手を繋いだのは君からだった

黒本聖南

第1話

 叔母が死に、俺の息子が帰ってくることになった。写真でしか見たことのない息子は、もう十歳になるらしい。


「本当のお父さんと暮らせて嬉しいね」


 親戚の女がそう息子に話し掛けていたが、当の本人は何も反応せず、ただ無表情に、無言で、俺を見上げてくる。俺も何も言わない。何を言ったらいい。

 叔母が死んで悲しいか?

 俺と暮らすのは嫌か?


 俺のことを、どう思っている?


 どんな返答が来たら満足なんだろうな。


◆◆◆


 息子の誕生と引き換えに、妻は死んだ。

 元々身体の弱い女で、医者からも子供は諦めた方がいいと言われていた。俺自身、子供は好きではないから、夫婦二人で気長に暮らせていけたらと思っていたが、妻はそうではなかったらしい。酒をしこたま飲まされて、酔いが覚めたら事後だった、なんてことが何回もあった末に、妻は妊娠し、赤ん坊を遺して死んだ。

 妻に身内はいない。妻の葬儀は、俺の両親が先導してくれた。俺がやらなくてはいけなかったが、どうにも、身体が動かない、頭が回らない。赤ん坊の世話もろくにできず、情けないと、そんなんでどうするのかと責められたが、この先どうすればいいのかと、そんなことばかり考えて、何の反論もしなかった。


「子供のことなんだけど」


 宴の隅でぼんやりしていた時に、叔母が話し掛けてきた。

 父方の叔母は遅くに生まれ、俺と六歳しか年が変わらない。祖母が存命時、俺と叔母の間で間違いが起こらないかと心配していた、なんて話も聞いたことがあるが、さて、


「一人で育てるのが無理だったら、私にくれない?」


 これは間違いに入るのか。

 俺よりも先に結婚した叔母だが、子供はいない。ただの甥たる俺に踏み込む権利はないが、そこまで親しくはない叔母に我が子を譲る義理もない。

 普通なら。

 別に子供なんて欲しくなかった、妻がいればそれで良かった。子供を望んでいたのは妻で、その妻はもういない。


「……人間なんですよ、育てられるんですか」


 何となく敬語で訊ねれば、さもおかしそうに叔母は笑い、必ず立派なお兄さんに育て上げます、と宣言していた。

 そういえば俺の子供は息子だったなと、この時に思い出した。

 必要な手続きは主に叔母が進め、俺は言われたことをするだけ。そうして息子は叔母夫婦が育てることになり、孫を取られたと激怒した両親は、俺を勘当した。

 妻も子もいなくなった部屋は広かった。妻が用意していたベビー用品は全て叔母に渡し、部屋には妻と俺の物しかない。

 出掛ける時、帰った時、玄関に置いている妻の写真を無言で見つめる。ただ一言の挨拶は、何故だか口にできない。違う言葉が溢れそうになって、口を閉じる。

 ごめん、もしくは、どうして。

 俺は妻に、何を言いたいのか。


『一歳になりました。背負っているのは一升餅です』


 送られてきた写真の裏には、叔母の字でそう書かれていた。

 別に頼んでいないのに、息子が誕生日を迎えるたびに、叔母はそうした。

 叔母に息子を渡して以来、息子には会っていない。面会を求めれば会わせてもらえたのかは分からないが、特別会いたいわけではなかったから、何も言わなかった。送られた写真を眺めて、妻の写真に供える。毎年それの繰り返し。

 一番息子の成長を見守りたかったのは、妻だから。


「……大きくなったよな」


 返ってくる声はない。いつものことだ。

 それを何回も繰り返し、繰り返して、繰り返した末に──叔母夫婦の訃報が届く。車の事故で一緒に、だそうだ。

 息子は留守番をしていて無事だった。

 葬式は叔母の夫の親族がやることになり、今まで息子を育ててもらったからと参列した。叔母と絶縁していた両親の姿はなく、息子の姿もない。叔母夫婦の死にショックを受けて部屋から出られないでいると聞いた。それもそうだろう、両親が死んだようなもんだ。

 会場内ではざわざわと、遺された息子はどうするか、なんて話をそこかしこでしていた。確かに、どうするのかと思いながら聞き流していたら、誰かが言った。

 ──本当の父親がいるのでしょう? 育てさせればいいじゃない。

 そうだそうだ、それが自然なことなのだと、参列した親族は口々に言う。

 俺が息子の父親であることを知る人物も中にはいたようで、俺は捕まり、断る隙を与えてもらえずに連絡先を無理矢理聞き出された。

 特に強引な奴が家にまで来て、息子を引き取る為の手続きをご丁寧にも手伝ってくれて──数日後、俺は息子と暮らすことになった。


「ほらほら、お父さん。この子の名前を呼んであげてください」


 女に促されても、俺は何も言わない。違う言葉が、喉から出掛かっていた。それは十歳の子供に聞かせるような言葉じゃない。それくらいのことは分かる。

 ──俺なんて、ただの種馬ですよ。

 だからお父さんなどと、呼ばれたくはなかった。

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