七つの鉄槌 3

明日出木琴堂

第三打 道徳無き商業

 しいひめる。

歌って踊れる天才的なアイドル。

ボクが手塩に掛けて育て上げた彼を日本のテレビジョンで見ない日はなくなった。

彼のスマイル《笑顔》。彼のシング《歌声》。彼のダンス《踊り》。彼の全てが日本中の若い女性を熱狂させる。

彼の着る物がファッションを生み、彼の好きな物がブームを起こす。彼は日本中の若い女性をとりこにする。

彼こそ今世紀最大のアイドル。その彼を見つけ出し、育て上げたボクこそが「エクセレントプロデューサー」という言葉が似つかわしい、河北宏夢ことヒロ河北だ。


 でも、残念なことに、彼はボクの元から黙って居なくなった。病院のベッドで術後の痛みに耐えながら横になるボクの元から…。

ここから直ぐにでも抜け出して彼を探しに行きたい…。

だが、現実はそうはいかない…。


 




 本当に、椎ひめるとの出会いはショッキングでラッキーな出来事だったよ。

あれはまだボクが東京でタレントエージェンシー《芸能プロダクション》ヒーローズを設立したばかりの頃。インタープリター《通訳》の仕事と二足の草鞋わらじでやっていた1962年。

タレントエージェンシー《芸能プロダクション》ヒーローズは全く軌道に乗っておらず、当時、副業でやっていたインタープリター《通訳》で日々をしのいでいた。


 あの時も2年後に開催される東京オリンピックのために来日したアメリカ合衆国からの視察団に付き添い、有明海に面した長崎県の島原半島を彼らと巡っていたんだ。

アメリカ合衆国からの視察団は東京オリンピックの各会場の見学をさっさと終えると、残りの日程を日本観光に費やすことに切り替えたんだ。


 ボクは1930年にアメリカ合衆国で生まれた純粋たる日本人。

サンフランシスコ講和条約の発効でGHQが廃止された1952年、この年にボクはアメリカ合衆国の軍事援助顧問団現、在日米軍の事務職員の一人として来日したんだ。東京の米国大使館に約10年間、働いていたんだ。

タレントエージェンシー《芸能プロダクション》ヒーローズの設立を機にアメリカ合衆国の軍事援助顧問団現、在日米軍の仕事は辞めたんだけど、この縁で折に触れてインタープリター《通訳》として呼ばれる事も多かったんだ。


 後の、椎ひめると巡り会う奇跡の日、ボクはアメリカ合衆国からの視察団を「水の都」と呼ばれる島原市を案内していたんだ。

雲仙山渓の伏流水島原湧水郡や武家屋敷跡を、この地に全く似合わない白人の団体がカメラ片手にうろついていたんだ。

そんな最中、路地で遊ぶ数人の子供たちを見つけたんだ。

皆、よれよれの煮しめたような色のランニングシャツにブカブカのショートパンツ姿で…。

子供たちは皆、10歳ぐらいだろうか…。その中にひと際目立つ子供がいたんだ。

回りの子供たちよりも頭二つ程、背が高い。だらしない衣服から出る手足は棒のように細く、そして長い。

小さな頭に亜麻色の真っ直ぐな髪。亜麻色の長い睫毛に丸い大きな瞳。眩しい程の笑顔…。でも、どこか寂し気で…。

肌は白…、否、青白く透けるようだった。

『透明…。硝子の…、子供…。』ボクの意識は全て彼に奪われたんだ。

頭をハンマーでおもいっきり殴られたような衝撃だったんだ。雷に撃たれたように体中に電気が走ったんだ。

知らず知らずのうちに首から掛けたカメラのファインダーを覗き、ボクは震える人差し指でシャッターを一度だけ静かに押していたんだ。

しかし、この後もボクにはアテンド《付添人》の仕事が残っていて、この時はこれ以上、彼に接触する事は叶わなかったんだ。

冷静になった時、ボクは人生最大の取り返しのつかないミステイクをしたことに気がついたんだ。彼に1分1秒でも接触しなかったことを心の底から後悔したんだ。


 アメリカ合衆国からの視察団の全日程が終了し、本来だったら東京へ直ぐに戻る予定だった。だけど、どうしてもあの「硝子の子供」ともう一度再会したく、島原の滞在を延ばす事にしたんだ。

タレントエージェンシー《芸能プロダクション》ヒーローズの方も気掛かりだったけど、あの子の事はもっと気掛かりだったんだ。どうしても諦めるわけにはいかなかったんだ。


 ボクは戦後7年を経て、アメリカ合衆国の軍事援助顧問団現、在日米軍の事務職員の一人として日本の地を踏んだ。だけど、日本の復興は遅々として進んでなかったんだ。それに日本国民には、全然余裕が感じられなかったんだ。

終戦から7年経った国民の目は力無く、死んだ魚の目みたいだったんだ。

「日々を必死に生き抜いている。」というよりは「疲れ果て意志もなく力なく流されている。」という雰囲気だったんだ。


 当時、老若男女問わず楽しめる娯楽といえば映画ぐらいだったけど、それを楽しめるのも色々な面で余裕のある人々だけだったんだ。

しかし、僕が来日した翌年の2月、画期的な発明品がこの日本人の沈滞した雰囲気を打ち破る事になったんだ。

それがテレビジョン。

アメリカ合衆国では1939年にテレビジョンの放送が始まった。

アメリカ合衆国でテレビジョンの一般家庭への普及が始まるのが1950年代なのに、1940年代にはドラマやアニメーションといった番組も、もう放送されていたんだ。

日本では1953年2月1日にNHKが初めてテレビ放送を開始。同年8月には日本テレビが民間放送初のテレビ放送を開始したんだ。

でも、高価なテレビジョンを所有出来る日本人は少なかったんだ。実際にテレビジョンを見れる日本人なんて一握りしかいなかったんだ。

だから街頭にテレビジョンが設置されたんだ。

街頭のテレビジョンは1953年には、渋谷駅、品川駅など55箇所、220台のテレビジョンが往来のそこかしこに設置されたんだ。

新橋駅前の広場には、2台の街頭テレビジョン目当てに1万2000人が集まるほどだったんだ。

誰でもフリー《無料》で見れる街頭のテレビジョンには黒山の人だかり。娯楽を欲していた人々は街頭のテレビジョンに群がったんだ。

ボクはこの時、この光景を見て、テレビジョンの将来性を認識したんだ。

『これからの時代はテレビジョンだ。将来的にはテレビジョンが一家に一台の時代が到来する…。テレビジョンで人々を笑顔にするんだ…。』

ボクはテレビジョンにビジネスチャンスを見出した。しかし、この時は、それが分かったところで何をどうすればビジネスになるのか皆目見当はついていなかったんだ。


 放送開始当時の日本のテレビジョンの出演者は、米軍基地やキャバレーで歌っていた歌手やバックバンドと言った水商売上がり。落語家や漫才師と言った寄席芸人。勧善懲悪をテーマに日本人が外国人レスラーに勝利する筋書きのプロレスラー。

いわゆる、興行師が手配するやくざの息のかかった演者たちばかりだったんだ。

当時でも、金と時間に余裕があれば見る事が出来た興行や余興をテレビジョンという最先端機器に映し出していただけだった。

テレビジョンのためのプロフェッショナルとして出演する演者は一人も居なかったんだ。

その点で十数年先を走っていたアメリカ合衆国のテレビジョンは参考になったんだ。

特に、ボクは、民衆をブラウン管の前に釘付けにするエンターテイメントの分野には興味がそそられたんだ。

ボクはアメリカ合衆国軍事援助顧問団現、在日米軍の事務職員として大使館で働きながらエンターテイメントについて熱心に学んだんだ。


 しかし、時間が経てば経つ程、アメリカ合衆国のエンターテイメントは驚くべき速さで変化を遂げていくんだ。昨日、良いと思ったものが、今日には古臭くなっているぐらいのスピードをもって…。

ボクは長らく悩んでいた「いったいどんなエンターテイメントを打ち出せばいいのか?」と…。

そんな時に何気なく入った映画館で出会ってしまったんだ。まるで天啓を受けたようだった。

その作品はボクにショックを与えると同時に、ボクがやるべきことを教えてくれたんだ。

その作品が【ウエストサイドストーリー】1961年のハリウッド映画。

テレビジョンの箱の中にこれを繰り広げる。

歌って、踊って、お芝居も出来る…、少年たち。


 それからのボクはあちこちを探し回り、伝手つてを当り、どうにかこうにか数名の青年をスカウトしたんだ。

本当のボクの希望は、12歳から15歳ぐらいまでの少年だったんだけど、その年齢の子を持つ保護者の方々は誰一人としてボクの申し出に承諾してくれなかったんだ。

海のものかも、山のものかも分からない者に大事な子供たちを託せるわけがない。

だからこそ、今できることで実績を残さなければならなかったんだ。

なのですぐさまスカウトした彼らに歌や踊りのレッスンを受けさせ、並行してテレビ局に売り込みに行ったんだ。

最初の頃はテレビ局に売り込みに行っても、けんもほろろに門前払い…。

でも、それを3ヶ月も続けてると「歌番組のバックダンサーだったら…。」という話をもらえたんだ。やっとこさ掴んだチャンス。絶対にものにしなくてはならない。良い印象を残さなければならない。


