわっているケーブルの中には電気信号と蒸気とガソリン、そして増築した棟に設置したトイレの排せつ物が流れている。漏れ出した蒸気で十条ヒロキの眼鏡は曇り、ガソリンの臭いにむせ返りながら自分の研究室に戻っていく。


昨日もそうだが今日もまた、いつも研究室には助手が一人で残っている。

ドアを開けると助手の疋舟サト子がそこにいた。

疋舟サト子の目は夕日に映えて、キラキラと光っていたが、その瞳の奥は昨日の失敗があり、復讐の炎に煮えたぎっていた。

疋舟サト子は明日40歳になる。

子供の頃は神童とか呼ばれたが、結局のところ、何の役にも立たない、神童には思いもよらない人生であった。多くの論文を書き、その成果が評価を受けることもあったが、華やかなパーティの場も、疋舟サト子には空虚な空事に思えた。

十条ヒロキを肉体的に愛し、その子供を宿したい。それは母性にも思えるが、愛ではなかった。実際のところ、疋舟サト子は行為の後、十条ヒロキを捕食したいというカマキリにも似た欲求を持っていた。(*)

*カマキリ類では、同じ種類でも体の小さいオスが体の大きいメスに共食いされてしまう場合がある。交尾の際も共食いが行われ、オスはメスに不用意に近づくと、交尾前に食べられてしまうので、オスは慎重にメスに近づいて交尾まで持ち込む。飼育環境下では交尾前に食べられてしまうこともあるが、自然環境下では一般的に交尾の最中(もしくは交尾後)、メスはオスを頭から生殖器までむしゃむしゃと食べる(食べられずに済むオスもいる)。


十条ヒロキに初めて会った頃、20歳の疋舟サト子は20年が経ち、処女のまま40歳を迎えようとしていた。腐女子として生きて、実際のところ、すっかり腐っていた。

そして今や合法的の枠を超えた手段で60歳になる十条ヒロキの童貞を奪う決意をしていた。そして十条ヒロキはそのことに気づいており、神にささげる純潔、すなわち童貞を守ることを決意していた。


夕暮れの中、十条ヒロキは研究室へと降りてゆく。十条ヒロキは尾久教授との面談記録をつけるため、どうしても一日の最期に研究室に戻らなくてはならなかったのだ。

仄暗い研究室のドアが音を立てて開く、そこに疋舟サト子がいた。

2度の大戦前に建てられた研究室によどんだ澱のような埃が舞っていた。

「先生。大先生のご様子はどうでしたか?」

疋舟サト子は十条ヒロキを先生と呼び、尾久ヨウキ名誉教を大先生と呼んでいた。

「尾久教授はご健在でしたよ。私はヨハネス・ケプラーに関する500回目の講演を聴きました。」

そして研究室のパソコンを起動すると尾久ヨウキ名誉教授の言葉を記録した。

日が沈み、急に冷えてきたので、たまらず十条ヒロキは灯りのサーモスタットの目盛りを上げた。

そこに疋舟サト子はコーヒーを1杯持ってきた。

「ありがとう。」

カップを口元に持ってきた。

かすかだがカップの持ち手に針のような突起を感じた。端が接眼顕微鏡になっている老眼鏡で見ると、それは1mmφ程度の、カップに合わせて黒く塗ったカーボンファイバーの針であった。

十条ヒロキはそのままカップを掴むと一瞬の迷いもなくコーヒーを飲み干した。

 皮下接種は、きわめて早くその影響が出る(*)


*皮下接種は、直接的に生物(その多くでは人間)の体に薬剤を投入する方法で、経口投与(口から薬剤を投入する)や皮膚・粘膜への塗布、ないし吸引などよりも直接的に必要な個所(患部)に薬剤を投入できるため、他の投与方法より効果が出始めるまでの時間が短く、また吸収経路でろ過されてしまったり、他の物質に変質してしまったり、または吸収の過程にて解毒作用で分解されてしまうような種類の薬剤でも投与できるため、より確実な方法である。


その対策として十条ヒロキは左手の指先にケブラーと呼ばれる高分子の膜、およそ0.1mmを塗っていた。(*)


*ケブラー (Kevlar) とは、アラミドの登録商標である。1965年に化学者でデュポン社に勤めていたステファニー・クオレクによって発明された。1970年代初期に商業的に使用され始めた。正式名称はポリパラフェニレン テレフタルアミド(英: poly-paraphenylene terephthalamide)。

ケブラーはパラフェニレンジアミンとテレフタル酸クロリドの重合によって得られ、分子構造が剛直で直鎖状の骨格を持つために、高強度・高耐熱性であり、同じ重さの鋼鉄と比べて5倍の強度を持つ。また、ケブラーは結晶性のポリマーであり、一般の有機溶媒に溶けず、溶融もしないことから成形が困難なポリマーである。そのため、濃硫酸に溶解することで成形していることも大きな特徴である。(Wikipedia)


