第8話 ……いいよ、お礼なんて
「なんだよ、それ……放課後デートじゃんか。めっちゃいいじゃん!」
学校に着くと、もはや恒例といった様子で光一が進捗を確認してきた。
「別にそんなんじゃないよ。サイファーは色んな人でやってたしね。ふぁぁ……」
漏れ出るあくびを達也は咄嗟に嚙み殺す。
「なんだよ、随分眠そうだな」
「うん、昨日眠るの遅くてさ。それより諏訪原の方はどうなんだよ。バンドはどうなの?」
「それ、お前がきく? 誘いを断っておいてよー。……ま、順調だよ」
「そうなんだ。あ、音源聞いたよ。すごくよかった。でもあれ、本当に諏訪原が作ったの?」
昨日、フリースタイルの音源をいくつか再生しているうちに気分転換にふと、光一から送られてきた音源も聞いてみた。仮ボーカルという位置づけらしいが、真由のかわいらしい声で格好いいロック調の歌が録音されていた。そのクオリティは非常に高く、正直、高校生が作ったオリジナル曲とは思えない程だった。
「だろ! 正真正銘、俺のオリジナルだよ! 作詞も作曲も俺だ。演奏のアレンジとかはバンドのメンバーに相談には乗ってもらったけどな。てかやっぱいい曲だろ? だからさ」
「いや、やらないよ」
「まだ言ってねぇ!」
「ていうか、あれ中原さんの声だろ? 僕には歌えないよ」
「そんなことない。お前ならあれぐらいの音域、絶対出る」
「何でそんなことわかるんだよ」
「何々? 呼んだ?」
少しずつヒートアップしていく達也と光一の会話に真由が割り込んできた。朝一番の憂鬱を晴らすような飛び切りの笑顔だ。その笑顔に少し冷静さを取り戻したようで、光一が静かに言葉を続けた。
「ま、もうちょい考えてみてくれよ。このままだとこいつが歌うことになるからよ」
そういって光一は真由の頭をポンと叩きながら、自分の机に戻っていった。
「歌、聞いてくれたんだ。このままだとあたしがリズムキープしながら歌うことになっちゃうらしいよ」
「僕にはどうしようもないや。ごめんね」
「ううん、こっちこそごめんね。光一、言い出したら聞かないところあるから」
長年一緒にいるからこそわかるものが二人にはあるのだろう。真由は光一の代わりに謝罪をする。
「なんでそんなに田中君に歌わせたいのかは、あたしも聞いてないからわかんないけど、幼馴染としては少し妬けちゃいますな。無理させるわけにはいかないから、断ってくれて全然かまわないし。フォローはちゃんとするからさ!」
そう言って真由は光一のもとに駆け寄る。普段のんびりとした雰囲気の彼女のその冷静な対処に達也は少し驚いた。
一時間目の数学が始まった。
生まれてこの方、学業を疎かにしたことのない達也の頭は、今日とて教壇の教師の言葉に集中する。授業は真面目に受けなければいけない。そんな考えとは裏腹に達也の頭の片隅では聞こえてくる単語で踏める韻をどんどん探していた。
(因数分解、難しい、数学教師、二十九歳、シングルマッチ……)
(方程式、悲しき、形式……うーん……)
それは二時間目の古文、三時間目の公民、四時間目の物理の時間も続いた。教師が発言した内容や教科書に書かれてある文字でふとした瞬間、韻を踏んでいる自分に気づく。
(だめだ。授業に集中しろ)
習慣とはありがたいもので、そんな状況の頭とは裏腹に、板書を取る手はすらすらと動いてくれた。
◇
「田中君! これ書いて!」
「……何これ?」
放課後、何も言われなくとも、律儀に教室に残っていた達也にきららが紙を手渡してきた。紙に目を落とすと、代表者と書かれている欄の横にでかでかときららの名前と学年、クラス、出席番号、住所が書かれている。その下にはメンバー分を同じように書く欄が連なっている。勿論全て空白だった。
「文化祭発表の希望用紙。さっき先生にもらったの。田中君も名前書いて」