 1961年当時の歌番組は公開生放送が主流。一発本番。絶対にミステイクは許されない。指示通り完璧でなくてはならないんだ。

ボクのタレントたちの出演は、絶賛売り出し中の若手女性歌手が歌う外国曲のカバー「コーヒールンバ」のバックダンサー。

踊りの振り付けは徹底的に叩き込んである。リハーサルも何の問題も無かった。失敗なんて万に一つも考えられない。

ただ…、テレビ局側から言われた通りにしていれば、ボクのタレントたちはテレビジョンを見ている人々の記憶に残るのだろうか…?ボクには何か懸念が残ったんだ。

メインはあくまで若手女性歌手。ボクのタレントたちは用意された衣装を身に纏いバックで踊るだけ…。

ビッグチャンスだけど、何故かボクは釈然としなかったんだ。

だからボクはギャンブルに出たんだ。


 1961年当時のテレビジョンは白黒。色彩は一切無い。歌手もダンサーも華やかさを出すために、衣装は大体が白。この日の衣装も、若手女性歌手は白のワンピースに白のサンダル。ボクのタレントたち用には、白のシャツに白のズボン。白の靴にとても大きなツバの麦わら帽子。背景は白黒で描かれた椰子の木。

多分、テレビジョンに見ている人々からは、ボクのタレントたちは、白い人間が動いている程度の記憶しか残らないだろう…。


 だから本番寸前にボクは強行に出たんだ。

ズボンは裾を折り、ショートパンツぐらいに極端に短くしたんだ。

シャツは袖を捲り上げ、前の釦は閉めずに裾を前で結んだんだ。

衣装から出る肌は靴墨を塗り真っ黒に。大きなツバの麦わら帽子はやめて、髪も撫でつけず無造作のボサボサ。

これで本番に臨ませた…。テレビ局側には何も相談することなく…。


 本番終了後、テレビ局側から火が出る程、こっぴどく怒られた。

「二度とこの局には来るな。」と、言われたんだ。

ボクはギャンブルに大失敗したと思った。チャンスを活かせなかったと後悔した。

しかし、ボクの消沈やテレビ局の意に反して、この放送への問い合わせが殺到したんだ。

「あのダンサーたちはどこの者なのだ?」

「彼らはいったい何者なんだ?」

「日本人なのか?外国人なのか?」

テレビ局に寄せられた全て問い合わせは、ボクのタレントたちに興味と好意をもってのものだったんだ。クレームなんて一件も無かったんだ。

これがきっかけでボクのタレントたちはテレビジョンに頻繁に出れるようになった。視聴者がボクらを後押ししてくれた。ボクのギャンブルは大成功したんだ。

これを機に1962年、ボクはタレントエージェンシー《芸能プロダクション》ヒーローズ事務所を興したんだ。

テレビジョンに頻繁に出演できることで彼らのマーケットでの認知度も上がった。

そこで、彼らをグループとして、会社名をとって「ヒーローズ」と名付けて売り出したんだ。

直ぐにテレビ局にファンレターが送られて来るようになった。何もかもが順調だった。

ただ、ヒーローズにはメインを張れる【華】が無かったんだ。

いつもメインの後ろ。ヒーローズが主役では無かったんだ。いくら売り出しても、プロモーションをかけても、人気は出たけど、主役は無理…。

こんな状況にボクは行き詰まっていたんだ。


 そんな中、ボクは理想の人と奇跡的に出会ってしまったんだ。その奇跡を生かせなかった事に心底、後悔した…。

だから、島原での滞在を延期させて絶対に彼を探し出す事にしたんだ。

初めは、彼を見つけた場所でジッと待ったんだ。日が落ちるまで待った。でも、空振りに終わった。そんなに簡単に見つかるとは思っていなかったけど、それを現実に体験してしまうと、逃した魚の大きさを再認識せざるを得なかったんだ。

二日目も同じ結果だった。喉元から苦い何かが湧き上がってくる。奥歯を割れるほど噛み締めてしまう。

ところが、三日目に初めて会った同じ場所で、初めて会った時と同じ格好をした彼に再会出来たんだ。彼を見つけた瞬間、ボクの全身には鳥肌が…。ボクの全身の毛が逆立ったんだ。あまりの興奮に一気に頭に血がのぼり気を失いそうになったんだ。

ボクは自分自身の幸運に歓喜した。体中から力が抜けた。

ボクは自分自身の強運に感激した。その場に立っているのが精一杯だった。


 ボクは力の入らない体でおずおずと彼に近づき、お菓子を渡して会話の糸口を作ろうとしたんだ。すると…。

「おじさん。なんか用?」と、彼はボクを見ることも無く、瞬時に覚ったんだ。小さな声だったけど、とても高く、澄んでいた。まるで小鳥のさえずりのようだったんだ。

「驚かせたなら、ごめん。君と話がしたかったんだ。」ボクはこの時、どんな顔をしていたんだろう…。歓喜、感激、感動、慎重、不安、恐怖、…、色々な感情が入り交じり、とても理知的、理性的な対応はできなかった。こんな情動は生まれて初めてだったんだ。

「おれと?なんで?」彼はあらぬ方向を向いたまま答える。小さな声なのにはっきり聞こえる。彼の声はとても聞き取りやすかった。

「ボクは東京でテレビ局の仕事をしているんだけど、君をテレビに出したくってさ…。」ボクの思考は破綻したままだった。伝えたい事だけを端的に口に出すのがやっとだったんだ。

「おれがテレビ?なんかの間違い?」下を向いたままの返事…。彼は全然興味無いという感じだった。

「いや。本気なんだよ。君、ご両親は?」とにかく『彼が欲しい。』というボクの感情が事を強引に進めようとする。ボクは無意識に焦っていたんだ。

「そんなもん、いねぇ…。」彼は初めてボクに顔を向け淡々と返した。その顔はなぜか口角が上がっていた。背筋にゾッとするものを覚えた。しかし、彼の顔は美しかった。『大天使ミハエルはこんな顔をしていたのかも知れない…。』なんて、思わせるほどに…。

「それは、どういうことかな?」

「おれ、捨て子だから。」彼はその事実に何も動じていない感じだった。

「じゃあ…、どこかの施設で…。」

「近所の孤児院だよ。」

「そうだったんだね。君、年は?」

「8か、9か、10か、11か、12…。」しっかりとした教育は受けられていないようだった。

「名前は?」

「田中太郎。」申請書や申込書の記入例で見かけるような名前…。多分、孤児院でつけられた記号としてだけの名前なのだろう。

「太郎くん。良かったらボクを君の居る孤児院に連れて行ってくれないかい…。」

「ああ。いいよ。」

田中太郎と名乗る彼は、外見を別にすれば、ただのぶっきらぼうな可愛げのないガキ…。どこかやさぐれた…。どこか投げやりで…。どこか斜に構えた…。ろくな人間に育ちそうもない…。なのに、ボクは彼を嫌いになれなかったんだ。それどころか、どんどん好意を抱いていたんだ。






 彼が世話になっているという孤児院は彼が言った通り、この場所からは子供の足でも5分足らずで着く所にあったんだ。

ただ、周囲を高い建物に囲まれるようにひっそりと建っていたので、ひと目ではここに孤児院があるなんて分からない。


 四方を背の高い建物に囲まれ、建物と建物の隙間のような狭い路地を進む。路地を抜けると四方を高い建物に囲まれ、中庭のようになった荒れ地にぽつんと木造の古びた収容所のような平屋建ての建物が現れる。

