まさしと一緒! ~はじめての人面犬~
山川陽実子
第1話
「人面犬は初めてですか?」
店員が尋ねた。俺は頷く。
「では、簡単にご説明を。人面犬を飼おうという方で誤解されている方が多いので」
ここは人面犬専門ショップ。人面犬は一昔前に怪談として流行った。しかし近年になって、人面犬にも色々な性質のものがいるということ、基本的におとなしく人なつっこいということが判明した。人間に近い動物として、人面犬は昨今人気が高まっていた。
店員は続けた。
「まず、人面犬は人語を解しません」
「えっ、そうなの!?」
俺は驚いた。やはり人面犬が喋るというのは都市伝説だったのか。
驚いた俺を値踏みするように店員は警戒心を露わにした。
「はい。勝手にそう誤解して、人面犬に愛想を尽かされて逃げられたお客様からのクレームが絶えませんので。ここはしっかりとご理解お願いします」
「はい……」
俺はわずかにがっかりとした。
実は人面犬を話し相手にしようと思っていたのだ。
ーー誰かに仕事の愚痴を聞いてもらいたかったんだけどな。
店員は俺に対する警戒をより露わにした。
「人面犬は癒やしマシーンではありません。人面犬に家族として接することのできない方はお断りいたします」
「家族……」
帰宅するなり会社や上司の愚痴ばかり零す家族。こちらの話には全く聞く耳を持たない。それを幼い頃から近くで見てきた俺は考え込んだ。家族に対してそんなことはしたくない。
が、俺が今しようとしていたのは、まさにそれだった。
俺に果たして人面犬が飼えるだろうか。
その時だ。
「わうん! わうん! わうん!」
ゲージの中で、一匹の人面犬が鳴き出した。嬉しそうにちぎれんばかりに尻尾を振っている。
「あら」
店員は目を丸くした。
「あなたを気に入ったみたいです」
「え? 俺?」
俺はきょとんとした。なんとはなしに俺はその人面犬に近づいた。
「わうん! わうわう!」
瞳をきらきらさせて、ゲージにしがみついている。体はだいぶ大きくて顔はアラ還のおじさんのようだった。
「まさし……」
「わう!」
思わず呟いた名前に、人面犬はさらに嬉しそうに尻尾を振った。
店員が契約書を取り出した。こちらにペンと朱肉を寄越す。
「たまにいるんですよね。お客様みたいに人面犬に気に入られる方が」
店員は苦笑した。
「え、でも俺、飼える自信がな……」
「大丈夫です」
店員は断言した。
「この人面犬があなたと暮らしたいとアピールしています。あなたがよほど不適合者でない限りは、うまくやれるでしょう」
ショップから出ると、五月の暑い日差しが俺を射抜いた。
ふと下に目をやると、隣で人面犬まさしが尻尾を振りながらとことこ軽やかに歩いている。その様子を見ていると、俺の顔は自然と笑顔になった。
俺は店員との先程のやりとりを思い出した。
「えっと、首輪とかしたほうがいいですかね?」
人面犬は高価なので、俺は散歩をしている人に遭遇したことがなかった。店員はてきぱきと説明した。
「どちらでも。この人面犬は人間で言うと七十歳近く。落ち着いております。そして、人面犬に選ばれたお客様の場合は逃げられることはまずありませんので」
そう言われて、俺は首輪をつけるのをやめた。人間の顔をしている動物の首に首輪をつけるというのが、なんとなくかわいそうな気がして気がひけた。また正直なところ、特殊性癖を見せびらかしているような気がしてしまったからというのもある。
「高かったけど、やっぱり買ってよかったな」
俺は一人言を呟いた。人面犬は「わう!」と応えてくれた。それが自分は一人じゃないと感じられて嬉しかった。
「あれ? りょーちゃん?」
聞き覚えのある声に振り向いた。
「満里奈」
彼女はこちらに手を振った。そして駆け足でやってきた。
「わあ! りょーちゃん、それ、もしかして人面犬!? 買ったの?」