促されるままに達也は必要事項を紙に書いた。話によると今年の希望者はやはりゼロで、きららがこの用紙をもらいに職員室にいったときも非常に歓迎されたらしい。やはり教師側も余った時間にパフォーマンスをするのは嫌なようだ。
「ありがと! 帰りに出しとくね。さ、今日はちょっとしたゲームをやりましょう」
そう言ってきららはガサゴソと鞄から箱を取り出した。
取り出された箱はパカっと上下に開き、その中には様々な言葉が書かれた四角く白いカードが入っている。受験生が使う単語帳をばらしたような見た目をしている。
「? これをどうするの?」
達也の疑問にきららがふふんと鼻を鳴らす。
「これは韻を踏む練習キット。名付けてラップマスター君2号だよ!」
きららがババンと水戸黄門にでてくる印籠のように、箱を掲げた。その自慢げな様子に、1号はどこにいったのだろうという疑問はとりあえず胸にしまった。
「文化祭まであと三週間を切っております。昨日サイファーで実戦デビューをした田中君をさらにラップ漬けにするためにわたしが心を込めて作りました。夜なべで」
それにしては達也と比較すると元気はつらつと言った様子だ。バイタリティの差を感じた。
「……それはありがとう。で、何これをどうするの?」
「そんなに気になる?」
きららが悪戯っ子のような眼を向けてくる。さっき見えた様々な言葉と韻を踏む練習キットという名前がもはや答えだとも思ったが、こんなにノリノリな彼女の前でそんな野暮なことを言う気はない。
「気になるね」
「ふふ、よろしい。じゃぁルールを説明するね」
きららがバラバラの紙の中から無作為に一枚、選び取った。裏向けになっており、まだ表にどんな言葉が書かれているかは見えない。
「ここにいろんな言葉が書かれたたくさんの紙があります。で、これを表にして、その言葉で韻を踏める単語を交互に言っていく」
「なるほど」
「やっぱり言葉の引き出しって大事なんだよね。どれだけネタを持ってるか、それを瞬時に出せるかが勝敗を分けるし。それにいっぱい韻を踏めた方が気持ちいいもん。勿論、それだけが全部じゃないけど。とにかくかなり大事な要素なのです」
昨日の夜、ひいては今日の授業中に達也がやっていることではあるが、改めてこうして聞くと確かにと思う。いざ、自分の主張をしたいと思ったときに、その言葉を知っているか、それで韻を踏んだことがあるかという経験はかなり大きい。
「で、一つコツなんだけど、母音を意識するとかなり世界が変わるよ」
「母音?」
「そ! 例えばりんごだったら、いんお。きららだったら、いああって感じ。実際はここまでシンプルじゃないけど、意識するだけで結構変わるよ。ま、とりあえずやってみよう!」
そう言ってきららが机の上に置かれたカードを表にした。そこに書かれている単語を達也が読み上げる。
「墾田永年私財法……」
一瞬空気が止まる。そして一呼吸置いたあと、きららが達也にターンを譲った。
「……じゃぁ田中君、先行ね!」
「いや、ちょっと待って!!」
「え、何?」
何のことかときららはとぼける。その目は遥か大海原を泳いでいる。
「いや、ハードル高くない? てか、何でそんな絶妙な言葉のチョイスなの?」
「えへへ、昨日深夜テンションでつくったから……じゃ、もう一枚めくろう!」
笑顔でごまかしながらきららは更に一枚取り出す。そこには「当直直線運動」と書かれていた。
「……ま、最後の文字さえ意識すればいいから! 田中君、母音の意識だよ! 当直直線運動だったら、おうおうおうえんうんおうだよ!」
もはや謎の呪文を唱えているようだった。達也は一生懸命頭をひねるが、なかなか言葉が出てこない。
「ごめん、難しいや。鈴木さんやってみてよ」
「……最後踏めてればいいから……」
というわけで、帳尻を合わせる形で再開した。
まずお題は「運動」だ。二人で交互に言葉を並べていく。
