第2話 引きこもり生活その1


 物心ついたときから、テラノヴァの世界は小さな家のなかと、その周辺にある果樹園、それだけで完結していた。


 4歳のテラノヴァは、師匠の膝に乗って甘えるのが仕事だと言ってもいいだろう。

 師匠のフーミューはいつも一緒にいてくれた。暑い季節も寒い季節も離れずに、テラノヴァに愛を注いでくれた。

 愛と一緒に、魔法の知識を教えてくれた。知識を知れば知るほど、自由になる。そう語ってくれる声は優しかった。5歳になると本格的な勉強が始まった。


 甘えるだけだったテラノヴァは、勉強が始まった日から師匠と呼ぶように躾けられた。 

 一般常識と共通語の読み書きから教育は始まった。

 テラノヴァには母親が突然冷たくなった理由が分からなかった。ただ読み間違えると叱られ、馬上鞭で手の甲を叩かれた。その日はひどく泣いたのをテラノヴァは覚えている。母親の豹変が恐ろしかったが、逃げる場所がないので、勉強に集中するしかなかった。


 食事と寝るとき以外は、ほとんど勉強していた。7歳になると算術も始まった。テラノヴァは豊富な才能に恵まれてはいなかった。むしろ一つの目標に集中すると、他がおざなりになる欠点があった。


 同時にいくつも並行して考えるのが苦手で、しかし一度はじめたらとことんまで突き詰める。娘の特性を把握したフーミューは、一点集中を年度ごとに繰り替えす方針になった。そうするとうまくいった。

 7歳までに一般常識と共通語の読み書き、魔力循環の基礎がおわった。9歳で魔法言語。10歳からはポーションの調合や、高等魔法言語を教育した。

 

 テラノヴァは高等魔法言語の習得に手間取った。身振り手振りと合わせて一日に10個の単語を覚える課題をこなせなかった。そして集中力が別の方向に向いているため、覚える気もなかった。魔法のスクロールに興味があるのか、単語の書き取りよりも、瞑想しながらの模写に興味を示していた。


 フーミューは予定通りにいかない学習に苛立ちを覚えた。

 彼女も完ぺきな母親ではない。いつしか娘が楽しくしていると、反感を覚えはじめた。

 そしてオシオキの日を楽しみにしていた。育児ストレスが積もった母親の、典型的な症状である。

 フーミューは娘を愛していたが、この子がいなければ隠遁する必要もなかったと、感じていた。


 10個覚える予定の単語が1個に、その積もった負債が100個を超えたときに、フーミューはおたのしみの強硬手段に出た。

 朝食の時に、娘を詰問した。


「おまえ、どうして覚えなかったの」

「だって難しいもん。おぼえられない」

「必死になれば覚えられる。おまえには必死さが足りないわ」

「意味わかんない」

「来なさい」


 テラノヴァは手をひかれ、決して出てはいけないという敷地の外に連れ出された。

 普段とは違う見慣れない光景。

 太陽に照らされた街道を、羽の生えた昆虫が飛んでいる。 

 野原に埋もれた草に覆われた石造建築は、本のなかでしか知らない知識が具現化した光景だった。


「うわぁ……わぁー」

「何を喜んでいるの。おまえはここにいて、覚えるまで帰ってきては駄目」

「えっ?」

「ここは結界の外の危険な場所。師匠はおまえが襲われても助けません」

「えっ、なんで、やだ……」

「外の世界にはおまえを食べようと狙う魔物や、お前を殺そうとたくらむ人間がうようよいるの。死にたくなければ、死ぬ気で覚えなさい。全部終わったら戻ってもいいわ」

「やだやだやだやだ」

「だからそれまでは──」


 フーミューは杖を振った。テラノヴァの脚の感覚が無くなった。

 立っているはずなのに、膝から下が石化したように動かない。膝を持ち上げようとしても動けなかった。


「なになになに。こわい。やめてぇ」

「だめ」

「ねええっ、良い子になるから、覚えるから。ね。一緒にかえるぅ」

「だめ。しっかり覚えてから、戻ってきなさい」


 フーミューは背中を向けた。テラノヴァの視界に去ってゆく姿がみえる。


「ねえ。わたしいい子になるから。いっぱいお勉強するから! おいてかないでぇ。一緒にかえるぅ!」


 師匠の後ろ姿が丘の向こうに見えなくなったとき、テラノヴァははじめて真の孤独を知った。まるで裸で寒い場所に放り出されたように、不安が皮膚を冷やした。


「ああああ……! うあああああ!」


 しばらく泣いたが、助けは来ない。

 テラノヴァははじめて必死になった。魔導書を開き、単語を唱えて暗記した。

 翻訳と見比べて、文章自体を丸ごと覚える。

 不安で文字が滑っていく。頭に入らない。

 それでもテラノヴァは読んだ。涙目で単語を声に出し、詠唱に必要な動作を覚えた。


 早く覚えないと、いつ凶暴な生物が襲ってくるかわからない。

 頭の中にいくつもの魔物の姿が浮かんだ。魔物図鑑に載っていたバケモノたち。

 