近づいていくと、その建物の粗がはっきりと分かった。

壁板は所々無く、窓ガラスは割れたり、ひびが入ったものばかりだったんだ。人が住める状態じゃない。まさに廃屋だ。

「田中さん~。田中さん~。お客さん~。」田中太郎くんが廃屋の外から口に手をかざし声をかける。

すると中から様々な年齢の子供が十数人、口々に同じことを叫びながら飛び出して来たんだ。

「だれ~?だれ~?」

『こんなとこに…、こんなに沢山…、子供がいるなんて…。』ボクはこの時かなり面食らったんだ。

しんがりにゆっくりとした足取りの白髪頭を団子にまとめた老婆が出て来たんだ。

「どなた様?何か用でも?」威圧的な声。怪訝そうな態度。

「は、はじめまして。ボクは東京からやって来た河北広夢と言います。」思わずひるんでしまった。

「東京の方が何のご用事で?」相変わらず高圧的な姿勢。

「田中太郎くんの事でご相談が…。」ボクは沢山の子供たちの前なので話を濁した。

「そうですか。では、中へ。お前たち、暫く遊んでおいで。」少し態度が軟化した。

老婆は子供たちに向かいそう言うと、ボクを廃屋の中へ招き入れたんだ。

老婆の言葉を聞いた田中太郎くん以外の子供たちは、あっという間もないうちに、蜘蛛の子を散らすように霧散したんだ。


 廃屋の中はやはり廃屋でしかなかった。

回りの背の高い建物のせいか日当たりは悪く、黴臭い。

玄関を入った直ぐのところに応接室があった。けど、不思議な事に応接室は信じられないほど清潔できれいに保たれていたんだ。ソファーにもテーブルにも埃一つ落ちていない。

「太郎、お茶汲んできな。」老婆が彼に命令する。

田中太郎くんは、黙って素直に老婆の指示に従っていた。

「それで、話とは?」田中太郎くんがこの場を離れるや否や、老婆は唐突に本題へ入ったんだ。

「太郎くんはあなたのお子さんなのでしょうか?」

「違いますよ。奴は捨て子ですよ。」

「名字が同じでしたので…。」

「名無しの捨て子はみんな私の姓をつけてます。考えるのが面倒なもので。それで…。」

「そうでしたか。私は太郎くんの里親になりたく思いまして…。」

「そうかい。…。じゃあ、30万で。」

「えっ?それでは人身売買じゃ…。」

「人聞きの悪い…。太郎を育てるにも金はかかっている。」

「ええ。その通りです。」

「30万は善意の寄付だよ。残った子たちを育てるための。」

「寄付ですか…。」

「この程度のはした金であの子を自由にできるんだ。安いもんだろ。」

「そ、そうですね。」とても嫌な言い方をする老婆だ…。

「じゃあ、この金額で…。」

「は、はい…。」

「どうすんだい?いるのかい?いらないのかい?」

「わ、分かりました。お支払いします。」

「あっそ。じゃあ、さっさと払ってさっさと連れていきな。」全て老婆の言う通りにした。

ボクはあっと言う間に田中太郎くんの親になる事になったんだ。





 東京に戻り、養子縁組などの面倒な手続きは知り合いの弁護士にお願いした。

これで晴れてボクは田中太郎くんと正式な家族になった。

家族になったからには、住む場所がいる。ボクはヒーローズ事務所の事も踏まえ、神宮前に住まいと芸能事務所とタレント寮となる古い小さなビルディングを借りたんだ。

これで、仕事も家族もスターの卵たちも、ひと所で賄える。

これに田中太郎…、否や、河北太郎は、何も言うことなくボクのやることを応援してくれたんだ。身内からの応援は心から嬉しかった。勇気をもらえたよ。

太郎はこうも言った。

「お父さんって、呼べばいいの?」

「太郎、それはノーだよ。ヒロって、呼んでほしいな。」

「分かった。ヒロ。」この言葉を聞いてボクは天にも昇る心地良さだったんだ。

この神宮前で、ヒーローズ事務所の新しい門出を新しい家族と迎えることができたんだ。





 ボクは近い将来、ヒーローズ事務所を背負しょって立つ看板スターとなる太郎に歌、踊り、芝居のレッスンを徹底的に受けさせたんだ。それに学校にもしっかりと通わせたんだ。

テレビジョンに出て他人を喜ばせようとする人間は馬鹿では務まらない。

一瞬で場面の切り替わるテレビジョンの世界、頭の回転が速くなければならないんだ。

人並み以上の機転が要求される。だから、学業は絶対に疎かにはさせない。

太郎はボクの過大な期待と過剰な要望に対して、嫌な顔ひとつせず日々、取り組んでくれたんだ。そんな太郎にボクができることは、弁当を作ったり、身の回りの世話をするぐらいしかなかった。

でも、太郎はそんな事すらも喜んでくれていた。我が子ながら、本当に天使のような子…。


太郎はレッスンの飲み込みも早い。メキメキ上達するんだ。

その上、何をやってもピカイチ。親の欲目じゃないけれど、ヒーローズ事務所を背負うスターとして、とても心強い、頼もしい限り。


 そんな生活を3年程送りながらボクは太郎の華々しいデビューを画策してたんだ。

太郎はグングンと身長も伸び、出会った頃の険しさも消え、ボクの理想とする少年へとすくすくと育っていたんだ。

そんな折、ニューヨークに住む知人から「ジェローム・ロビンズがスクールを開く。ブロードウェイで本場のミュージカルの勉強をしてみないか?」と、打診を受けたんだ。

ジェローム・ロビンズはミュージカル【ウエストサイドストーリー】を制作した中心人物の一人。ボクの目指すエンターテイメント創り上げた人。ボクにとってはまだ見ぬ師匠のような存在。気持ち的には今すぐにでも受講したい。

こんなチャンスは二度とは無い。しかし…、受講期間は4〜5ヶ月かかるという話だった。

『ボクには太郎がいる。ヒーローズ事務所もある。ボクのタレントたちもいる。長期間、留守にはできない…。でも、叶うなら…。』このときのボクの心の中は、相反する葛藤が埋め尽くしていた。

ボクはスクールの始まる寸前まで悩みに悩んだ。その末、それでもなおヒーローズ事務所の将来のヴィジョンを考え、渡米することに決めたんだ。

この時点でヒーローズ事務所のタレントたちのスケジュールは半年先まで埋まっている。

ボクが留守の間、太郎の世話はヒーローズ事務所のスタッフや先輩タレントたちに頼んでおいた。皆は二つ返事で了解してくれたが、何故だかボクにはそれが心許なかったんだ。

でも、それらを確認した上で、僕は長い旅路についたんだ。


 ブロードウエイでのスクールは楽しかった。毎日学ぶことが新しい発見の連続だった。一日があっという間だった。どれもこれもボクの血となり肉となった。

でも、太郎ことが心配だった。一日たりとも彼を忘れることはなかったんだ。

だから、本来ならば5ヶ月かかるカリキュラムを4ヶ月で習得して大急ぎで帰国したんだ。





 ボクの予感は的中していたんだ。

ブロードウエイでの勉強を終え、日本にいる誰にも言わず取り急ぎ日本へ帰ったが、自宅に太郎はいなかったんだ。今日、帰国する予定である事を誰にも連絡していなかったのは確かだけど、太郎が不在だった事には面食らったんだ。胃が痛くなった。

それで慌ててヒーローズ事務所へ行ってみたんだ。事務所は、スタッフもタレントたちも「てんてこ舞い」って、状態だったんだ。

ボクのいない間に、ヒーローズ事務所はテレビ局から、引く手あまたの芸能事務所になってたんだ。タレントたちも大忙しで、手が回らないぐらいになってたんだ。

どうにかヒーローズ事務所のスタッフやタレントたちをつかまえて太郎の居場所を聞いて回ると、一様に「えっ?!太郎くん、いませんか?」って、返事しか返ってこなかったんだ。

彼らが言うには「たまに見かけないことはあったが、ヒーローズ事務所にもちょこちょこ顔は出していた。」ということだったんだ。

皆の話で少し安心して、太郎の帰りを待っていたのだけれど、この日、ボクは太郎を見ることはなかったんだ。

日本に帰ったばかりでも、ボクには長期間留守にしていたヒーローズ事務所の仕事のツケが山積みだったんだ。帰国したその日からボクは仕事に復帰したんだ。

だから、太郎だけに気を配っているわけにはいかなかったんだ。


 ヒーローズ事務所が少し落ち着くまでに3日も要してしまうことになってしまったんだ。

その間、ボクは太郎と顔を合わすこともなかったんだ。自宅には帰っている形跡があった。ボクと太郎はずっとすれ違いだったんだ…。胃の痛みも治まらなかった。


 太郎に会えないモヤモヤを抱えながらも、ヒーローズ事務所の仕事は押し寄せてくる。仕事に忙殺されている最中、ボクのタレントの一人から太郎に関する情報が耳に入ったんだ。「三光町現在の新宿のディスコ【チェック】で太郎を見た。」と…。

三光町現在の新宿ですか…。」益々胃が痛くなった。


 ボクのヒーローズ事務所のタレントたちは若い青少年たちである。

ボクのヒーローズ事務所は、彼らをあずかり、育成し、マネジメントし…、そして、テレビジョンを通して彼らの魅力をお茶の間に届けている。そうすると、彼らは一気に人気者になる。

彼らは若い。人生経験も未熟だ。それ故に、悪い虫が近寄ってくる。悪い誘いも多くなる。

だからこそ、ヒーローズ事務所は、タレントたちの仕事以外の時間も徹底的に管理しているんだ。

そのために、ヒーローズ事務所と同じ建物にタレントたちの寮まで完備しているんだ。

テレビジョン時代、情報の時代、スピードの時代、少しの悪評判でも命取りになるんだから…。


 ボクはアメリカ大使館時代の伝手を使って太郎の素行調査をしてもらったんだ。

調査報告はあっという間にボクの耳に入った。流石はアメリカ大使館…。

それによると、太郎は、三光町現在の新宿に根城を置くフーテン族【紀伊国屋グループ】に所属して遊び歩くようになったんだって。三光町現在の新宿のディスコ【チェック】に入り浸り、酒、タバコ、喧嘩、シンナー、…等々に、明け暮れているんだって。

それを聞いたボクは、太郎はデビュー前の大事な時期、波風が立たないように、人知れず連れ戻さなければならないと、思ったんだ。

真面まともな話し合いなんかではでは解決しないだろう…。非合法な手を使う必要が…。」日本に帰ってから、本当に胃が痛いことばかりだ。


 ボクは水面下で日本という国を牛耳っている神戸の「××組」の傘下の東京××組へ太郎の奪還をお願いしたんだ。

1952年、ボクがアメリカ大使館の事務職員として働き始めた頃、闇市を取り仕切っていた彼らとはいい意味でよく一緒に仕事をしていたんだ。

そのおかげで、物事を頼める人脈もできたんだ。今回の太郎の件は彼らに一任した。彼らなら水面下でスムーズに問題を解決してくれるから。

案の定、彼らはあっという間に、ボクの問題を解決してくれた。ボクがブロードウエイから日本に戻ってたった10日で太郎は何事もなかったかのようにボクの元へ戻ってきたんだ。