カップに仕込まれた針は防いだが、ケブラーを塗るために溶かした濃硫酸のせいで手のひらはひどい火傷になっていた。

苦痛と安堵、歓喜と絶望の中でふらふらになりながら、研究室のパソコンにかけると尾久ヨウキ名誉教授の言葉を記録した。そして、

「帰ります。」

と言い、流血の左手を抑えて十条ヒロキは研究室を出て行った。

研究室に残された疋舟サト子は地団駄を踏んで、さらに怒りのあまり35年ぶりに失禁した。それでもやがて来る勝利を確信していた。



3.ガリレオ・ガリレイの望遠鏡


今日もまた六本木にある帝国大学新科学研究所有機物理学棟にクリスマスイブの夕日があたっていた。1960年代、そこは学生運動最後の拠点であり、学生対機動隊が衝突の象徴でもあった(*)。

1960年代後半、ベトナム戦争が激化の一途をたどっていた。また、1970年(昭和45年)で期限の切れる日米安全保障条約の自動延長を阻止・廃棄を目指す動きが左派陣営で起きていた。これに伴い学生によるベトナム反戦運動・第二次反安保闘争が活発化した。

当時尾久ヨウキ名誉教授室を帝国大学総長として学生の排除にあたっていた。機動隊を指揮し、各大学で結成された全共闘や、それに呼応した新左翼の学生が闘争を展開する大学紛争(大学闘争)に向かっていた。そして総長として当時の内閣に自衛隊の派遣を要請した。さらに米軍の投入も計画していた。それは一大スキャンダルに発展し、尾久ヨウキは帝国大学総長を辞任し、時の内閣も総辞職した。


(*)東大安田講堂事件をテキストにした。東大安田講堂事件(とうだいやすだこうどうじけん)は、全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が1969年(昭和44年)1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦ともいう。(Wikipedia)


尾久ヨウキ名誉教授は100歳をとうに越えていた。高齢者の死亡原因はほとんどが癌であるように既に尾久ヨウキ名誉教授の肉体は半分が癌細胞となっていた。肩にはもう一つの顔があり、左手は6本、右手は7本の指が生えていた。

癌は、前立腺癌 (prostate cancer)、肺癌 (lung cancer)、結腸直腸癌 (colorectal cancer)、脳腫瘍 (brain tumour)、頭頸部癌 (head & neck cancer)、食道癌 (oesophagus cancer)、肝臓癌 (hepatic cancer)、喉頭癌および咽、副鼻腔癌、舌がん、口腔癌(歯肉癌、頬粘膜癌など)頭癌、膀胱癌 (bladder cancer)、前立腺癌 (prostate cancer)、悪性リンパ腫 (malignant lymphoma)、膵臓癌 (pancreatic cancer)と多岐にわたる。

血液を冷却することで辛うじてその進行は抑えていたが、同時に連日100 Gyの放射線が全身に照射されたいた。そのため尾久ヨウキ名誉教授は厚さ30cmの鉛に囲まれていたのである。


*癌 即ち、悪性腫瘍(あくせいしゅよう、Malignant Tumor, Cancer)は、生体内の自律的な制御を受けずに勝手に増殖を行うようになった細胞集団、つまり腫瘍の中でも、特に周囲の組織に浸潤(英語版)し、または転移を起こす腫瘍のことである。がん(ガンまたは癌)や悪性新生物とも呼ばれ、死亡につながることも多い。様々な治療法も存在しており、日本の国立がん研究センターは、がんと診断された人の5年生存率、10年生存率を調査・発表している。2007年に始まった院内がん登録のデータが初めて利用された2018年時点調査の10年生存率は全体で59.4%で、部位や病期(ステージ)により差が大きい。

ヒトの身体は約60兆個(37兆個との見解も)の細胞からなっている。これらの細胞は、正常な状態では、細胞数をほぼ一定に保つように分裂・増殖し過ぎないような制御機構が働いている。それに対して腫瘍は、生体の細胞の遺伝子に何らかの異常が起きて、正常なコントロールを受け付けなくなり自律的に増殖するようになったものである。この腫瘍が正常組織との間に明確な仕切りを作らず浸潤(英語版)的に増殖していく場合、あるいは転移を起こす場合に悪性腫瘍と呼ばれている。悪性腫瘍のほとんどは無治療のままだと全身に転移して患者を死に至らしめるとされる(Wikipedia)。


ここは帝国大学新科学研究所のコンピューター室であり、人の死を乗り越えようとする壮大な実験場でもあった。

尾久ヨウキ名誉教授は常に意識がなく、十条ヒロキが来るわずかな時間のみ意識を取り戻すのだ。

「おはよう」と尾久ヨウキ名誉教授は言った。

日本人で周期律表に2つの元素を発見した化学の世界最高の権威であり、大学の至宝であった。


「人類の科学は天文学から始まったのだ。医学でも、物理でも、化学でもない。意思疎通を行い、集団を統率するために発展し、また各人の内在的な思考を統べる言語学が科学の始まりというが違う。天文学である。」