フレアスカートを揺らしてすごい勢いでやってきて、すとんと人面犬の前に腰を下ろす。
「ああ。初任給で奮発した」
「おおー」
満里奈は顔だけ上げて笑った。まさしもわうわう鳴きながら俺を見上げた。
満里奈は俺の叔母だ。俺よりふたつ年下だが。そして血は繋がっていないが。
俺の父親は十年ほど前に一回り以上年の離れた若い女性と再婚した。その義母のそのまた年の離れた妹が彼女、満里奈だった。
満里奈はしゃがみこんだままこてんと首を傾げた。
「初任給で両親にプレゼント、とかやらなくて良かったの?」
無邪気に聞いてくる。俺はなんとか笑顔を作った。実は忘れていた。
「やるよ、一応。プレゼントっていうか、レストラン予約しようと思ってる。父さんと義母さんの予定聞いてから」
「そっかー」
満里奈はそれよりも人面犬のほうに興味津々だった。「お手!」とかやっている。まさしはにこにこと笑いながらスルーしていたが。
「ねえねえ、まりなちゃんって言ってみて」
満里奈は人面犬がすっかり気に入ったようでずっとしゃがみこんでいる。俺は「パンツ見えるぞ」と言う前にひとつ教えてやった。
「人面犬は人語を解さないらしいぞ」
「そうなんだ! ざんねーん」
満里奈は口を少しすぼませた。まさしは不満そうに自分の脚を舐めていた。
「人面犬ちゃん、名前なんていうの?」
俺は少し口ごもった。
「あー、えっと。まさし」
満里奈は目を見開いた。
「りょーちゃんのおじいちゃんと同じ名前だね! 言われてみれば顔、似てるよ!」
満里奈は「まさしー」と楽しそうに呼びかけた。まさしは今度は満足げに「わう!」と一声吠えた。尻尾の回転はちぎれんばかりだ。
よっぽどこの名前が気に入ってるんだな。俺は不思議に思いながらもほっとした。
俺の一人暮らしのマンションと満里奈の家は近いので一緒に歩く。
「そういえば、まさしさん、今頃どうしてるかなあ」
満里奈は俺の祖父のことを「まさしさん」と呼ぶ。まさしじいちゃんは、俺の実の母親の父親で、満里奈とは縁が薄いからだ。
俺は意味もなく腰を屈めてまさしの頭を撫でた。
「きっと元気にしてるよ」
マンションに帰り、まさしにゲージを見せた。しかしまさしは不満そうにそっぽを向いた。
「あれ? お前ゲージ駄目なタイプか」
確かいくつかのサイトには書いてあった。「人面犬の中には自分を犬扱いされるのを嫌う子もいます」
肩を落として冷蔵庫に向かう。スポドリを二本取り出す。まさしにも「飲むか?」と差しだした。まさしは器用にペットボトルを掴み、美味しそうにごくごくと飲んだ。
「人面犬の中には自分を人間扱いされるのを嫌う子もいます」
と書いてあるサイトもあったが、まさしはこっちは大丈夫なようだった。
「お前を買ってきてからゲージ買えばよかったよな。……俺、これだから抜けてるって言われんだよな」
すると、まさしが耳を動かし、ぴょこりと立ち上がった。
「ん? どした、まさし」
俺の言うことは無視して、ずんずんとまさしはゲージに向かっていく。そして、ゲージを横倒しにした。
「倒すほど気にくわないの!?」
俺が目を丸くしていると、まさしはぷるぷると首を横に振った。そして、ゲージの中のブランケットを頭の下にひき、コの字型になったゲージの中で寝転んだ。そして、満足そうに「わう!」と鳴いた。
「え? もしかして言葉通じてる……?」
そうかもしれない。人間の言葉はわかるのだ。ただしゃべれないだけで。
都市伝説もあながち嘘ではなかったということだ。
ふと思いついた。オウムのように言葉を教え込ませればしゃべるのではないか、と。
「こんにちは」
俺はまさしに言ってみた。
が、まさしはブランケットが気に入ったようで、そのままぐうすかと眠りに落ちてしまった。
「高林くん! 君は入社して何日経ったんだ!?」
今日も部長の叱責が飛ぶ。俺がミスをしたからだ。
いや。俺、ミスした?
