第十六話 厨房の仕事(一)

 凪は翌日も読書を楽しんだが、心のすみにはいつも、ただで衣食住を世話してもらっている心苦しさがあり、翌々日にはそれが大きくふくらんでいた。また、少しは体を動かしたいという気持ちもある。


 それに――。


 何らかのかたちで、広海とつながっていたかった。昨日広海に会えなかったことがふしぎなほど淋しく、広海とつながることでその淋しさをやわらげたかったのだ。


「あの……そろそろ何かお仕事をさせていただけないでしょうか?」


 朝食の膳を下げに来た洋子に持ちかけると、


「まぁ、そんな……凪さんはお客様だと申し上げたではございませんか」


 案の定やんわりと断られてしまったが、


「い、いえ……ちょっと体を動かしたくて……」


 凪は珍しく食い下がった。


 洋子はやや斜め上に目をやり、あごに人差し指を当てて、


「そうですわねぇ……たしかにわたくしたちも、どれほどここを居心地好く思っていても、ときどきは鮫の姿になって思う存分海を泳ぎ回りたくなりますものね……」


 鮫人らしいことを言い、


「では、お料理を手伝っていただきましょうか」


 にっこりと笑った。


 一刻ほどのち、再び洋子が現れた。


「航さんに尋ねたら、ぜひお願いしたいと申しておりましたわ。いまからでもかまわないとのことでしたが、さすがに急すぎますかしら……?」


「そんな、自分から言い出しておいて急だなんて……」


 あわててかぶりを振り、洋子について厨房へ向かった。


 厨房に入ると、


「いらっしゃい!」


 すぐに航が近づいてきた。一昨日のことを思い出してやや身構えてしまったが、航は今日は身を乗り出したりはしなかった。


「仕事がしたいんだって? いやあ、凪さんは働き者だね! おれなんて、働けって言われないかぎりいつまででも休みたいのに」


 もっとも、親しげな口調は変わらない。


「は、働き者なんかじゃ……」


 凪はうつむいたが、


「謙遜しなさんなって。でも、無理は禁物だよ。治ったといっても大怪我をしたあとなんだから」


「はい……ありがとうございます」


 そのことばに顔を上げ、初めてまっすぐに航を見た。広海が航を「気のいい男」と評していたのは本当だったようだ。むろん、広海のことばを疑っていたわけではないが。


「じゃあ、まずはこれを……」


 航は凪に前掛けを渡してくれた。図案化された鮫が染め抜かれた紺色の前掛けだ。


 凪がそれを身に着けると、航は調理台のひとつに案内してくれた。調理台には人参の盛られた籠と、真新しい包丁と俎板まないたが置かれている。隣の鮫人が微笑んで会釈してくれたので、凪も微笑と会釈を返した。


「この人参の皮を剥いて、細切りにしてくれる? 長さは一寸半くらいで。終わったらおれに声をかけて」


「はい……!」


 張りきって返事をした。人参の一本を手に取り、皮を剥いて切りはじめる。緊張はしていたが、さすがにこの程度のことで失敗はしない。あっという間に切り終えて航に報告した。


「えっ、もう……?」


 航は驚いて凪の仕事ぶりを見に来た。


「すごいよ、こんなに早く綺麗に切れるなんて……!」


 どう考えても過分なことばだと思ったが、お世辞にも聞こえない。凪は喜ぶよりも混乱してしまった。


「じゃあ……次は秋刀魚さんまさばいてくれる?」


 航は凪に海藻の包みを渡した。そのなかの秋刀魚もあっという間に捌いてしまい、


「魚もとっても早く綺麗に捌けるんだね……!」


 航は再び驚いていた。


 さらに大量の里芋と榎茸えのきたけを切ったところで、


「疲れただろう。ちょっと休憩してきたら?」


 航は言った。


「い、いえ、まだ疲れてなんて……」


「こら、無理は禁物だって言っただろう?」


 航はまなじりを吊り上げてみせたが、その表情は、人一倍どころかひとの三倍も四倍もおびえやすい凪でも怖くないものだった。


「で、休憩のあとは、よかったら厨房のみんなと一緒に食事をしない?」


「えっ? いいんですか……?」


 ちょうどひとりで食事をするのを淋しく思いはじめていたころだったので、航の誘いは願ってもないものだった。


「もちろん。自分から誘っておいて、だめだなんて言うわけないだろ。じゃあ、お昼の鐘が鳴ったら戻ってきてよ」

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