尾久ヨウキ名誉教授は言った。

「太古の昔、手の届かない夜空を見上げ、天体の運行から自分たち、人類が世界の中心ではなく、神の作られしこの世界の一部だと知ったのだ。


「星座の歴史は紀元前約2000年の古代メソポタミア文明までさかのぼり、バビロニア時代におひつじ座(牡羊座、Aries)、おうし座(牡牛座、Taurus)、ふたご座(双子座、Gemini)、かに座(蟹座、Cancer)、しし座(獅子座、Leo)、おとめ座(乙女座、Virgo)、てんびん座(天秤座、Libra)、さそり座(蠍座、Scorpius)、いて座(射手座、Sagittarius)、やぎ座(山羊座、Capricornus)、みずがめ座(水瓶座、Aquarius)、うお座(魚座、Pisces)、すなわち12星座が確立した。(*)


*メソポタミア(ギリシャ語: Μεσοποταμία、ラテン文字転写: Mesopotamia、ギリシャ語で「複数の河の間」)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。(Wikipedia)


星座はもともと羊飼いが夜空を見上げ、言い伝えで広まったとされる。それが季節による緯度の変化を精密観察し、さらにオリンポスの神話へと芸術性も高めたのだ。


「ガリレオ・ガリレイこそが人類の進むべき道を示した最初の天文学者である。」(*)

そう言い残すと尾久ヨウキ名誉教授は再び深い眠りへと落ちて行った。


*ガリレオ・ガリレイ(伊: Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの物理学者、天文学者[1][2]。

近科学的な手法を樹立するのに多大な貢献をし、しばしば「近代科学の父」と呼ばれる。また天文学分野での貢献を称えて「天文学の父」とも呼ばれる。

ガリレオは望遠鏡をもっとも早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に1日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた。(Wikipedia)


十条ヒロキは部屋を離れるとき、尾久ヨウキ名誉教授の寝言を聞いた。

「コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、意味するところは全く同じである。世界は地球を中心に回っていない。人類は多くある生物の1つであり、神の子ではない。この当たり前の真理に到達するのに数千年にわたる天文学、医学、物理、化学の多くの試みがなされ、ようやく科学に到達したのだ。」

それは天空からの声のようでもあったし、それとは真逆の、地の底からの声のようでもあった。


一昨日も、昨日もそうだが、今日もまた、いつも研究室には助手が一人で残っている。

ドアを開けると助手の疋舟サト子が背を向けて立っていた。

天上まで届く長窓の前におり、赤い夕日の中に疋舟サト子の姿は溶けていた。表情は見えないが、一昨日、昨日の失敗があり、背中は復讐の炎に上気していた。

疋舟サト子は今日40歳になる。

大学生になった頃はミス帝国大学とか呼ばれたが、結局のところ、何の役にも立たない、思いもよらない人生であった。一時は帝国大学女子大生48人からなるユニットのセンターを務め、ついには大河ドラマの主演をするまでになったが、華やかな芸能界の場も、疋舟サト子には空虚な空事に思えた。

十条ヒロキを肉体的に愛し、その子供を宿したい。それは母性にも思えるが、愛ではなかった。

無駄に20年を過ごしてしまったのは踏ん切りをつけない十条ヒロキに対する深い憎しみと、自分自身に対する失望であった。実際のところ、今日ことが上手くなされないときには十条ヒロキを殺し、自分も死ぬ覚悟であった。

十条ヒロキに初めて会った頃、20歳の疋舟サト子は20年が経ち、処女のまま40歳を迎えようとしていた。オタク女子として生きて、実際のところ、すっかり腐っていた。

そして今や合法的の枠を超えた手段で60歳になる十条ヒロキの童貞を奪う決意をしていた。そして十条ヒロキはそのことに気づいており、神にささげる純潔、すなわち童貞を守ることを決意していた。

疋舟サト子は何も言わない。ただ黙って振り返ると口元にマスクを着けていた。

十条ヒロキは思った。吸引麻酔である。(*)


*吸入麻酔薬(きゅうにゅうますいやく)は、呼吸器から吸収され作用を発現する麻酔薬である。主に呼吸器から排出される。現在存在する吸入麻酔薬はすべて全身麻酔薬である。笑気以外は標準状態で液体であり、使用するには専用の気化器が必要である。また揮発させて使用することから揮発性麻酔薬と呼ばれる


その対策として十条ヒロキ自身もカバンからガスマスクを取りだし身につけていた。(*)

*ガスマスク ガスマスクとは、毒ガス・粉塵・微生物・毒素などの有害なものや強烈な臭いを発するものから人体を保護するために顔面に着用するマスクで、目など傷つきやすい組織や鼻・口を覆う。日本語では防毒面と表記し、日本陸軍では「被服甲」を略した被甲という呼称も用いられた。これは防毒面の管理区分が1932年に変更され、従来の「兵器」から「被服」へ移されたことに由来する(Wikipedia)


十条ヒロキは急いで研究室のパソコンにかけると尾久ヨウキ名誉教授の言葉を記録しようとしたが、そのまま卒倒した。その間際、疋舟サト子がつけているのはガスマスクではなく、腕にガスボンベを抱えているのが、見えた。研究室に充満していたのは麻酔ガスではなく窒素であった。