回転が遅くなった頭でそう考えているうちに、部長は矢継ぎ早に俺を叱った。そして「やり直せ!」と書類を渡された。
え? やり直せって、これ作ったの俺じゃなくね?
「ひでー。高林の奴、完全に部長に目ぇつけられてるよな」
「部長のお気に入りの加山さんが、高林に気があるみたいなんだって」
「あー、それで」
「イケメンも良し悪しだよなー」
先輩たちが何かをぶつぶつ言っているのが耳に入ったが、脳までは届かなかった。
とにかく、やらないと。また部長に怒られる。
俺は初めて見る書類を最初から読み始めた。
「俺、悪くなくね?」
帰宅して俺はまさしに語りかけた。愚痴は言うまいと思っていたが、たまには愚痴を聞いてもらうのも家族らしくて良い、と開き直った。
まさしはゲージの中でうんうんと頷いた。やはり日本語がわかるようだ。
「部長のばーか」
まさしにそう言うと、まさしはさらにうんうんと頷いた。そのことに心が落ち着いてきた。
俺は悪くない。けど、その時は頭がうまく回らなかった。子供の頃からそれほど機敏ではなかったけれど、ここまで鈍くさくはなかった。
この会社に入社してからだ。
毎日毎日、意味不明のことで叱責される。思考がまとまる前に無理矢理仕事を押しつけられる。
会社に俺の思考が奪われている気がする。
「部長のばーか」
もう一度言ってみた。まさしは今度は心配そうに眉を寄せた。その顔が、まさしじいちゃんを思い起こさせた。
「あー。じいちゃんがいたらなあ」
俺はごろりと仰向けに寝転んだ。
「遼一! そんな会社やめちまえ!」
じいちゃんならそう言ってくれたかもしれない。何事にも自信たっぷりで元気が有り余っているじいちゃんならば。
じいちゃんはスポーツも得意だった。どんなスポーツでもとても六十三とは思えない動きを見せていた。半年前には趣味のひとつである登山に行った。そしてそのまま、帰ってこなかった。
その日は急に天候が悪化してしまった。多分遭難してしまったのだろう。そう皆は言っていた。俺は信じていないが。
「ブチョウノバーカ」
俺は飛び起きた。空耳か?
じりじりとまさしの元へ寄る。
「ブチョウノバーカ」
間違いない。まさしが言っている。
「すげえ! まさし、お前天才!」
俺はテンションが上がった。都市伝説じゃなかった!
「他にもなんか、別の言葉……」
しゃべれる言葉が「ブチョウノバーカ」などという寂しいものだけではまさしがかわいそうだ。それ以前に人に見られた時も困る。
「えーと、そうだな。何を……」
「わふー……」
俺が考えているうちに、まさしはへそ天で眠ってしまった。
「奢ってあげるよー」
満里奈がにこにこ笑った。
「そんな顔しないでよー。いいじゃん、たまには」
俺の暗い顔を見て、満里奈は背中をばんばん叩いた。
今朝、実家に行った。本を何冊か取りに行こうと思ったのだ。まさしには「ブチョウノバーカ」ではなく、美しい言葉を覚えさせたい。そう思ったのだが、タイミングが悪かった。
父さんがまだ出社していなかったのだ。
「は? 本? お前はほんと暗いやつだな。少しは若者らしく体を動かしたらどうだ」
俺は父さんが苦手だった。仕事、仕事、仕事でいつも忙しくしていてキャッチボールとかで遊んでもらった覚えもない。母さんも仕事が忙しかったから家でおとなしく本を読んでいる我ながらいい子だったのに。
「だからお前はどんくさいんだよ」
家のことを何一つやらないくせに、口だけはいっちょ前だった父。俺は口数が少なくなっていった。
「あなた、あたしの人生に邪魔。遼一の教育にも良くない」
俺が十歳の時、母さんは父さんにそう告げて俺の手を引いて実家に帰った。が、一年もしないうち交通事故で亡くなり、俺は再び父さんと暮らすことになった。
父親はそれから反省したらしい。今の家庭ではとてもいい夫なのだが。
「お前はほんとどんくさいな!」