 ボクは太郎に何も言うことはなかったんだ。ボクの元にさえ戻ってきてくれれば…。

太郎は一言「ヒロ、ごめんなさい。寂しかったんだ。」とだけ、言い置いたんだ。

この言葉だけでボクは水に流せたんだ。ボクの胃の痛みも治まった。






 もう、太郎を置いてどこにも行かない。太郎だけに尽力する。

だからこそ、太郎のデビューを急いだんだ。

今現在のヒーローズ事務所の力では「華々しく」とはいかなかったけど、どうにかテレビジョン出演にねじ込むことはできた。


 1966年、年明け早々に河北太郎こと芸名「椎ひめる」がデビューしたんだ。

ドタバタお笑い番組の新人の歌手紹介のワンコーナーで…。

この瞬間、ボクの息子の河北太郎は生まれ変わって椎ひめるというアイドルとして世の中に生まれ出たんだ。

番組内のたった5分程のコーナーだったけど、椎ひめるは視聴者の記憶に刻まれたんだ。


 持ち前の透き通るような真っ白な肌。8.5等身で180センチを越える長身に長い手足。今夏、来日予定の欧米で大人気のアイドルバンド【ビートルズ】を真似た亜麻色のおかっぱ頭。亜麻色の長い睫毛に大きな目、鼻筋の通った小さな鼻、ピンク色の薄い唇、男性なのか、女性なのか、よく分からない中性的な顔立ちに澄んだ高い声。今までの日本人の概念を覆す日本人アイドルの出現。本当にセンセーショナルだった。

ボクの見る目に間違いはなかった。

ほんの少しの出演にも関わらず、椎ひめるに対するテレビ局への問い合わせは尋常ではなかった。

違うテレビ局からボクへの問い合わせも尋常ではなかった。

この日、一瞬にして椎ひめるのスケジュールは半年先まで埋まったんだ。

この瞬間椎ひめるはヒーローズ事務所の看板スターになったんだ。


 この頃のアメリカ合衆国のヤングアイドルは健康的な肉体派が受けていた。イギリスを中心とした欧州では、ビートルズ、ローリングストーンズと言ったアイドルバンドが、主流だったんだ。

だからボクは、椎ひめるを売り出す戦略として、アメリカ合衆国と欧州の中道を狙ったんだ。

見た目は知的で中性的。しかし、歌唱しながらバク転やバク宙をする。

一見、ひ弱でおとなしそうに見える男の子が、曲が始まるとアクロバティックな激しい振り付けで歌う。

ジッとしていれば女の子、動き出したら男の子。この戦略は見事にハマったんだ。

椎ひめるは日本中の若い女性の心をすぐさま鷲掴みにしたんだ。


 




 そしてこの2年、ボクと椎ひめるは、寝る時間も惜しんで働いたんだ。

それが認められてか、歌唱においては年末の賞レースであらゆる賞を総ナメ。このおかげか、歌番組だけじゃなく、テレビドラマのゲスト出演依頼や映画出演のオファーまでも来るようになったんだ。

椎ひめるという商品は、ヒーローズ事務所にはなくてはならない存在に成長したんだ。

しかし、こういう調子の良い時ほど、思いもよらない失敗をする…。

椎ひめるが交通事故を起こしたんだ。椎ひめるは運転免許証を持っていなかったんだ。いわゆる、無免許運転だったんだ。


 遊ぶ時間も、寝る時間も無かった、椎ひめる。

まだ、未成年でこれといった欲求のはけ口を持っていなかった、椎ひめる。

少しずつ不満を蓄積していたんだと思うんだ。

椎ひめるぐらいの年齢の青年たちが欲求を解消するために夜通し遊び惚けている時間、河北太郎は「椎ひめる」を演じ、「椎ひめる」を維持し、「椎ひめる」を高めるためだけに費やしていたんだ。

椎ひめるは、ファンの期待を、ヒーローズ事務所の期待を、そして、このボクの期待を裏切らないために努力を積み重ねていたんだ。

椎ひめるの年代の男の子たちが一番興味を抱く、女、セックス、酒、タバコ、バイク、…、そして、車。

椎ひめるもやっぱりハイティーンの男の子。車に興味があったみたいなんだ。

ボクに対して事あるごとに「車の免許が欲しい。」と、こぼしていた。

でも、ボクはそれに同意はできなかったんだ。なぜかというと、免許を持ってしまったら椎ひめるはどこかに行ってしまうんじゃないかという不安を抱いていたからなんだ。そう思っただけで胃がキリキリと痛んだんだ。椎ひめるをボクの手元に置いておきたかったんだ。


 でも、ボクのこの考えは裏目に出たんだ。

ボクの目の届かないところで椎ひめるはヒーローズ事務所の運転免許証を持っている先輩タレントから車の運転を教わっていたんだ。こっそりとヒーローズ事務所の社用車を持ち出し先輩タレント同乗の上で運転の練習していたそうなんだ。

少しずつ運転に自信を持ち始めた、椎ひめる。そしてとうとう、まだ陽も上がらぬ早朝に勝手に社用車を持ち出し、一人で運転してしまう。

結果、ほんの少し車を走らせただけで、何かに衝突することとなる。

車も動かなくなり、何に衝突したのか確認する、椎ひめる。そこで目にしたのは、車の前に血だらけで倒れている乞食。

椎ひめるは慌てて自宅に駆け戻りボクを叩き起こしたんだ。動揺している椎ひめるにボクはビンタを食らわし、何があったか強引に聞き出した。

『一刻の猶予も無い…。』話を聞いた上でボクが一番最初に持った感想。胃がねじ切れそうだった。

ボクの決断は早かった。すぐさま電話する。早朝というのに、電話の相手は直ぐに出た。ボクはマシンガンのようにヒステリックに起きた事を話した。

イメージ的には不摂生な生活を送っているように思いがちだが、電話の相手はいつもと変わらぬように「分かりました。」と、低い声で一言だけボクに伝えると通話を切った。


 仕事開始時間に階下にあるヒーローズ事務所に椎ひめるを連れ立って行ってみる。

事務所内ではいつもと同じようにスタッフたちが仕事を始めていた。何の混乱も起きてない。椎ひめるが持ち出した社用車もちゃんと駐車場に収まっている。少し前がへこんではいたが…。

椎ひめるは担当マネージャーに連れられて仕事現場に向かった。ヒーローズ事務所に向かう前にボクは「忘れなさい。あれは悪い夢。お前を待ってるたくさんの人がいるんだから。」と、椎ひめるに声を掛けておいた。

河北太郎は、いつもと同じ「椎ひめる」をしっかりと演じていた。

椎ひめるを送り出した後も、ボクはしばらくの間、ヒーローズ事務所に居残った。事故が発覚していないか気が気ではなかったんだ。その間、胃はずっとシクシクしてた。

そんなボクをスタッフたちは怪訝そうな眼差しで見るんだ。なぜかと言うと、ボクは重要な用件でもない限り、ヒーローズ事務所にいることは滅多にないからさ。ましてやジッとして自分のデスクに座っていることもないんだ。

通常ならば、ヒーローズ事務所のタレントたちの誰かに付き添って必ず現場に同行する。

現場で起きている変化を敏感にキャッチしておかないと用済みになってしまうからなんだ。

テレビ局の下請け会社のような立場のタレントエージェンシー《芸能プロダクション》なんてテレビ局の要望に対応できなければお払い箱。それに、テレビ局の人事にも目を光らせておかなければならないんだ。

それほどテレビ業界は生き馬の目を抜く速さで変化し続けているんだ。


 そんなことを考えていると…。

「リリリリーン。リリリリーン。」ボクのデスクの電話が鳴った。心臓が止まるほどに驚いた。胃がこれまでになく痛み出した。

『事故の件が発覚したんじゃ…。』

受話器を取ろうとしている指先が震えている。受話器を取るべきか取らざるべきか、決めかねている…。胃が痛い…。

呼び鈴が5回鳴ったところで、思いきって受話器を取った。

「も、もしもし…。」

「東京××組の△△です。」電話の相手方が分かり、溜息をこぼしそうになるほど安堵した。

「ヒロ河北です。」

「ご要望通り、始末致しましたので、そのご報告でございます。」

「ご足労おかけいたしました。いつも通り、お振込みさせて頂きます。」

「ありがとうございます。それではまた、何か御座いましたら…。」と言うと、電話は切られた。

この連絡をもって、ボクは胸をなでおろすことができた。胃の痛みも治まった。今朝の件は夢と消えたんだ。





 何事もなかったかのように慌ただしい日々にボクも椎ひめるも謀殺されていた。しかし、この状態が本来のボクらにとっての日常だった。そう、ボクらはいつもと変わらぬ日々を送っていた。