有機物理学棟前には業者のトラックが停まっており、その荷台には48本の200立米窒素ボンベが20本載っていた。そこから伸びる配管が目張りした窓の隙間から差し込まれていた。卓上の酸素濃度計は酸素濃度5%を示していた。(*)


*酸素濃度と人体への影響 21%:通常、空気中の酸素濃度。18%:頭痛など 安全の限界=連続換気が必要。16~14%:脈拍、呼吸数の増加、頭痛、吐き気 細かい筋肉作業がうまくいかない、精神集中に努力がいる。12% めまい、吐き気、 筋力低下 判断がにぶる。墜落につながる。10%:顔面蒼白、意識不明、嘔吐 気管閉塞で窒息死。8%:失神昏倒、7~8分以内に死亡。6% 瞬時に昏倒、呼吸停止 6分で死亡(抜粋:酸素濃度と人体への影響)


疋舟サト子は十条ヒロキの失神を確認するとトラックの作業員に電話し窒素を止めさせた。更に十条ヒロキのガスマスクを外すと酸素を吸引させた。次に麻酔薬を投与するのだが、吸引ではなく、注射を選んだ。現状ではまだ十条ヒロキのガスマスクは外せないという医師としての疋舟サト子の判断である。

そして疋舟サト子は用意した治具で十条ヒロキの手足を拘束した上で、脈拍と呼吸を確認し、ようやく酸素吸引マスクを外し、十条ヒロキの口にさるぐつわをつけた。

疋舟サト子は自分でもどうしようもなく興奮していた。胃酸を含むよだれが垂れ流しとなり、長丁場になると踏んで装着した成人用オムツはすでにパンパンに膨れ上がっていた。

疋舟サト子は十条ヒロキの♂を口で含み、皮を剥いて、反らせ、その部分をねかしたり、立たせたりした。そして2つの球形の立体部を優しくもみ、体液の製造を促した。十条ヒロキは60歳の童貞であったけど、疋舟サト子の甲斐あって。準備はできたのだった。



疋舟サト子は準備をして良く濡らした十条ヒロキの凸の部分を同じく、自分の♀の部分も唾液で準備をして良く濡らそうとしたが、そちらは十分しけっており、既にふき取りが必要な状態であった。疋舟サト子は寝かした十条ヒロキを自分の凹の部分へと導いた。40歳直前の処女と60歳の童貞はそうして破瓜の瞬間を迎えたのだけど、疋舟サト子にとってはその瞬間よりも体液の移動が重要であったので、気を抜かず、薄暗闇の中、LEDの光を当てて接合部を注視したのだった。

また十条ヒロキの体液の放出には十条ヒロキの気付けが判断した疋舟サト子はハルシオンと呼ばれる覚せい剤を気化すると十条ヒロキの気道から注入した。

目を覚ました十条ヒロキは即座に体液を放出した。体液は疋舟サト子の子宮を満たし、猿ぐつわの上から疋舟サト子は十条ヒロキに口づけをするのだが、そのとき大量の唾液が十条ヒロキの口に入った。そのようにして体液の交換がなされたのであるが、疋舟サト子の唾液は胃酸を含んでいたため、十条ヒロキは苦みと歯茎に痛みを感じた。

放出の瞬間、十条ヒロキは涙を流し、嗚咽を漏らした。

「分かっているでしょう?先生を救ったのは私なのですよ。このくだらない、何の役にも立たない、生きる価値のない、大学の研究室で引きこもった生活から、60歳にしてようやく日のあたる場所に出られるのですよ。」

十条ヒロキは粘性の高い体液がどくどくと尿道をとおるのを感じ、恥ずかしさと自分の無能さに打ちひしがれた。

そんな十条ヒロキに疋舟サト子は罵声を浴びせ続ける。

「本当は何も考えていないくせに、難しそうな顔をして、このまま枯れて、仙人にでもなるつもりでしたか?そんなことは私が許しませんよ。この20年間、あなたが避けてきた重荷を、罰を、刑を、しがらみを、愛を受け入れるときが来たのです。あなたはようやく私によって救われるのですよ。」

体液放出の後の萎えを疋舟サト子は体内で感じると、それを抜いて、ウエットティッシュで良く拭いた。十条ヒロキの分だけでなく、自分のも、である。

そして1時間の砂時計を回すと2回戦目のカウントダウンに入った。今日はクリスマスにして、疋舟サト子の誕生日にして、排卵日であったのだ。24時間で24回のトライアルを疋舟サト子は考えていたが、60歳の十条ヒロキにとってそれはトライアスロンのようなものであった。