 女子供をさらってまるかじりにする重装人食鬼オーガハンター、人間を苗床にして繁殖する発泡歩菌フォーミングアガリック、延々と旅人のあとをつけ、眠ると襲ってくるアンデッドの影人シャドウストーカーや、木陰を通った旅人にとびかかる腕長跳獅子アサルトクーガーなどなど……。


 どれに襲われても八つ裂きにされる。苗床針蜂ナーサリビー胸を刺されて息絶えるすがたを想像して、テラノヴァは文章を唱えながら泣いた。


「やだぁ……やだぁ……」


 テラノヴァは知らなかったが、このあたりの平原は安全で、危険生物などは遠い昔に駆除されていた。

 フーミューは何も知らない娘を、精神的に追い詰めるために外に出したのだ。虐待といっても過言ではないだろう。


 テラノヴァのまわりには魔力が放射されている。

 彼女の安全な魔力に惹かれて、碧玉アルマジロが足元に寄ってきた。足の近くでうずくまったが、必死なテラノヴァには視界の外だった。


「アーヴ、クレスタ、ホド、ネツァク……覚えられないよぉ……」


 彼女がこれほど集中したのは、短い人生のなかではじめてだろう。何度も繰り返した、血肉に刻むごとく暗記した。

 正午の日が昇るまでに遅れていた50単語を覚えて、それを使った魔法を唱えられた。

 発動した解呪の魔法が、無意味に消えていった。


 霧散する魔力は、甘露のようにそれを好む生物を引き寄せた。

 もろもろのちいさい生き物たちが、彼女の魔力の放射を浴びに来ていた。恐怖に囚われたテラノヴァはには感知できていなかった。ときどき魔導書のうえにまでやってくる鳥を、無意識にどかしていた。


 テラノヴァは中級魔法の基本となる解呪Disenchantと魔法の拒絶Abjureの発音を確かめ、正確な動作で指を動かし、発動方法をからだに覚えこませた。

 それらを構成する単語の補助と強化を指の動きで再現する。

 必死でいると、時間は早く過ぎていった。

 太陽が傾き、夕焼けになった。


「できた……!」 


 ようやく術式を構成する224語の単語理解し、それを圧縮し、よどみなく唱えられた。

 どういうわけか、学習がおわったとき、足が動いた。


 テラノヴァはそのとき、自分の周囲に小動物や昆虫などが、羽を休めている状態に気づいた。

 靴のうえにのっているアルマジロを足でよせ、腕が重い原因だった尻尾の長いカーバンクルを、引きはがして地面に置いた。


「帰る……帰るにぃ……」


 いつのまにテラノヴァの口調は、娯楽小説の登場人物をまねていた。あたまのおかしい獣人の魔法使い。しかし魔力の操作に優れて、強く、傍若無人な英雄。

 心に負荷がかかりすぎて、登場人物と同一視して、難局を乗り越えた。

 英雄ならばできる。ならば自分もできる。


 家らしき方向に歩いていると、師匠が迎えに来た。

 その姿を見たとき、テラノヴァは涙が止まらなくなった。英雄は去り、悲しさで感情がいっぱいになって、動けるようになった脚で走り、スカートに抱き着き、泣き続けた。


 なんで、なんでといいつつ激しく声をあげて泣き続けるテラノヴァの涙で、服がぐっしょりと濡れた。頭をなでていたフーミューは、善くない教育をやったのではないかと、ようやく気が付いた。