あれから2年という月日が過ぎたが、2年前のあのことが露呈することはなかったんだ。

でも、それもつかの間。有名になると思いもよらないところから邪魔が入る。

そして、今度はボクの落ち度から始まったんだ。


 それは1970年の春。ヒーローズ事務所のボク宛てにA 4サイズの茶封筒が送られてきたんだ。

差出人は「富士見樹里」と、明記されていた。

不審に感じながらも開封したんだ。すると封筒の中からは数枚の写真と、新聞広告が入っていたんだ。新聞広告の裏には何かが書かれていたんだ。

ボクはその写真を見た瞬間に息を吞んだ。胃が締め付けられるように痛み出した。悪い予感しかない。

一旦、目をつぶり、息を整えて新聞広告の裏に書かれてあった内容を読んだんだ。

そこには「○月○日午前10時、富士見樹里の名前でヒーローズ事務所に電話します。必ず出て。」と、鉛筆で書かれていた。





 「ヒロ。富士見樹里さんと言われる方からお電話がかかってきてます。」と、約束の○月○日午前10時1分前にヒーローズ事務所のスタッフに声をかけられた。

ボクのデスクに電話を回してもらい、躊躇ためらいながらも受話器を取った。緊張からか胃が痛い。

「もしもし。ヒロ河北です。」

「富士見樹里です。」若い女性の声だった。電話から外の喧騒が聞こえる…。公衆電話のようだ…。

「ご用件は何でしょう?」

「写真はご覧になって下さいました?」

「ええ。」

「あれを買って頂きたいんです。」

「脅迫ですか?」

「いえ。単なる売買です。」

「もし、お取引をお断りしたら?」

「違う所に買っていただくまでです。」

「ネガも売って下さるんですよね。」

「もちろんです。私は強請ゆすりじゃありません。」

「おいくらですか?」

「××××万円で。」大金だった。でも、用意できない額ではない。

「分かりました。」

この後の話し合いで、ボクは富士見樹里と受け渡し日時と場所を決め電話を切ったんだ。

電話を切った直後、デスクのもう一つの電話であの番号にダイヤルしたんだ。



 


 頼み事をしたことを忘れてしまうほどの日時が過ぎた頃に、ボクのデスクの二つの電話の一つが鳴った。ボクは何事もなく受話器を取る。何故なら、この電話は新設したボクだけへの直通電話。そして、この電話の番号を知る者は奴しかいないからだ。

「もしもし。」

「東京××組の△△です。ご連絡が遅くなりましたが、先日の件、万事、方が付きましたので。」

「いつもありがとうございます。お代はあの金で大丈夫でしょうか?」

「結構です。」

「ところで、女は…、消したのでしょうか?」

「滅相もない。調教を済ませ、二度と悪さができないように、神戸の大親分のお知り合いの所に預けております。」

「何から何までありがとうございます。」

「それで、こちらからもヒロさんにお願いがございまして。」

「何でしょうか?」

「神戸の大親分のお知り合いという方は、女で商売をされておりまして。」

「はい。」

「それでヒロさんとお取引ができないものかと、おっしゃっておりまして。」この男が敬語を使う相手、間違いなくただ者じゃない。

「分かりました。それでボクはどうすれば?」

「ご足労おかけいたしますが、一度、神戸の方へ足を運んで頂きたいと思います。」

「はい。」

「準備は全てこちらで手配致します。ヒロさんのお時間の良い時をお教えください。」

「分かりました。」

この電話から5日後、ボクは神戸市の新開地というところにいた。





 神戸市新開地。来街者の多い街。沿岸部に重工業が建ち並ぶ男臭い街。

その新開地の大通りから一本入った路地裏にある派手な桃色の三階建てのピンク映画館。この映画館を目印に一丁目離れたビルディング。『トルコ…、風呂…。』それが指定された待ち合わせ場所だったんだ。『何故にこんなとこで…。』胃がむかむかする。

ボクは暫しビルディングの入口前で入ることを躊躇していたんだ。すると自動ドアが音もなく開き、ビルディングの中から黒いスーツを着た清潔そうな長身の若い男が出て来たんだ。

すると「河北様ですね。オーナーがお待ちです。」と言うと、ボクの目の前できれいに頭を下げ、ボクの手を取り中へ誘ったんだ。この瞬間、ボクの胃のむかむかは消し飛んだんだ。

ボクは驚きと興奮と心地良さに包まれながらオーナールームまで案内されたんだ。


 ビルの最上階ワンフロアがオーナールームだった。

最上階のエントランスフロアには毛足の長い漆黒の絨毯が敷き詰められていたんだ。

歩いても足音ひとつしない。

オーナールームのドアに着くまで、黒いスーツ若い男はずっとボクの手を握りしめていてくれたんだ。おかげでボクは落ち着いて商談ができそうだった。

彼はボクの手を離すと、オーナールームの漆黒のドアを優しく優雅にノックしたんだ。

「オーナー。河北様がお越しになられました。」

「入ってもらって下さい。」

彼は漆黒のドアの黄金色に輝くドアノブにポケットチーフを当て、回した。

漆黒のドアは音も無く滑るように手前に開いたんだ。開いた中も真っ黒だったんだ。光が無いために真っ黒なのではなく、床も壁も調度品も全て真っ黒だったんだ。その真っ黒の空間の中に、胸に赤い薔薇を刺した真っ白なスーツ姿の人間が佇んでいたんだ。この絵画のような強烈なコントラストにボクは魅了されてしまったんだ。


 「河北さん。本日はわざわざ遠方までお越しくださり、誠にありがとうございます。初めまして。船場美津彦と申します。」ボクの目の前…、否、数メートル離れたところに立っている真っ白な人間が優雅に頭を下げ、右手を差し出してきた。

彼の発する声はこんなにも離れているにも関わらず、ボクの耳元で囁かれいているかのようにはっきりと聞き取れたんだ。

彼のその行為にボクは忠犬のように小走りに近づき、彼の差し出した右手を握っていたんだ。

「初めまして。ヒロ河北です。」

『これが、新開地の夜の帝王と呼ばれている船場美津彦なんだぁ…。』遠くに見た船場美津彦は、多分、ボクと同い年ぐらいだと思っていた。しかし、近づいて見ると…、間違いなく同い年ぐらいなのだが、何か若々しさみなぎっていたんだ。お互いに四十路を迎えているはずなのに…、彼の顔は青年…、否、少年のように見えたんだ。


 彼はボクに真っ黒なソファーを勧めた。ボクらはそこに座し、旧知の中の如く、話を弾ませた。

彼がボクに持ち掛けてきた話はこういうことだった。


 ヒーローズ事務所は男性タレントでビジネスを行っている会社。

それ故に、悪い虫(女)もつきやすい。

その中には毒を持った虫(女)もいるでしょう。

そんなお困りの折は、今後も遠慮なく、東京××組にご連絡下さい。

その際の手間賃は、全額、私共が東京××組にお支払いさせて頂きます。

私の会社は女を商品としてビジネスを行っております。

ただ現状、需要に対して慢性的な商品(女)不足は否めません。

ですので、河北さんのところから出た優良な商品(女)を東京××組に支払う手数料で買い取らせていただこうかと思いまして…。


 ボクにとっては願ったりかなったりの話だった。

ヒーローズ事務所のタレントたちには、ろくでもない誘惑が絶え間ないんだ。おかげでいつも胃が痛い。

玉の輿狙いもいれば、他事務所から引き抜きのためのハニートラップもある。その上、スキャンダルを作り上げて強請る美人局まで存在している。

事実、これらの対処に頭を悩ませていたんだ。

いくら所属のタレントたちを管理していても、どんどん所帯の大きくなっていくヒーローズ事務所のスピードに、タレントたちの管理はついていけなくなっていたんだ。

そのスピードに相まって良からぬ虫(女)たちも増殖していたんだ。それをロハ《無料》で駆除できる。ボクにとって、ヒーローズ事務所にとって、こんなメリットしかない話は他にない。大歓迎だ。

この日、ボクは船場美津彦氏の有意義な申し出を快く了承してこの場を去ったんだ。





 それから数年、ヒーローズ事務所は拡大に拡大を続けた。悪い虫はどんどん駆逐してもらった。おかげで、変なスキャンダルも悪い噂も立たない優良企業に成長していった。そして、本来であればそれに掛けなければいけなかった金で、テレビ局の人間どもを手懐けていったんだ。どのテレビ局もヒーローズ事務所の意向には逆らうことは無くなったんだ。

この間も椎ひめるの人気は微動だにしなかった。他事務も椎ひめるのバッタもんのような新人タレントをデビューさせていったけど、本物の椎ひめるの魅力には敵わなかったんだ。

ボクはこの機に、第二、第三の「椎ひめる」生み出すために日本中を駆けずり回っていた。そんな時に椎ひめるの記事が週刊誌に出たんだ。


 ” 椎ひめる結婚秒読みか? お相手はアイドル歌手のAN!! ”


 寝耳に水だった。久しぶりに胃が痛くなった。

ボクは出先から椎ひめるに電話し、事実かどうか問いただしたんだ。

受話器の向こうの椎ひめるはボクの質疑に対しては何も言わなかった。

ただ、

「ヒロ。おれもう、25だぜ。」とだけ言って、一方的に電話を切ったんだ。





 『…それがなんなの?』ボクには椎ひめるの言葉が分からなかった。否、分かる気がなかった。

『25才になったから所帯を持ちたいってこと?』

『いい大人なんだから身を固めたいってこと?』

『いつまでも歌って踊ってなんてやってられないってこと?』

馬鹿じゃないの。ここまでの育ててもらったボクへの恩をこういう形で返すわけ。

ボクの憤りは怒髪冠を衝いた。胃が燃えるように痛んだ。

ボクは迷うことなくあそこに電話した。






 二週間後の週刊誌の見出しに

” アイドル歌手AN失踪!!! 芸能界引退!!! ”の文字が踊っていた。


 記事はこうなっていた。

書き置きを残しアイドル歌手ANが行方をくらませた。

書き置きには…、


 私の軽率な行動でファンの皆さんを勘違いさせました。

人気絶頂の椎ひめるさんには多大なご迷惑をかけました。

自分の愚かさを省みて、芸能界から引退することを決意しました。

二度と皆さんの前に現れることはないので、どうぞ許してください。


 と言った内容が綴られていた。と、自筆の書き置きの写真付きで掲載されていた。


 これを読んだボクはつかえが取れた。わだかまりがスッキリした。

体の火照りが静まった。何も心配が無くなった刹那、ボクは口から大量の血を噴き出していた…。そして、倒れた…。


 気がついた時には、ボクは見知らぬ場所の見知らぬベッドの上だった。ボクは緊急入院していたんだ。

担当医師の診断では心労と過労から倒れたのだろうと、言う話をされた。

念のため、検査入院を勧められ、それに従うことにしたんだ。

椎ひめるをデビューさせてから忙しく動き回っていたのは事実だった。ここらで骨休みでも、ぐらいの気分で検査入院することにしたのだが、そんな気楽なものでは終わらなかったんだ。