2回目に備えて疋舟サト子は前立腺を刺激するための治具を十条ヒロキの肛門に押し込んだ。

そして2度ほど淡いキスをすると、言った。

「トイレに行きたくなったらいつでも言ってくださいね。ちゃんと用意してありますから。」

そこには大型犬用の砂場があり、十条ヒロキは疋舟サト子の決意が揺るぎないものであることを知った。

肛門からの刺激の次は電極、そして投薬、催眠術、あらゆる手段がほどこされ、十条ヒロキは体液を製造し、24時間間にすべて放出した。


十条ヒロキがまだ若く、学問に引きこもる前のことである。

帝国大学で研究室を与えられた十条ヒロキは自身のテーマを海洋プラスチック問題の解決に費やしていた。それは帝国大学の学者を志した青年が世界最大の環境課題に取り組もうとしたものであり、大学で研究者の道を選んだ者の矜持とも言えた。

海洋プラスチック問題とは、

・海洋プラスチックによる海洋汚染は地球規模で広がっている。

・北極や南極でもマイクロプラスチックが観測されたとの報告もある。

・2050 年までに海洋中に存在するプラスチックの量が魚の量を超過すると予測されている(*)。

・海洋ゴミの中ではプラスチック類が最も高い割合を占めている。

* (出展)The New Plastics Economy: Rethinking the future of plastics(2016.Jan. World Economic Forum)

では誰が海洋プラスチックゴミを出しているのか?

中国+インドネシアで約4割を占めており、海洋プラスチックゴミはこの2国が主原因。

・海洋プラスチックゴミのG7割合は2%

・G20(G7除く)で46% 中国は単体で約28%

・ASEAN 19%、その他 33%

両国とも7 割以上のプラスチックゴミがmanage(管理)出来ていない*5。

*(出典)環境省プラスチックスマートキャンペーンについて

2019年6月にはG20大阪2019サミットが開催され、「海洋プラスチックゴミ」は大きく取り上げられた。

外務省はマリーン(MARINE)・イニシアティブ(2019年7月)の下で,具体的な施策を通じ,廃棄物管理,海洋ごみの回収及びイノベーションを推進するための,「途上国における能力強化を支援していくことを表明した」。

これはとても重要なことで、ようやく海洋プラスチック問題に解決の糸口が見えて来たとされた。

本来なら2020年は海洋プラスチック対策を中心とした環境対応の年になるはずであった。

しかしここでウイルスによるパンデミックが起きてしまった。

「ウイルスの感染拡大により世界各地で検疫体制が導入され、パンデミック以前との比較で温室効果ガスの排出量は5パーセントも低下した。その一方、医療用マスクや手袋、消毒液のペットボトルなどが大量に消費されていることから、プラスチックごみによる環境破壊が進んでいるという。国連貿易開発会議(UNCTAD)が2020年7月27日に発表した報告書で明らかになった。

国連報告書によれば、ウイルスの感染拡大以前から問題視されていたプラスチックごみによる環境破壊は急速に規模を拡大しているという

パメラ・コーク・ハミルトンUNCTAD国際貿易部ディレクターは、ウイルスの感染拡大防止対策として特定の商品が日常的に大量消費されるようになった結果、環境破壊は悪化を続けていると警鐘を鳴らしている」と表明した。*

*引用:スプートニクニュース

海洋プラスチック問題に向けたODA日本の府開発援助(せいふかいはつえんじょ、英語: Official Development Assistance)は止まり、人の動きの止まった世界の中でJICA独立行政法人国際協力機構(どくりつぎょうせいほうじんこくさいきょうりょくきこう、英: Japan International Cooperation Agency、略称: JICA)は何の働きもできなかった。


十条ヒロキはそれでもそれなりの努力をして挫折したのだけど、疋舟サト子はそれを認めていなかった。十条ヒロキの学問への没頭は社会に迷惑をかけないように配慮した自殺のようなものと、その本質を見抜いていた。そして疋舟サト子は自分の体内からスポイトで十条ヒロキの体液を取り出すと光学顕微鏡でその動きが十分な繁殖力を持つものであるのを確認した。そして翌日の夜半、ビーカーに用を足して、妊娠検査薬で受胎を確認すると十条ヒロキを開放した。

絶望と空虚感の中でふらふらになりながら、べとべとになった下半身をバスタオルで拭き取ると、尾久ヨウキ名誉教授の言葉を研究室のパソコンに記録した。そして、

「帰ります。」と言い、立ち上がった。

帰る間際、十条ヒロキの前に疋舟サト子が立ちはだかった。空調のない研究室は吐く息が白く見えるほど冷え切っていた。そこに疋舟サト子は裸で立っていた。かつてミス帝国大学となった面影はなく、カエルのような腹の突き出た肢体がそこにはあった。だらんとした乳房に漆黒の乳頭が光り、もっさりした陰毛はツタのように広がっていた。それがシダのようで、食虫植物の粘液で濡れぼそっていた。アニメではなく、マンガに描かれたパンツを履いていないデビルマンのその部分そっくりであった。(*)

*マンガ 永井豪


べとべとになった下半身を擦り付けるようにして疋舟サト子は十条ヒロキに抱きつき、厚い唇を重ねた。

それは熱いキスでもあったが、疋舟サト子の唾液は胃酸を含んでいるので十条ヒロキは物理的な痛みとしてヒリヒリと感じた。そして疋舟サト子は十条ヒロキの手を取り、腹部へとあてた。そして十条ヒロキは受胎告知を悟り、崩れるように座りこんだ。

