5.湯灌と通夜


 12月30日になった。

 昨夜は20時には寝てしまい、朝まで目覚めることなく熟睡した。三時間しか寝ていないので当然ではあるが、精神が次第に復調している気がする。理由はやはり枕経だと思う。仏になった母は生前の母とは別物で、弔いは作業に過ぎない。大変だが、心を抉るような感覚はもうなかった。それとも葬儀を済ませた後、あの気持ちは再びは甦るのだろうか。


 午前中に実家に行き、葬儀屋に母のペースメーカーのことを伝える。「取り外さずに火葬すると爆発するから、絶対言ってね」と。何度も繰り返していたのを思い出す。母の遺言は、私の知る限り、これともう一つだけだった。葬儀屋によれば、斎場で問題なく外してくれるそうだ。


 その後、母が運び出されるのを見送った。

 母の部屋はぽっかりと空き、片付けたせいか無暗に明るく、広く思われた。何となく母のベッドに寝転がってみる。とくに感慨は湧かなかった。線香を焚いていたからか匂いもない。母の手縫いの枕カバーに、懐かしさを覚えたくらいだった。


 家族で葬儀社に向かい、待合室で待機する。

 私は私服で移動し、ここで喪服に着替えたが、新しく下ろしたワイシャツが半袖だった。まあ、脱がなければ問題ない。私がそう言うと、妹弟は揃って笑った。母がここにいれば「何やってんの!」と叱るに違いないと。


 本当にそうだ。何千回聞いたかわからないあの声が、容易に耳に蘇る。この歳になってなお私は「ちゃんと」出来ず、しばしば母に怒られていた。思わず笑ってしまう。私の中の母親像は、早くも美化されていたらしい。


 14時になり、湯灌の儀が始まった。

 「最後に風呂に入れる」との説明から、通夜前に遺体を綺麗にするだけかと思っていたが、ボートのような湯船に母が横たえられていて驚いた。見ている前でスタッフが入浴させ、遺族にも手伝ってもらうサービスらしい。

 母の遺体にはバスタオルが掛けられ、体を洗うスタッフも女性で、気配りが行き届いたものだった。母は死化粧され、気持ちよく眠っているかのようだ。弟が鼻をすすっているのが聞こえる。昨日まで平気そうだったが、悲しむポイントが私と違うだろうと思った。


 丁寧に髪を洗い、髭をあたった(死後も髭は伸びると聞いたことがある)後、最後に顔を拭くか尋ねられ、私以外の三人が母を囲んだ。

 私が断ったのは、今更と思ったからだ。あの日、帰宅後に触れた母の手の冷たさ。私にとっての母の最後の感触は、あれでいい。

 湯を使う母は確かに気持ちよさそうだったが、ショーのような違和感もあった。涙する妹たちに対し、ひどく冷めている自分がいた。


 母への想いが向かう先が、遺体から離れたのではと思う。例えば死者に祈る時、祈る先は複数ある、遺体、遺骨、位牌、墓、そして心の中。

 枕経を経て、私の気持ちは遺体から心に向き、心中で蘇らせた母と話すようになった。もちろん、心の中の母も入浴を喜んでいる。本当は死んだ夜に風呂を焚く約束をしていたのだから。


 風呂を焚くのは私の役目で、けれど衰弱していた母は、誰かが一緒にいないと湯船から出られないのでは、と不安がっていた。この深さの湯船なら安心だろう。手助けしてくれる子供もたくさんいる。湯灌をしてもらってよかった。最後はそう思えた。

 

 湯灌の後、服を着せられた母は、若かりし頃のように背筋が伸び、化粧もあって死ぬ前の何倍も健康そうに見えた。スーツの胸についたブローチは、妹が形見として欲しいといい、葬儀の後外すことになった。母は棺に納められ、通夜の行われるホールに運ばれた。


 夕方から始まった通夜は、兄弟三人と弟嫁で交代しながら、線香の番をすることになった。買い出しを済ませ、合宿のようなノリで、母を悼む雰囲気はもはやなかったが、二階にあるホールに足を運び、墓前で線香を足す間だけは厳粛に、残り少ない母の体との時間を惜しんだ。なんだかんだで、私も棺を覗いては話しかけた。


 家族葬ということで通夜客は少なかったが、高校時代の友人が二人、、師走の忙しい中で顔を出してくれた。

 母が元気な頃、家に来た友人は、毎回食事を振舞ってもらった。大人数で集まっていた大学時代も、母の作る大量のおにぎりは定番だった。病弱な母だが、後輩たちにはパワフルなイメージで通っていた。いずれ彼らにも伝えるつもりだが、果たしてどれだけ覚えているだろうか。

 

 母から、疎遠になった友人のことを聞かれたことが何度かある。その時は曖昧にごまかしたが、母にとっては全員が友人のままなのだろう。私はともかく、よくしてくれた母のことは覚えていて欲しい、とふと思った。


 

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