検査の結果、ボクの十二指腸に末期の癌が見つかったんだ。

担当医師は、早期の手術で、十二指腸を全て摘出。癌の他臓器への転移を防ぐのが得策、という判断だったんだ。

それでも癌が再発しないという保証はできないということだったんだ。

ボクに残された道は二つ。このままジッと癌に全身を蝕まれて死ぬか、手術を受けて可能性にかけるか…。

この時のボクに悩む思考なんてなかった。何もかも手にしていっているボクが病魔ごときに負けるはずがない。ボクはボクの思いのまま、道を切り開いてきたんだ。誰かに願ったり、頼ったりしたことはないんだ。だからおのずと結論は出ている。ボクは手術を受けた。


 手術は成功した。ボクはボクの思い通りに進んでまた、道を切り開いたんだ。

手術自体は長時間を要し、出血も大量だったらしい。

術後の体力回復と癌の経過観察のためにボクは長期の入院を余儀なくされた。

新たなステージに立つためにも、新しいステップに昇るためにも、今は療養に専念することが得策だと考えたんだ。

それは、ボクが術後に目を覚ましてから毎日毎日見舞いに来て甲斐甲斐しく世話してくれるヒーローズ事務所のスタッフたちやタレントたちを見て思ったんだ。

「こんなことで終われない。皆が待っている。」って…。

ただ、椎ひめるだけが来てくれてないことが心に引っかかってはいたんだ…。





 ボクの心の引っかりは、的中した。

慌てた様子で面会に来たヒーローズ事務所のスタッフが言ったんだ。

「椎ひめるがいなくなった。」と…。


 ボクは心のどこかで、こんな事が起こるんじゃないかと思っていたんだろうな。

ヒーローズ事務所のスタッフの話を聞いても慌てることはなかった。

スタッフに今後の指示を出し、退室させた後、病室の電話からいつもの番号にかけた。そして伝えた。「椎ひめるを探し出してくれ。」と…。


 椎ひめるは体調不良という事にして、今入っている仕事のスケジュールを全てキャンセルさせた。

週刊誌には「椎ひめるは重病で海外の医療機関で長期入院する。」と、嘘の情報をリークした。

この間に彼らのネットワークを使って椎ひめるを捕らえてもらうつもりだった。

しかし、どれだけ時間が進んでも、ボクが退院した後も「椎ひめる発見。」の一報はボクの元にやってはこなかった。

国内だけではなく、彼らの顔が効く海外まで手を伸ばしてもらったが椎ひめるは見つからなかった。

椎ひめるはボクの前から忽然と消えた。


 椎ひめるを失ったヒーローズ事務所の経営は傾き始めた。看板スターがいなくなったタレントエージェンシー《芸能事務所》なんてなんの魅了も持たないのは周知の事実。

ボクは椎ひめるに代わる新しいアイドルの売り出しに注力したんだ。

80年代、何人、何組かのアイドルを売り出したがスマッシュヒットしかできなかったんだ。

90年代、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるの例え通り、山ほどのタレントを送り出したんだ。これが功を奏したんだ。

今まで、ツンとすましたアイドルを打ち出してきたが、コメディもできる二枚目アイドルを展開したんだ。

これが時代のニーズに見事にマッチしたんだ。僕の手腕が冴えわたった。

ヒーローズ事務所は息を吹き返したんだ。また芸能界の頂点へ返り咲いたんだ。

今、椎ひめるが居たとしても「あの人は今。」で取り上げられるのがオチだろう。


 




 ボクはボクの信念の勝利に浸っていた。この成功はボクをテレビ業界に君臨させる決定打になったんだ。

そんな至福の時、ヒーローズ事務所に見知らぬ番号からの一本の電話が入ったんだ。

「ヒロ。警察から電話ですが…。」

「ん…。回して。」なんだろ?「もしもし。」

「こちら長崎県の島原警察と申します。河北広夢さんですか?」

「は、はい。河北ですが…。」

「河北太郎様はご存知でしょうか?」

一瞬、言われた名前が分からなかった。

「は、はい。存じております。」

「そうですか。お気を確かにお聞き下さい。」

この言葉を聞いて嫌な予感しかしなかった。

「河北太郎様が御遺体で見つかりました。」

ボクの思った通りだった…。


 島原警察からの電話は「先日、島原市のアパートで身元不明の人物の御遺体が発見された。アパートの借り主名義は河北太郎。」というところから始まった。

「死亡原因に関しては事件性は無く、自然死である。」とのことだった。

「家宅捜査で河北太郎の遺品からヒーローズ事務所代表の河北広夢名義の名刺が出てきた。それで確認のため電話を入れた。」ということだった。

ボクが河北太郎を知ることを知った警察は「本人確認をしてもらいたい。」と言ってきた。

ボクに断る理由はない。ましてや、ボクは太郎の親なのだから…。

直に島原に向かうと伝え電話を切った。





 30年ぶりに訪れた島原はすっかり様変わりしていた。

戦後の爪痕は四半世紀以上の時間を経て、見つけ出すことが困難なほどに消されていた。

ボクは島原警察から指定された病院の霊安室で太郎と再会した。

無精髭でやせ細った軀には「椎ひめる」だった頃の面影は全く残っていなかった。

耳にはピアス…。胸には刺青…。腕には注射痕…。太郎は「椎ひめる」を辞めた後、どんな人生を送ったのだろうか…。

ただ、昔と変わらぬ亜麻色の髪だけが、彼が河北太郎であり「椎ひめる」であったことを物語っていた。


 ボクは霊安室に横たわる遺体がボクの息子の河北太郎だと確認をすると、早急にボク一人だけの簡易な葬儀を行い、早々に火葬を済ませた。

太郎が住んでいたアパートは、管理会社に連絡し、ボクの全額負担で遺品整理をお願いした。

河北太郎の確認の際に、立ち会った警察官から一通の封筒を渡された。河北太郎の遺留品だと言う。ボクは何事もなかったかのようにそれをジャケットの内ポケットにしまい込んだ。





 怒涛のごとく太郎の後始末を済ませたボクは、太郎の遺骨の入った骨壷を携えて島原市中をあてもなく彷徨さまよっていた。

島原の風景を見せることが太郎への手向たむけになると思ったからだった。

意味もなく目的もなく、ただただ歩いた。市中は大きく変わっていたが、30年前の微かな記憶に残る場所もあった。

30年前の記憶を知らず知らずのうちに辿っていたのか、ボクは太郎と初めて会話した辺りに来ていた。

その場所にはあの頃の風景はもう無い。その場所は鉄パイプの足場が組まれ、何かが建設中のようだった。


 ここでボクは、先ほど警察官から渡された太郎の遺留品の封筒のことを思い出した。それをジャケットの内ポケットから出した。何の変哲もない白い郵便封筒。警察官から受け取った時にはきれいな状態だったが、ボクが無造作にジャケットの内ポケットに突っ込んだものだから、折れやしわがついてしまった。