疋舟サト子は言った。

「御使が答えて言った,『聖霊があなたに臨み,いと高き者の力が

あなたをおおうでしょう。それゆえに,生れ出る子は聖なるものであり,神の子と,となえられるでしょう。』」(*)

*新約聖書 ルカによる福音書




4.アイザック・ニュートンのリンゴ

エリート大学で無能な凡人であるという罪を犯した十条ヒロキは、大学から尾久ヨウキ名誉教授の観察という罰を課せられていた。それだけが十条ヒロキの仕事であり、十条ヒロキはそのために大学にいた。他にすることはなかった。その姿を疋舟サト子はもう10年以上見てきた。何も新しいことを研究せず、学ばず、考えず、十条ヒロキは尾久ヨウキ名誉教授の観察だけを請け負っていた。生きたまま死んでいるのは尾久ヨウキ名誉教授ではなく、実は十条ヒロキであった。


今日もまた六本木にある帝国大学新科学研究所有機物理学棟に年の瀬の夕日があたっていた。

30年前、その土地はバブル崩壊の真っただ中にあった。膨大な金がこの地域につぎ込まれ、そしてついには泡ときえたのだった。尾久ヨウキ名誉教授は4つの不動産会社を手掛け、100兆円という、この国のGDPに匹敵する金額を動かしていた。そして2つの証券会社、3つの銀行を支配していた。金融緩和によるバブルを引き起こしたのは尾久ヨウキ名誉教授であり、その崩壊を画策したのも尾久ヨウキ名誉教授であった。

当初、尾久ヨウキ名誉教授は稀代の実業家、投資家であった。景気絶頂期の1980年代末には「帝国大学の天才相場師」と呼ばれていたが、最期には詐欺師と罵られた。その影響はすさまじく、4つの不動産会社、2つの証券会社を倒産させ、12つの銀行の再編を促した。ついには30年にわたり、日本のGDPを2%押し下げた。(*)

そして尾久ヨウキ名誉教授は平成の時代の半分以上を刑務所で過ごすこととなったのだ。


*バブル崩壊 バブル崩壊(バブルほうかい)は、日本の不景気の通称で、バブル景気後の景気後退期または景気後退期の後半から、景気回復期(景気拡張期)に転じるまでの期間を指す。内閣府景気基準日付でのバブル崩壊期間(第1次平成不況や複合不況とも呼ばれる)は、1991年(平成3年)3月から1993年(平成5年)10月までの景気後退期を指す。

バブル崩壊という現象は、単に景気循環における景気後退という面だけでなく、急激な信用収縮、土地や株の高値を維持してきた投機意欲の急激な減退、そして政策の錯誤が絡んでいる。

1980年代後半には地価は異常な伸びを見せた。公示価格では北海道、東北、四国、九州など、1993年ごろまで地価が高騰していた地方都市もある。

バブル経済時代に土地を担保に行われた融資は、地価の下落により、担保価値が融資額を下回る担保割れの状態に陥った。また各事業会社の収益は、未曾有の不景気で大きく低下した。こうして、銀行が大量に抱え込むことになった不良債権は銀行経営を悪化させ、大きなツケとして1990年代に残された。

また、4大証券会社(野村證券・山一証券・日興証券・大和証券)は、株取引で損失を被った一部の顧客に対して損失補填を行ったため、証券取引等監視委員会設立のきっかけとなった。(Wikipedia)


対して十条ヒロキは何の毒にも薬にもならない人生であった。帝国大学を中心に起きた大きな事変を、大学の中から、ただじっと、何もせずに、何の感傷もなく見ていたのだ。総面積約320平方キロメートルの帝京大学敷地は141,300平方キロメートルアメリカニューヨーク州と同じ資産価値になっていた。そこまで積み上げられた不動産バブルは1990年に崩壊したのだった(*)。


*バブル崩壊 不動産

1980年代末期の日本での不動産バブルは、価格上昇の原資は主に国内のマネーだけであった。大蔵省が行った総量規制で銀行の不動産向け融資が沈静化し、地価が大幅に下がり始めバブルが崩壊した。それまで土地神話のもと、決して下落することがないと言われた地価が下落に転じ、以後、2005年に至るまで公示価格は下がり続けた。2005年以降は、一部の優良な場所の公示価格が上昇に転じている。

1998年末の時点で日本の不動産の価値は2797兆円に及び、住宅・宅地の価値は1,714兆円と不動産全体の約6割を占めていた。1998年末の土地資産総額はピーク比で794兆円、株式資産総額は同じくピーク比で574兆円減少している。1980年末のバブル崩壊以降、日本の不動産の時価は600兆円以上暴落した。日本全体の土地資産額は、1990年〜2002年で1000兆円減少した。バブル崩壊で日本の失われた資産は、土地・株だけで約1,400兆円とされている。内閣府の国民経済計算によると日本の土地資産は、バブル末期の1990年末の約2,456兆円をピークに、2006年末には約1,228兆円となりおよそ16年間で約1,228兆円の資産価値が失われたと推定されている。

