3.警察と医師
「残念ですが、お亡くなりになられています」
救急隊員に告げられても、「でしょうね」としか思わなかった。
母は死んだ。その証拠は微動だにせず、目の前に横たわっている。診察結果を並べてもらうまでもない。
だが数分前の自分には、それすら受け入れられなかったのだ。リアリストのつもりだったが、とんだお笑いだった。身近な死を前にすると、こうも狼狽えるものだと知った。
予想通り、救急車は遺体を運べず、警察にひきつぎとなった。発見当時の状況を、もう一度説明し直す。母の病名を聞かれ、答えた数と薬の多さは、警官が戸惑うくらいだった。
警察とやりとりしながら、自分の精神がひどく不安定なことに気がついた。
いい大人である私は、会話している間は社会人の分別を取り繕える。一方で心の中にはそうではない自分がいて、幼い頃のように泣きじゃくって、全てを流してしまおうと待ち構えている。目頭が熱くなるのを何度もこらえながら、私は警察の前で平然を装い続けた。「泣くのは後にしろ」と、心の子供を叱責しながら。
妹から連絡。あと一駅で実家に着くとのこと。身内がいることをありがたいと感じたのは久しぶりだった。
警察は母の部屋を家探しし、現金や通帳を掘り出しては丁寧に並べ始めた。事件性があるかの確認だろうが、こちらが強盗のようだ。扉は施錠されていたし、他殺の疑いはまずない。「病院で死ぬのでなければ検死対象になる」と読んだことを思い出した。ミステリーを書いた時に知った知識だ。
おそるおそる警官に尋ねると、不自然な点がないので、担当の医師が呼ばれ、死体検案書を書くとのこと。死亡届はそれを元に、葬儀屋に頼めば役所に届けてくれるらしい。検死に反対ではないが、やはりほっとした。
警察が調べた部屋はぐちゃぐちゃだったが、これは元からだった。あれだけ綺麗好きだった母は、晩年は体が動かず、部屋の片付けもできなくなった。物を取り出す手間が嫌で、何でも床に置きっぱなしにするので、リビングは足の踏み場もなく、テーブルは常に狭かった。理由が理由だけに私も妹も片付けはしなかったが、今思えば母自身、老いた体に忸怩たるものがあったに違いない。これほど「物差しに合わない」状況もなかっただろうから。
妹が帰宅し、警察と話し始めた。同居していたのは妹なので、物品の場所や朝の状況は任せようと黙り込んだ。揺れ動く内心をもて余し始めたのもあった。
独身のまま社会人を長く続ける妹は、母の死など気にせぬ風に歯切れよく、冗談さえ交えながら会話している。まるで悲しむ素振りがないことに苛立ちを覚えた。母の生前、至らぬ家事を手伝う場面で、妹が部屋から出てこないことは何度もあった。
近場に住む私には見えないところで苦労しているはずだと想像しながらも、見え隠れする冷淡さに、内心では「やっと解放された」と喜んでいるのでは、とすら思った。妹の会社は就職後に遠く引っ越しており、母との同居がなければ近場に住みたいと漏らしていた。
遅れて現れた弟夫婦もそうだった。
マイルドヤンキーの入った弟は場違いなほど騒がしく、状況を理解していないのかと思うほどだった。末っ子の弟を、母はとくに溺愛していたが、弟の態度は素っ気なく、数駅の距離ながら、用事がなければ実家にもほぼ寄り付かなかった。衰えによる母の苦労もろくに知らないはずだ。無神経にもほどがある。
しかし、本当はどうなのだろう。
おかしいのは私の方かもしれない。
普通の大人は、肉親の死にもこれくらい動じず、平静でいるものなのだろうか。自分が未熟で子供なだけではないか。或いは母への思い入れが違うのか。それは異常なのではないか。
がやがやと歓談する弟たちを見ながら、そんなことを考えていた。
一時間ほど後、医師が到着。簡単な診断の後、長々と説明してくれる。死因は「虚血性心不全」。これも以前に得た知識で、「死因が不明の時に付けられる病名」だったはずだ。心臓にも脳にも異常はなかったという。結局、母が死んだ理由は謎のままだった。それがいいことが悪いことかはわからないが、もやもやした気持ちはあった。
警察が撤収準備に入る。汚れた毛布やシーツは、引き取って処分してくれるとのこと。かなり便が出ていたらしい。母は便秘がひどく、下剤を飲んではトイレに苦労する毎日だった。身体も拭いてくれたそうで、頭が下がる思いだった。
死体検案書は、明日の早朝に医院まで取りに行くことになり、警察と医師は引き上げた。弟夫婦も電車があるうちに帰ると退散した。時刻は十一時過ぎだった。
二人残された妹とコーヒーを飲みながら、明日からのことを相談する。まずは朝に医院を訪問。葬儀屋に連絡。死亡が確認されると口座が凍結されるのでその対処。そもそもまず、通帳がどこにあるのか探す必要がある。年金が振り込まれているはずの通帳が、見つからず終いなのだ。
「だから終活しとけって言ってたのに」
「しゃあないやろ」
妹を宥めながら、内心では同感に思う。とはいえ年寄りに終活を勧めるのは心情的に難しかった。母の気持ち的にも、自分の気持ち的にも。
明日も早いので話は早々に切り上げ、私は実家を出た。夕食を食べていないことを思い出したが、食欲はまるでなかった。
家に帰宅後、ビールを開けた。
もう好きなだけ泣いていいんだと思い、最後の母の姿を思い出す。大人の自分が涙をこらえる。一方で、親の死に涙も見せない自分を親不孝だと責める気持ちもある。大人と子供、二つの自分が綱引きする間、勝手に垂れていく涙だけは許容した。
二本目のビールを開け床についても、眠気は一向に訪れなかった。
気持ちだけが溢れ、留まることを知らない。
私は物忘れが激しい。母のこともいずれ忘れてしまう気がする。私は馬鹿だ。なぜもっと写真や動画を撮らなかったのか。どうすれば母を残せるのか。そんなことがぐるぐると頭を回り、ますます目が冴えてくる。疲れているのに。明日も早いのに。
悩んだ末、私はキーボードに向かった。
書けば気持ちを整理できる。いつも自分で言っていたことではないか。
「眠れないから、書いてみる」。
タイトルはストレートに、何の捻りもなく。
私には、これしか能がないのだ。
写真や動画も、過去は写せない。
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