「葡萄」「浮上」「無常」「夢想」「無謀」「苦労」「歩道」「相撲」「外道」「欲望」
ひとしきり出し合ったあと、お題を変えてみる。どの言葉もかなりラリーが続いたが、最終的には全てきららの脳内に言葉が見当たらない状態で終わった。フリースタイルの経験はきららの方が圧倒的に多いが、語彙力については達也の方がかなり多かった。
達也は日課として読書を嗜んでいる。それも比較的簡単に読める大衆向けの娯楽小説から難しい哲学書や歴史書など幅広く読むため、その分、知識も豊富だ。あまりそういうものに触れないきららと比較したとき、単純な単語の語彙力ではこうした結果になるのは当然なのだが、ラップ初心者である達也に負けたことが相当悔しいようで、きららは頬を膨らませ、むきになってどんどん違う単語で勝負を挑んできた。
「……ぐぬぬ……もういっかい!」
だが、何回やっても結果は一緒だった。最終的にきららの方が言葉に詰まり、達也の方はまだ何個かでてくるような状態が何回か続いた。
達也の言った単語の意味がわからず、「それどういう意味?」と聞くこともしばしばあった。ひとしきり繰り返した後、少し休憩を取ろうと、オーバーヒートしそうな頭を抱えながらきららが言った。
「なんか飲み物買ってくるよ。鈴木さん、何かいる?」
「情けですか……コーラをお願いします」
「わかった」
教室を出て階段を降りたところに自販機がある。聞いたことのないメーカーのお茶や水がラインナップされているが、五百ミリリットルのペットボトルが一本五十円という破格の安さなため、特段文句を言う生徒もいない。
達也は百円玉を自販機に入れ、自分の分の水ときららのコーラを買った。そのときだ。
「……この曲……」
ふと達也の耳に懐かしい音が飛び込んできた。
それは合唱曲だった。達也はこの曲を中学三年生のころに、練習をしたことがある。どうやら合唱部がウォーミングアップのために歌っているようだった。
達也にとって、いい思い出とは言い難い記憶が蘇ってくる。
あまりこの場に長居はしたくない。そう思い、達也は再び教室に戻ろうとした。すると別方向からも音楽が聞こえてきた。
それは昨日聞いたばかりの光一が作った歌だった。窓を開けているのか、練習の音楽が外に漏れている。
今朝の光一との会話が蘇ってくる。何故、自分をそこまで熱心に誘うのか。
初めて光一と話をしたのは中学の合唱コンクールだ。
そのころには達也は既に合唱部を退部していた。
最初は適当に流そうとしていたが、しかし、真面目な達也の性格上、手を抜くことはできず、クラスメイトが音程を外しそうなときなどに率先してメロディーラインを意識させるなどのサポートに回った。
その結果、光一の目に留まったわけだが、今思うとあれだけの理由で、ここまでボーカルに誘ってくるというのは腑に落ちない。
(ま、考えても仕方ないか……どっちにしろ、やることはないんだから)
達也が教室に戻ると、きららが小型のスピーカーとスマホを片手に悪戦苦闘していた。
「あ、おかえり」
「ただいま。はいこれ。何やってるの?」
コーラを手渡しながら達也はきららに尋ねる。
「いや、なんかスピーカーの接続が悪くてさ」
そういってきららは筒状のスピーカーをぶんぶんと振る。
「貸してみて」
そう言って、達也はきららからスピーカーを受け取る。見ると接続スイッチがきちんと入っていなかった。
スイッチを入れるとカチっという音とともにビートが流れてきた。その音量に驚き、うっかりスピーカーを落としそうになる。
「おお……やはり田中君は天才だね」
「いや、気づいただけでやろうとしたら誰でもできるよ……」
「そこに気づけるってのが本当に凄いことだと思うんだよね」
きららが笑顔で言う。
「部活のこともそう。文化祭のこともそう。今のこともそう。全部そう。ぜーんぶ田中君が気づいてくれたから始められたんだよ。本当に感謝してる」