また、バブル崩壊直前に高値で住宅を購入し、以後の価格下落で憂き目を見る例も少なくない。資産価格が下落したにもかかわらず固定資産税が高止まりしたままだったり、バブル崩壊後の低金利へローンを借り替えようとしても担保割れで果たせないなどである。高値で買った同じマンションの別室がバブル崩壊後に破格値で売り出され、資産価値下落の補償を求める訴訟も起こされたが、大半は自己責任として補償を得られずに終わっている。

経済学者の竹中平蔵は「バブル崩壊によって日本の地価が下がったが、これもグローバリゼーションの一環であると考えることができる。日本の地価が下がってきたことは、グローバリゼーションによって起きた制度の競争、『要素価格均等化の命題』の流れに沿っているという見方もできる」と指摘している。(Wikipedia)


尾久ヨウキ名誉教授は100歳をとうに越えていた。ロータリーエンジンからなる人口心臓、防腐剤の入った血液、不凍液で0.5℃まで冷やされた体、24時間の人工透析、そして放射線治療、これらの最先端の技術で尾久ヨウキ名誉教授は生かされていた、もしくはミイラとして腐らずに保たれていた。しかしその日、運命の終末を迎えるのである。

ここは帝国大学新科学研究所尾久ヨウキ名誉教授研究室であり、慰霊室でもあり、と殺上であった。

尾久ヨウキ名誉教授は常に意識がなく、十条ヒロキが来るわずかな時間のみ意識を取り戻すのだ。いつも「おはよう」と言うがその日は違った。

疋舟サト子にすべての体液を奪われカラカラに乾いた十条ヒロキは尾久ヨウキ名誉教授から繰り返される3つも言葉を録音し、大学のスーパーコンピューター富士山にかける。

それは現在ではどこでも使われていない、古代メソポタミアの石板でしか残されていないヘブライ語であった。意味するのは3つの言葉であった。

「君は誰だ。私は誰だ。ここはどこだ?」

続いて、ラテン語の「ad astra per aspera」(*)が2度繰り返され、その後は完全に沈黙した。

その意味は困難を通じて天へ(=困難を乗り越えて星の世界へ、困難を克服して栄光を掴む)」を意味する成句であり、ボイジャーゴールデンレコードに録音された一節である。(*)


*ボイジャーのゴールデンレコード (Voyager Golden Record)、またはボイジャー探査機のレコード盤とは、1977年に打ち上げられた2機のボイジャー探査機に搭載されたレコードである。パイオニア探査機の金属板に続く、宇宙探査機によるMETI(Messaging to Extra-Terrestrial Intelligence)=Active SETI(能動的な地球外知的生命体探査)の例である。地球の生命や文化の存在を伝える音や画像が収められており、地球外知的生命体や未来の人類が見つけて解読することを期待している。ただし、ボイジャー探査機が太陽以外の恒星近傍(その恒星まで1.6光年離れた地点)へ到達するには4万年を要するため、もしボイジャーの方向に地球外知的生命体がいたとしても、そこに到達するまでには長い時間がかかる。(Wikipedia)


順番でいえば尾久ヨウキ名誉教授の今日の講義はアイザック・ニュートン(*)の話が始まるはずであった。ニュートンは引力が質量×加速度であることを見抜き、その積分がエネルギーであるとした。それはすべての物質が物理法則下であることを示したものであり、やがてすべての物質はわずか118種の元素からなり、質量、電荷が整数で表される元素周期律表(ロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフ(1869年))に到達する。こうした一連の発見を科学革命(Scientific Revolution)と呼び、人類は迷信と神話のしがらみを抜け出し、科学と論理の世界へと大きく進歩したのだ。


*アイザック・ニュートン[1](英: (Sir) Isaac Newton、ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日)は、イングランドの自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者・神学者。主な業績としてニュートン力学の確立や微積分法の発見がある。1717年に造幣局長としてニュートン比価および兌換率を定めた。ナポレオン戦争による兌換停止を経て、1821年5月イングランド銀行はニュートン兌換率により兌換を再開した。国際単位系 (SI)における力の単位であるニュートン(英: newton、記号: N)は、アイザック・ニュートンに因む。(Wikipedia)


尾久ヨウキ名誉教授の言葉はフランス語、ドイツ語、中国語 、英語、ヒンディー語、ヒスパニック語、アラビア語を一巡すると次第に赤ん坊のようになり、意味の分からない言葉となった。それでも十条ヒロキはその意味を探そうと思ったが、実際に死んだ脳が発するその言葉には意味がなかったのだった。

事態を理解した十条ヒロキは帝国大学事務局に電話を入れると、ポケットからマニュアルを取り出し、最期の作業へと入った。即ち、心臓の代わりのロータリーエンジン、血液に防腐剤を入れる装置、脳に差し込んだ0.5℃の冷却棒、人工透析装置、放射線発生装置、マニュアルどおりの手順でそれぞれのスイッチを落とした。