その郵便封筒の表には「ヒロへ」とボールペンで書かれた太郎の筆跡が…。

封を切る。青い中封筒を開き中身を取り出す。中には新聞広告を切って作ったメモ用紙一枚。

そこに「ヒロ、涅槃で待ってるよ。」の文字…。


 それを見た瞬間、ボクの目は色彩を失った。建物も車も人も、全てが色彩を失った。

そして、動かなくなっていた。ボクの体も動かない。目だけは動かせるけど、体は動かない。

その限られた視界の中に誰かが入ってきたんだ。

そしてそれをボクは認識した。

『田中…。太郎…。』

それは30年前のこの場所で出会ったあの硝子の子供だった。あの時の姿形、格好のままだった。

彼は前までやってきて、そしてボクに対峙した。ボクは視線を下げる。目が合ったその時、田中太郎は話し始めた。

「嫌だったんだよ。」

『えっ?』言葉は出なかった。

「ヒロ。嫌だったよ。」

『なにが?』頭の中で問うしかなかった。

「ヒロはおれの親になってくれた。」

『…。』

「でも…。嫌だったんだ。」

『…。』

「おれたちは家族になって東京に住むことになったよね。」彼はボクの目を睨み付けて話を続けた。

始めのうちはおれたちの住む家が決まってなくて、二人してホテルに泊まってたよね。

東京に行って2日目。ヒロはこう言ったんだ。

「ホテルの部屋でささやかな家族になったお祝いをしよう。」って…。

あの日、ヒロは夕食に豪華なルームサービスを取ってくれた。おれの見たこともないきれいな洋食だった。

料理は食べ切れないほど部屋に運ばれてきた。

おれは食べたことのない美味しい料理をお腹いっぱい食べた。満足だった。幸せだった。

満腹と慣れない土地への不安とで、おれはさっさと寝ちゃったよね。

柔らかく温かいベッドはおれを直に、深い眠りに誘った。

でも、安らかな時間は直ぐに遮断された…。


 何かが、おれの尻に触れていた。耳元に酒臭い熱い息がかかる。その熱い息の主は直ぐに分かったよ、さっきまで一緒に食事してたヒロだって。

ヒロはおれの浴衣はたくし上げ、おれのパンツをずらした。

ヒロの熱を帯びた大きな手が、おれの尻を撫でる。

怖かった。ヒロに何をされるのか分からなかった。

ヒロの太い指が、おれの尻の割れ目に沿って動く。おれの尻の穴をまさぐる。

おれの尻の穴にヒロはその太い指を入れようとする。

おれは思わず体に力が入った。

すると、おれの尻の穴に入れようとしていた大きな手は離れ、耳元の熱い息も消え去った。

おれは安堵した。

でも、それはつかの間のことだったんだ。

またおれの耳元にヒロの熱い息が帰ってきた。それは、さっきより熱さを増していた。


 無意識に自分を守ろうとしているのか、おれの体に力が入る。

ガチガチに力の入ったおれの尻。その尻の割れ目にさっきの太い指が当たる。

おれの尻は痙攣するほど力が入っているのに、太い指は滑るように軽々と割れ目に差し込まれた。おれの尻の穴を探している。

そして尻の穴を見つけ出すと、ゆっくりと尻の穴に入ろうとする。

おれはさっきよりも尻に力を入れる。入るわけがない。…。

やすやすとおれの尻の穴にヒロの太い指が入ってきたんだ。びっくりした。ヒロの指はどんどんおれの尻の穴に入っていく。

『なんでこんな簡単に入ってくるんだ?!』太いヌルヌルと指は滑るようにおれの尻の穴へと入っていく。

尻を動かして指を抜こうともしても、指は入ってくる。

ヒロはおれが嫌がっていることを分かっているはずなのに、おれの尻の穴に太い指を無理矢理に差し込む。


 どうにかして指を振り払いたい、おれ。

お構いなしに太い指を差し込む、ヒロ。

そんな攻防を長い時間やった。でも、おれの体力は費えた。単純に疲れたんだ。

そうなると、もうヒロの太い指は遠慮がなかった。

おれの尻の穴にヒロの太い指を入れたり出したりを繰り返していた。

何をされているのか、この時のおれには全く分からなかった。

おれは力無く、ヒロの太い指がすることに身を任せるしかなかった。


 すると、太い指は2本に増えて、おれの尻の穴を広げようとし出した。

尻の穴が痛かった。でも、言葉に出せない。怖かったんだ。抗う力も残っていない。

2本の太い指は容赦無くおれの尻の穴を広げ、容赦無くおれの尻の穴に入ろうとする。

『無理だよ。無理だよ。』いくら思っても、いくら願っても、抗えない。

『痛い痛い。痛いよ。無理だよ。やめてよ。なにするんだよ。』いくら心が抵抗しても2本の指は言うことを聞き入れてはくれない。

ヒロの太い2本の指は、おれの尻の穴に無理矢理入ってきた。

おれの尻の穴はミシミシと音を立てて裂けていく。

『ヒロ、許してよ。なんでそんなことするんだよ。』

痛さで涙が溢れる。痛さで嗚咽がもれる。でも、ヒロの2本の太い指は容赦無く尻の中に入っていく。そしてヒロは容赦無く2本の太い指を出し入れする。

尻の穴の裂けた痛さで体中から冷や汗が吹き出す。

何をされているのか全然理解できない。ただただ恐怖でしかなかった。身を固めて通り過ぎるのを待つしかできなかった。

『やめてよ。やめてよ。もう、やめてよ。』


 どれくらい続いただろう。急にヒロの2本の太い指はおれの尻の穴から抜かれた。

体の強張りがとれた。体中の力が抜けた。ボロボロと涙をこぼしていた。ダラダラと全身が脂汗を流していた。尻の肉が痙攣する。

しかしそれもつかの間のこと…。

おれの尻の割れ目をこじ開けながら滑るように進む太く固い何かが、おれの尻の穴を探していた。

そして求めていたものを探し出すと、穴をこじ開けて入ろうとする。

さっきの指2本より数段太い何かが、無理矢理におれの尻の穴を広げ滑るように進入しようとしている。

『いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。やめて。』

おれの願いなんてはなから聞く耳を持たないそいつは、おれの尻の穴を滑り込むようにこじ開けた。

「ぎゃあぁぁぁぁぁ。」大声が出た。

ブチブチとおれの尻の穴は一気に裂けた。それでもそいつは尻の穴の中に入ろうとする。おれの尻の中の裂けたことをものともせずに…。

どんどん入ろうとする。お腹がそいつに圧迫される。そいつの熱さがはらわたに伝わる。

まだ入ろうとする。どんどん入ろうとする。どこまで入れば気がすむんだ。

するとそいつは進入を止めた。尻の穴の回りが焼けるような熱を持っていた。ネトネトとした熱い液体が裂けたおれの尻の穴から吹き出しているのが分かる。

わけのわからない異物の侵入ではらわたが痛んた。そいつは止まったまま、おれの尻の穴を突き立てたまま、動かなくなった。そいつはジッとしていても脈を打ちながらどんどん膨張しているように感じた。

はらわたがパンパンになる。はらわたが熱い。苦しい…。


 と…。

急にそいつはゆっくりと動き出した。汽車が動き出すように。おれの尻の穴を出し入れし始めた。

おれの尻の穴の裂けた傷が、長く熱く硬いそいつに擦られて、おれの脳天に激痛を伝える。

脳みそも、目ん玉も、耳も、鼻も、頭のあちこちが痛い。激痛で顔面が爆発しそうだった。

なのにそいつは出し入れするスピードを上げていく。汽車がスピードを上げていくように。

あまりに擦られて過ぎて、尻の穴の裂けた傷の痛みは感じ無くなった。代わりにおれの尻の穴の焼けるような熱さ、そこから溢れ出す粘々ねばねばの血潮の気持ち悪さを嫌でも認識してしまう。

高速で擦られるはらわたが気持ち悪い。晩飯を戻しそうだ…。

腹が刺すように痛い。内臓中が痛い。体は動かないのに、体の分けのわからない部分に力が入る。擦られる振動で脳みそが揺れる。気持ち悪い。いったいいつまで続くんだ。もうやめてくれよ。


 いったいどれだけそうされていたかは分からないけど、急にそいつは動きを止めた。

ゆっくりとおれの尻の穴から出ていこうとしている。

「終わりか…。」

と、思った瞬間、今までよりも力強く、今までよりも尻の穴の深い部分を突き刺し止まった。大砲の弾を撃ち込まれたみたいだ…。

おれは尻の穴から突っ込まれた棒が口から出てくるような印象を感じた。貫かれたような感覚とともにおれは気を失った。


 どれくらい気を失っていたのかは定かではない。シャワーの音で目を覚ました。

体中が粘々ねばねばしていた。体を動かそうとすると尻に激痛が走った。また気を失いそうになる。

風呂場のドアが開く。風呂場からヒロが出て来た。腰にホテルの白いバスタオルを巻いただけのヒロはベッドのおれに近づくと「今は寝てればいいよ。」と、声を掛けて、おれの髪を掻き上げた。その瞬間、背中に悪寒が走った。全身に鳥肌が立った。


 おれは、おれに起こった事に皆目見当がつかなかった。

おれは、おれがどうなっているのか確認することにした。

仰向けで動かない体を無理矢理捻じり横に向いた。

少し体を曲げて足元を確認する。別段変わりない。

視線をどんどん上げていく。変わりばえない。

しかし、視線に入った捲くれ上がった浴衣。それは変わっていた。

白地に紺の柄の入った浴衣はどす黒い赤に染まっていた。

「おれ、死ぬんじゃ…。」

怖くて怖くて、泣いた。泣いて泣いて、泣き疲れた。知らない間にまた寝ていた。


 次、目が覚めた時、部屋には燦々とお日様の光が降り注いでいた。。自分がどれだけ寝ていたのか分かった。ヒロは部屋にはいなかった。おれは動かない体を無理矢理ベッドから引き剥がし、ゆるゆると風呂場へ向かう。

床に食器が散乱していた。『晩飯の…。マーガリンの入ってた…。』

とにかく歩き辛い。尻の穴に何かが挟まっているみたいだ。粘々ねばねばとヌルヌルとガビガビの体が気持ち悪い。洗い流したい。

温かいシャワーは気持ちを落ち着かせた。体についた粘々ねばねばとヌルヌルを温かいお湯が洗い落としてくれる。重い気持ちも洗い流してくれる。

下半身に固まりこびりついた乾いた血を流そうとシャワーノズルを自分の尻に当てた。

脳天に先の尖った鉄の櫛を突き刺されたような衝撃が走る。目の前が真っ暗になる。おれはその場にへたり込んだ。


 気がつくとおれは裸のままベッドに寝ていた。シーツもカバーも糊の効いた新しいものに変わっていた。そばでヒロがテレビを見てる。おれは起きずに寝たふりをしてその場を過ごした。


 あの日、おれはヒロに何をされたのか分からないまま日常を送っていた。

ヒロはおれとの住まいだと言って大きなビルにおれを連れていった。

一階から二階はヒロの会社にするらしい。最上階がおれたちの家。おれ専用の部屋もあった。それ以外の階は寮にするとか…。

ヒロは言う「ここでスターの卵の子供たちと一緒に住んで、一人前に育て上げる。スター誕生さ。」

『ここに子供たちを住ますのか…。』

ヒロのやっていることは島原の田中の婆さんと何ら変わらないんじゃないか?