「……いいよ、お礼なんて」
きららの真剣な眼差しになんといえばわからなくなる。
達也はその感謝を受け入れられずにいた。
確かに気づいたのは自分かもしれない。でもその行動を起こしているのは全てきららだ。自分は何もできずにただ流されるままここにいるだけという意識がどうしても拭えない。もしお今、きららが辞めるといったら、なんの後腐れもなく、バッサリと辞めることが出来てしまうだろう。昨日今日、韻を考えたりするのはとても楽しかった。でもそれも今だけだと思う。このままやらなくなれば綺麗さっぱり忘れてしまえるんだろう。
かつてあれだけ好きだった歌うことを辞めることができたように。
◇
「お兄ちゃん、なんかあったの?」
夕飯を食べ終わり、食器を片付けている最中、翔子に声をかけられた。自分では全く自覚していなかったが、どうやら何か思いつめた表情をしていたらしい。
「なんでもないよ」
そう言って達也は翔子の頭をポンと叩いた。
翔子は「何かあったら言ってね」と言い残し、自室に戻っていった。自分の妹ながら、よく気が回ると思う。
あの後、ランダム再生をしたビートに合わせ、何度もフリースタイルバトルを行った。達也もきららも、相手をディスるわけではなく、自分の考えを主張し合う形で行ったが、そこで達也は壁にぶち当たった。
自分の意見を人に言うことが達也は根本的に苦手なのだ。
きららとバトルをしていても、語彙力は圧倒的に達也の方が多いのに、いつも言葉に詰まってしまう。
言いたいことがないわけではない。ただそれを発言する前にどうしても頭でワンクッション置いてしまう。人間社会においての当然の忖度であり、それはいわば普通といえることだが、達也の場合、その度合いが非常に大きかった。
性格上、自分の発言で相手がどう思うか、不快にさせてしまわないかをどうしても考えてしまう。一瞬一秒が勝負のフリースタイルバトルにおいてそれは致命的だった。
自分でこのことを分析し、きららに相談すると、
「考えすぎてしまうことは個性だよ! だからそれは田中くんの良さ! もっと練習してその工程を早くすればいいんだよ。だって、無遠慮に相手を傷付けるのはフリースタイルバトルじゃない。それはただの悪口。フリースタイルバトルはね。自分の考える正義の主張と、相手の個性の許容だと思ってる。だからその個性を捨てる必要は絶対にない」といってくれた。
正直嬉しかった。相手の気持ちを慮るばかりで何も言えなくなってしまい、その結果、大切だったものを捨て去ってきた自分を肯定してくれたように感じた。
そんなきららに対して、自分の過去にあったことを話してしまいたい気持ちになった。だけどやはりブレーキがかかる。それを話して、きららに気を使わせることになるのは避けたい。
今、自分にできること。それはきららのためにフリースタイルを練習し、上手くなることだ。きららのパートナーとして、恥ずかしくない実力を備えることだ。そのためにずっと頭の中で韻を踏んでいる。ただやりすぎて、食事中にテレビから聞こえる単語についてもすべて考えてしまっていたため、翔子に心配されてしまった。もっと切替ができるようにならなければいけない。そう思いながら、達也はスッとイヤホンを装着する。スマホを操作し、頭の中に直接流れてくるようなビートに乗せ、自分の主張を吐き出す。
家族への感謝、学校の授業、友達の大事さ、最近読んだ本、様々な事柄をビートに乗せていく。勿論、まだ全然上手にはできない。しかし、たまに自分の主張と、ビートと韻がバシッとはまる瞬間があった。その瞬間の気持ちよさは形容しがたいものがあった。
「この瞬間をもっと増やさないと……」
そのために思考錯誤を重ねていく。達也はラップに夢中になっていた。
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