第22幕.『亡命王子は闇を演じる』

 炎を見つめていると、意識が朦朧とし始めた。脚を投げ出していた先の泉は燃えながら、ゆらめきの中に美貌を映していた。ただ、溶鉱炉に投げ込まれたように、美は溶けて別の形をして燃えていた。過ぎたる美しさ、魔性の美貌は、概念と存在を炎に包まれて抽象化されている。見えるのは麗人の美貌ではなく、美しさという概念さえも解体した先にある中心定理めいた美のイデアだった。


(美しい……僕は、美しい……とても、とても……)


 心の内で譫言のように呟いたとき、麗人は酷く虚ろで陰惨な業念を白皙の美貌に刷いて、激情という名の麻薬に痺れながら、睫毛にかかる黒緑の長い髪に指を通している。おもむろに髪を後ろへ流した指先まで、何にも支配されることのない満ち足りた美しさで妖美な気怠さを匂い立たせていた。炎の水面に見入るうちに、麗人は泉を覗き込み過ぎて、炎に落ちた。炎は音一つ立てず、不気味なほどの静けさの中に麗人を引きずりこむ。麗人は炎の泉から、まるで埋葬された死者が地面から這い出るかのような緩慢な動きで、美しい手を炎の先端に向かって伸ばした。誰が聞いているわけでもないのに失態を誤魔化すように一人で笑いながら、泉の淵まで這い上がる。炎から這い出た麗人は、赤い薔薇にまみれていた。

 薔薇に濡れた頬を拭う。傲慢が香る長い睫毛に、赤い花びらが一つ、引っかかっていた。険のある眦が、目尻の睫毛に禍々しい炎を走らせると、花びらは発火して消えた。麗人は緩く波を描いている髪に絡まった薔薇を、一つ一つ助け出しては、戯れに並べていた。

 そこは黒い荊の藪に守られた炎の泉だった。『薔薇庭園(ゴレスターン)』は渇いた都で、水が存在しない。水の代わりになっているものは、薔薇庭園では専ら炎である。藪の外が騒がしかったが、麗人は我関せず焉として、泉の畔(ほとり)で長い脚を炎に投げ出したまま、草の褥に横たわってごろごろして過ごしていた。


「薔薇王はどちらにおわします?」


 何処か遠くから、自分を尋ねる声がする。麗人は勿論、返事などしない。外が焼ける真夜中に屋敷を抜け出して、自分を見つけ出せない薔薇庭園の住人たちを面白がって笑っていた。荊の藪からむしって手折った黒い薔薇の花を、麗人は棒付きキャンディーのように舐めた。麗人の舌先に触れると、薔薇は燃える硝子のように、でろでろと溶けていった。麗人は薔薇を甘みのように舐めながら、苦笑する。


「薔薇王、か」


 麗人は薔薇を持ったまま、寝そべっていた。薔薇王というこの薔薇庭園での称号が、可笑しく思えたのだった。

 麗人は生まれながらにして高い身分という威容を備えていたが「王位」という地位に関しては、全く興味を持てなかったのである。例えのその王位が、概念であり象徴的なものであったとしてもである。

 麗人は薄い唇に、溶けゆく薔薇の花びらを柔く噛んだ。


(僕は、王様は趣味じゃないんだけれどな)


 王位よりも確かな権力。歴史も威厳も必要としないのに、永劫かつ厳格で燦然とした力。普通に生きていたら、自分にも王になる道を歩む選択肢はあったのだ。そんな過去を意味もなく反芻していた。

 麗人がまだ王子だった頃。王子と呼ばれていた頃を思い出すと、玉座は美しいのに、玉座の周りには醜いものがうようよと湧いている目に見えないが確かな現実を感じたことを、自分の鋭さが見てしまったことが偲ばれるのであった。

 玉座の周りには、狡猾に王権を悪用しようという知恵を持つ者が、王という人形を操ろうとしているのだ。狡賢い、人形師のような人々……

 麗人は闇の役を、望んだ。愚かしい国王、その後ろに蔓延る悪どい人形師たち、その人形師たちの更に奥に蟠る闇の役を。


「薔薇王!!」


 醜い光に居場所を暴かれたのはそのときだった。黒い荊の藪、その浄暗が消えようとした瞬間、麗人は毒のくちづけに溶けた花びらを一枚、放った。目が潰れて見えなくなるような光が炸裂した。

 放たれた薔薇のひとひらに、醜い光は斬り付けられた。

 闇とは、強力な光なのである。

 王子だった過去の麗人は、王位から亡命して闇となった。醜さが蔓延る舞台の奥で、真実の威容を昏く戴き薔薇に彩られた漆黒の冠を手に入れたのだった。闇となった麗人は、誰の表舞台に現れることなく多勢の心臓を喰らう、美の魔物となって闇を演じ続けていた

 光は暗がりが起こした気紛れである。光を生み出すのは、いつだって闇である。

 闇を演じる麗人の覇気には、生きているものを死へ追いやる美しさがあった。麗人は生を死に変える営みを、何よりも美しく眩ゆい権力だと思っていた。

 麗人は荊の藪が再び闇を帯びたことを確かめると、炎の時刻に焼かれて渇く空に仰臥した。

 美しいという力があるゆえに、麗人は誰の目にも触れない闇のままで、他に望むことは何もなかった。

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