ヒロが「どうだい?」と、おれに聞くが、おれは賛同するしかなかった。


 それから直に、おれの学生生活とレッスンが始まった。学校は楽しかった。勉強も楽しかった。歌や踊りのレッスンも楽しかった。どれもこれもおれには初体験で面白いことばかりだった。

学校とレッスンが終わるとヒロと晩飯を食べ、寝る。

晩飯にマーガリンが添えられていると、ヒロはおれにホテルでやった行為をする。

人間の体というものは不思議なもので、あれほど、苦痛で激痛だった行為が、暫くすると何ともなくなる。それにおれの体も成長することでいろいろとサイズも大きくなったようだよ。


 



 ボクの下目線にあった太郎の目が、ボクの真正面の位置に変った。子供の太郎が少年に成長したのだ。少年の太郎は話を続けた。






 そんな生活を随分続けたある日、ヒロがアメリカで勉強してくると言ってきた。

「おとなしく待ってられるか?」と、おれに聞く。おれは感情を気取られないように「大丈夫。」と、返事した。

ヒロのいない生活は天国だった。

ヒロの事務所の人たちやタレントたちには監視されているみたいだけれど、それを度外視しても最高にハッピーな毎日だった。

そのうち家から少し遠出をするようになった。色々な街を彷徨さまよい歩いていた。

そこで声を掛けてきた人たちと仲良くなった。良い事も悪い事も教えてくれた。最高に面白い人たちだった。


 しかし、楽しい時はあっという間…。

ヒロが日本に帰ってきた。

おれはできるだけ顔を合わせないようにヒロの時間を見計らって行動した。おれの大事な時間をヒロに奪われたくはなかったからだ。

ヒロも日本に帰って来た瞬間から仕事が忙しいようで、ラッキーなことに家にもあまり帰ってこなかった。

だから楽しい人たちの楽しい場所に入り浸っていた。

しかし10日ほどした時、彼らが「帰れ。」と、おれに言う。「もうここには二度と来るな。」と、おれに言う。

行くあてもなく、しょうがなく、おれは神宮前の家に戻った。するとヒロが待っていた。


 その夜、ヒロはおれに例の行為をした。しながら、「寂しかったんだろ?寂しかったんだろ?」と何度も問いただしてきた。

ヒロはおれの尻の穴に入れていたイチモツを引き抜くとおれの顔の前にそれを持ってきた。

湯気の立つ怒張したイチモツは脈打ちながらおれの鼻の前で上下に動いていた。

イチモツに塗られたマーガリンの臭いと、おれの肛門の臭いが相まって何とも言えない臭いを発していた。

その気色悪いイチモツをおれの唇に強く押し当てながら「寂しかったんだろ?寂しかったんだろ?」を繰り返す、ヒロ。

おれは嘘でも返事をすればいいんだと思い「うん。」と、口を開くとヒロの気色悪いイチモツはおれの口に入ってしまった。その瞬間、ヒロの態度は急変した。優しくなった。いつものヒロに戻った。

おれは喉が焼けるほどの胃酸をヒロのイチモツにぶちまけた。






 ボクと同じ目の位置だった太郎の背がどんどん伸びていく。上目遣いで見ないと太郎の顔が見えない。この太郎はデビューした頃の太郎だ。彼は下目線でボクの目を見ながら話を続けた。






 デビューしたおれは、ヒロの気持ちを逆撫でしないようにヒロの望む生活を送っていた。そうしながら逃げるチャンスをうかがっていた。

ある日、事務所の先輩タレントが車の運転免許を取ったことを自慢げに吹聴していた。

おれは「これだ。」と思った。

おれはヒロに抱かれる度に「運転免許を取りたい。」と甘えてみた。

しかし、おれの真意に気づいているのか、ヒロは返事をはぐらかす。

だから、運転免許を取った事務所の先輩タレントに頭を下げて自動車の運転を教えてもらった。

先輩タレントが「ちょっと買い物行ってくる。」などと嘘の口実で事務所の車を借りてくれた。

ヒロに覚られないように気をつけた。

10回ほど、運転の練習をした。そして、時を見計らっておれは日の上がらぬうちに作戦を決行した。

しかしおれの作戦は数十メートルほど走って終わる。おれは人を轢いてしまったのだ。

パニックに陥ったおれはヒロに全てを打ち明けた。ヒロに頼るしかなかった。ヒロはおれの話を聞き終わると「部屋にいろ。」と、おれに言って電話を掛けに行った。


 出社前、ヒロはおれの部屋へ来ると「今日もいつも通りに動け。何も考えるな。何も無かったから。」と言い、一緒に事務所に出向き、いつものようにおれは仕事に向かった。

これ以後、この件に対する話はヒロから出ることは無かった。

そして、ヒロがおれを抱くことも無くなった。





 ヒロがアメリカに留学している間に仲良くなった人たちの中に、おれをとても可愛がってくれたお姉さんがいた。名前を富士見樹里という。樹里さんは何でも相談に乗ってくれた。何でも悩みを聞いてくれた。

おれはどうしてもヒロのおれにする行為のことが知りたくって樹里さんに聞いたことがある。

その時樹里さんは「太郎、他人にはそのことは相談しちゃ駄目だから。絶対に誰にも口にするな。」と、きつく言われた。だから樹里さんの言い付け通り、おれはこの件に関して誰にも話すことはなかった。

仲良くなった人たちに「ここには二度と来るな。」と、言われた時、樹里さんはおれに「太郎、いつかかたきは取るから。」って、耳打ちされた。

何のかたきなのかは分からなかったけど、なぜか嬉しかった。

でも、その樹里さんもある日を境に失踪したんだ。






 おれが売れれば売れるほど、事務所はデカくなった。ヒーローズ事務所に入所を希望する少年たちも増えた。ヒーローズ事務所への入所は親も応援するほどだった。特に母親たちが…。

おれを抱かなくなったヒロは「年齢と共におとなしくなったんだ。」と、おれは勝手に思い込んでいた。

しかしそれは、おれの人生経験の未熟さが間違わせた判断だった。

ヒロはそんな玉じゃなかった。

有名になったヒーローズ事務所にはたくさんのタレント希望の少年たちが集まった。その子たちを「スターにしてあげる。」と言って、ヒロは毒牙にかけていたのだ。

おれは失望した。おれの父親の変態さに。

それからのおれは事あるごとに現場マネージャーにヒロに対する不満をぶつけていた。

そんな時、おれに近づいてくる者がいた。ヒーローズ事務所とライバル関係にあるAプロダクションの社長。彼はおれに話を持ち掛けてきた。「ヒロ北河にひと泡吹かせてみないか。」と…。


 彼の話はこうだった。

ヒロ北河の知らぬところで椎ひめるの結婚話をぶち上げる。ヒロ河北は相当ショックを受けるはずだ。椎ひめるのイライラも少しは解消されるはずだ。

懇意にしている出版社とうちの所属女性タレントを使ってちょっとしたいたずらを仕掛けないか?と、言った内容だった。

おれは、今のヒロに一矢でも報いれるのならと、話に乗った。

しかし、結果は、協力してくれた女性タレントは行方をくらませ、Aプロダクション社長も失脚。出版社は謝罪記事を載せる破目に…。

そしてヒロは、なぜか心労、疲労から入院。

だからヒロの入院中のこのチャンスにおれは姿を消した。おれの人気のせいで何も知らない子供たちが変態親父の餌食にならないように姿を消した。

ヒロをこんな化け物にしたのはおれのせいかも知れない。

今のヒロを創り上げたのはおれかも知れない。

だからヒロ。涅槃で待ってるよ。






 ゆっくりと空に昇って行く太郎。

ボクはその太郎を目で追う。

ボクは目で追った。動かない顔を渾身の力で上に向けた。

どんどん太郎は昇っていく。どんどん小さくなっていく。

太郎が青い空に溶け込んだ瞬間…。

青空にキラッと光る物が…。

刹那、目の前の色が戻った。

「あぶ…。」遠くで声が…。


 次の瞬間、ボクの目の前に丸い影…。

それは凄い力でボクにぶち当たる。

グシャ、バキバキ、グシャ、バキバキバキバキ、グシャ、ドン。

「キャアァァァァァァ…。」耳をつんざく女の悲鳴…。



 



 今日お昼過ぎ、長崎県島原市の建設中のビルで事故が起きました。

地上12階の高さから足場に使う鉄パイプが落下、偶然にも下にいた人の頭部から全身を貫く形で刺さる事故がありました。

被害者は東京都渋谷区神宮前にお住まいの河北広夢さん。ヒロ河北の愛称でお馴染みの芸能プロダクション、ヒーローズ事務所の代表取締役…。

頭から入った鉄パイプは全身を貫く形で刺さり、ヒロ河北さんは即死。

事故の原因は作業員がお昼ご飯で食べたサンドウィッチに塗られていたマーガリンのようで、それにより手が滑ったということです。






おわり









 



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七つの鉄槌 3 明日出木琴堂 @lucifershanmmer

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