「ごめんなさい」


 そういって抱きかかえて、こんなやりかたはいけないと心に決めた。肉体的にも精神的にも、あぶない目には合わせないと誓った。

 しかし娘が泣いている姿はかわいかった。


 10歳と11歳の時、魔力を増幅させる魔金のリングを脊髄に埋め込んだ時、テラノヴァは2か月おびえた。フーミューは清々しい気分になった。


 テラノヴァが12歳になった大晦日の夕方、雪がふるなか、師匠は呼び出しを受けたといって出ていった。


「長くかかるかもしれないから、一人で過ごしなさい」


 そう言付けて、家を出た。


 若干早い反抗期が始まっていたテラノヴァは、話半分に頷いた。

 それよりも夕飯の作成に力を注ぎたかった。

 魔導オーブンのなかでジリジリと焼ける鳥の丸焼きに、はけをつかって脂を塗りたくる作業は楽しい。

 師匠が昼にとってきた沼イカを、生きたまま調味料にひたしたトレイから、逃げ出さないように見張る仕事も重要だった。


 フーミューは家に出るとき、何度も振り返りながら


「遅くなるから、おまえひとりでたべなさい」

「しばらく留守になるから、きちんと洗濯するのよ」

「毎日の日課もしなさい」


 などと言った。


「うんうん」

「わかった」


 テラノヴァは生返事をした。

 そんなことをいわれても、すぐ帰ってくると思っていた。


 しかし年が明けて朝になっても、戻ってこなかった。

 次の日も、その次の日も、師匠は帰ってこない。


 根拠なく、すぐに帰ると思って手を付けていなかった料理は、2日目にして痛み始めていた。


「にゃんでぇ……」


 テラノヴァは追い詰められたネズミのように、部屋という部屋を行ったり来たりした。

 窓からこわごわと外を覗き、雪に覆われた白い光景に震えた。


 一週間経っても、一か月たっても、師匠は戻ってこなかった。

 うっすらと雪の積もった3月、空気は冷たく澄んでいる。テラノヴァはまだ、家のなかで待っていた。


 少し外に出てみたが、寒さに凍え、結界の外に出る勇気がなかった。


 扉を開けてそっと外の世界を覗くと、2匹の氷の妖精が、きらきらと輝く軌跡を残しながら、空中で螺旋を描きながら飛んでいた。

 幸運の象徴である妖精を見たテラノヴァは、運がいいといえるが、怯懦な心にはそれも不吉の象徴にしか思えなかった。


 テラノヴァに一匹が気づき、挨拶しようとちかよってきたとき、テラノヴァは小さな悲鳴を上げて扉を閉めた。妖精は扉の前で漂っていたが、そのうち興味を失くしていなくなった。


「無理……無理……!」


 今いる家には、ペンタグラムの位置に杭が打たれ、魔物避けと認識疎外の結界がはられている。

 これがあるから家は安全であるが、テラノヴァは外が危険だと思い込んでいた。


 外は魑魅魍魎と盗賊が闊歩する危ない世界だった。実際には街道からそう外れていないので、さほど危険はないのだが、引きこもりかつ出不精のテラノヴァはそう信じていたし、師匠も伝えていなかった。

 師匠を探しに行こうかと何度も考えたが、いざ旅支度をして、扉に手をかけても、踏み出す勇気が持てない。


「……今日は日が悪いし……」

「雪があるから無理」

「お外がまぶしすぎる」


 そういって外に出なくなった。フーミューがほどこした危険を取り除く教育は、自主性を極度に低くしていた。

 逆に一人になった今こそ、育ち始めたといってもいいだろう。人並みになるには、まだ長い時間がかかるが……。


「うにぃうにぃ」


 外出を決意してから諦めた後の、ベッドの上はひとしお快適だった。

 精神的な負荷が軽減されて、そういう日に限ってスクロールを作る作業も捗った。フーミューが書き残した魔導書で勉強して、簡単な血止め、炎の灯火、魔力増加、光の壁など、補助系の魔法をつくる。攻撃系には才能がなかったが、補助や妨害の呪文はよく覚えられた。


 最近作っているには従魔召喚の巻物である。

 作成労力と結果が見合わない消耗品と言われていたが、たっぷりの魔力と、難しい術式を長文で書き込み、時間を注ぎ込んでいた。


『あなたに従う魔物をランダムに呼び出す』


 とにかくランダム。何が出るかわからない。それが楽しみだった。

 半年以上の時間を注ぎ込んで作った。現実逃避も兼ねていたため、作業は進んだ。

 完成した日、テラノヴァは黒いマントと白いローブの正装に着替えた。

 魔法と向き合うには正装が一番な気がしたのだ。


 応接間の広い場所で読んだ。

 スクロールが光を放ち、灰になってさらさらと崩れ落ちる。

 空中に現れた娼館術式の円形文様から、カタツムリのような殻がまろびでた。


 そのまま床に、ふわりと着地する。


「なに? ランドマイマイ?」


 こぶしふたつ分くらいの大きさの殻は、魔物図鑑で見たカタツムリの仲間がやってきたのかと思った

 白と茶色の縞模様の殻には、入り口にはふたがついている。


「マイマイじゃない。なんだろう、わかんない」


 ふたが開いた。にょろにょろと10本の脚がでてきた。つけねにあたる胴体の左右に、目がついている。

 山羊の眼のような四角い瞳孔。

 触手を見るに海の生き物に見えた。陸生の肉食鉢歯貝でもない。

 

 テラノヴァはそれを放置して、師匠の部屋に行った。

 魔物図鑑をかかえて戻る。貝は横向きに転がっていた。テラノヴァが来ると再び起き上がり顔を出した。


「あなたは何の生き物かな」


 しばらく本と見比べると正体がわかった。

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