ロータリーエンジンが止まることで血液の循環が止み、皮膚が裂けた。そこに血液はなく、乾いた繊維の、まさにワラがむき出しとなった。

防腐剤が切れたためすさまじい勢いで腐敗が進み、耳も鼻も指も腕も豆腐のように崩れ落ちた。

冷却が停まると脳は固形を維持できなくなり、鼻と口から粘性の液体として漏れ出してきた。

人工透析装置が停まると体内は骨もすべてが老廃物で侵されおがくずのようになり、放射線発生装置は止まると癌細胞が泡のように膨れ上がり、やがてすべては泡の中に消え、シーツの上には人喰い沼のようなあぶくを放つ、腐った匂いのする泥だけが残った。

尾久ヨウキ名誉教授は死んだ。2度の大戦を経験し、2度のノーベル賞を受賞し、オリンピックにも2度出場した、帝国大学最高の頭脳であり、この国の宝であった。。


警察が来る前、昨夜純潔を失った60歳の十条ヒロキは帝国大学事務部の指示に従い、最愛の尾久ヨウキ名誉教授の死体には触れなかった。それは大学事務局が死体損壊・遺棄罪の可能性を懸念したからであった(*)

*死体損壊・遺棄罪(したいそんかいいきざい)とは、死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得する犯罪(刑法第190条)。法定刑は3年以下の懲役である。


童貞も失い、何も出来ない役立たずの十条ヒロキは尊敬する尾久ヨウキ名誉教授が腐敗してアミノ酸に分解されて行くときもただ黙って見守っていた。それは彼の今までの生き方であり、その後の人生もその通りであった。

やがて警察が来て、十条ヒロキは拘束された。その後裁判となり、大学側からは十条ヒロキが手を下すずっと以前に尾久ヨウキ名誉教授は死んでいたという証拠が出された。しかし尾久ヨウキ名誉教授を失った影響が大きく、結果として尾久ヨウキ名誉教授の脳と回線が結ばれていたスーパーコンピューター富士山は国際競争力の順位を10も落とし、この国の家電会社3つが中国、韓国、台湾に買い占められ、GDPが1%落ちる事態となると、国は十条ヒロキを殺人罪で訴えた。

不毛な裁判は長きにわたったが、死後警察による検視が行われた結果で脳と思われていた部分はほとんどが脳腫瘍であることが分かると、十条ヒロキはようやく無罪となり釈放された。

その少し前のことである。疋舟サト子は拘留中の十条ヒロキに面会に行った。そして責めた。

「先生が大先生を殺したことについて私は何とも思いません。元々死んでるようなものでしたから、罪に問うことすらおかしいとか思っています。しかし先生が私と子供を捨ててブエノスアイレスへ逃げようとしたことは許せません。一生忘れません。それだけの頭脳がありながら、あなたは人として、またはヒト科ヒトとして、してはいけないことをしようとしたのです。」

十条ヒロキは泣いた。泣いたのは物心ついてから多分初めてであった。また泣いたのは後悔からではない。泣いたのは疋舟サト子の言葉に完膚なきまで打ち負かされたからだった。この国の多くの男がそうであるように、十条ヒロキもまた逃げようとしていたのだ。(*)

*国勢調査結果 2015年(平成27年)に行われた調査では、一般世帯が5,300万世帯以上あるのに対して、その中に占める母子世帯がおよそ75万世帯(1.42%)、父子世帯がおよそ8.4万世帯(0.16%)存在しているという結果になった。日本では父親が見る、いわゆるシングルファーザーの割合は僅か10%である。


裁判が結審した後、十条ヒロキは出所し、疋舟サト子と子供3人で暮らし、私立大学の客員教授という望まない待遇であったかもしれないが、それなりに幸せな人生を送った。

しかし疋舟サト子はその生涯において、十条ヒロキを「先生」と呼び続け、最期までその名を呼ぶことはなかった。それは疋舟サト子の十条ヒロキに対する尊敬によるものではなく、おそらくは侮蔑と警告を意味してのことであった。

2人の間には娘が1人生まれたが、成長する従い、父親が祖父のように歳を取っているのを恥ずかしく思い、次第に遠ざけるようになった。しかし十条ヒロキはそれを娘の正常な成長として嬉しく思った。つまるところ、疋舟サト子によって大きく変えられた十条ヒロキの人生は概ね幸せであった。年老いて妻にも娘にも捨てられた十条ヒロキの人生は幸福あった。

80歳を過ぎて、自分で排泄もできなくなった十条ヒロキは老人介護施設に入居した。その1年後に、誰に看取られるでもなく最期を迎える。それは尾久ヨウキ名誉教授の半分にも満たない年月であったが十条ヒロキにとっては十分であった。


死に間際、湿ったオムツと疥癬に悩まされながら十条ヒロキは思った。

近い将来、人類は死すらも克服するだろう。しかし死という解放を失った人類は幸福になったといえるのだろうか?17世紀の科学革命から、人類は進歩したと言えるのだろうか?




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R殺人 ナリタヒロトモ @JunichiN

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