俺の顔を見ると、元に戻ってしまうらしい。迷惑な話だ。
今じいちゃんがひょっこり遊びに来ていたら、俺になんと言っただろう。
「多めに見てやれ! 今さら息子に対する態度を変えられないんだろうよ! 年を取ると性格を変えるのは難しいってもんだ!」
自信家のくせに面倒ごとが嫌いな適当人間じいちゃんはこう言ったかもしれない。そう言われると俺も「ちっ、困った父さんだぜ。まさしじいちゃんの顔に免じて許してやるか」と心が軽くなったものだ。
が、今朝じいちゃんの代わりに実家に遊びに来ていたのは満里奈だった。
「俺、年下の未就労者の女の子に奢られるとか、みじめすぎね?」
暗くなっていると、満里奈は「いいじゃん、いいじゃん」と笑った。
「だって、今日のりょーちゃん見てられなくて。あたしが守ってあげなきゃーって」
「やめてくれよ、よけいみじめだろ」
そう言いつつも、気心の知れた人間とご飯でも食べて気晴らしをしたかった。会計の時に「別々で」と言えばよいだろう。「俺が出す」と言うと嫌がるのだ、満里奈は。
満里奈はまさしに向かってグーを出した。
「まさし。あたしがいない時はりょーちゃんを頼んだよ」
まさしは神妙な顔で頷き、かろうじてグーっぽい手を上げた。
「あ、れ……? 高林くん?」
向かいからやって来た女性には見覚えがある。会社の先輩の加山さんだ。
今日はよく人に遭遇する日だな。俺はぼんやりと思いつつ会釈をした。そのまま通り過ぎようとすると、加山さんがくいっと俺の袖を掴んだ。俺は不審に思って加山さんを見た。
「何か?」
すると加山さんの目は俺の隣に注がれていた。まさしではない。満里奈だ。
「えっと……彼女さん?」
探るように問われる。俺はこの妙にシナを作ってくる加山さんが苦手だった。
「いえ、叔母です。母の妹……」
加山さんはぱっと顔を明るくした。
「えっ、あっ、そうなの! ずいぶん若く見えたから! やだ、あたしったらてっきり! 叔母さん、まだ全然二十代くらいに見えるわよ!」
隣から冷気が立った、気がした。
まだ二十代に突入したばかりの満里奈は、おばさん呼ばわりされ真顔になっていた。怖い。
「わうう……」
まさしは場の雰囲気を変えようと思ったのか、俺たちの周りをうろうろし始めた。そのまさしがピンと背筋を伸ばし、道の先を見た。
「お! 人面犬か!」
こいつには会いたくなかった。
「部長……」
俺は悟った。今日の射手座はきっと「街に出ると、意外な人に会えちゃうかも!?」だ。
いかにもこれから接待ゴルフですという格好をした部長は嬉々としてこちらにやってきた。
「はっ! 加山くん」
人面犬の次に気付いたのは加山さん。そして次に俺に気付いた。
「なんだなんだ、高林くん、君の人面犬かね? たいした稼ぎもないくせに、ったく、近頃の若いモンは」
「え!? ほんとだ、人面犬ね」
今頃それに気付いた加山さんはある意味すごい。
部長はぶつぶつ言いながらも人面犬に対する興味は抑えられないらしい。まさしの前にしゃがみこんだ。
「何かしゃべってみろ」
にこにこしてはいるが、命令口調だ。まさしは聞こえないふりをしているようだった。かしかしと後ろ足で頭を搔いている。
「ったく、飼い主に似て鈍くさいな!」
まさしと満里奈の顔が同時に引きつった。加山さんはまさしを見下ろしながら首を傾げた。
「まだ言葉を覚えてないのでしょうか。顔は老けてるけど」
常に一言多い加山さんはしゃがみこんだ。
「インコみたいに言葉を覚えさせようかしら。……ばーか、ばーか」
試しに言ってみたセリフがそれかよ、とおののいていると、部長は「さすがだ、加山くん!」と大きく頷いて「ばーかばーか」とまさしに向かって繰り返した。まさしの口は引きつっていた。
ん? 何かがまずい気が。
諦めたのか部長が立ち上がった。その瞬間、まさしが口を開いた。
ーーまずい!
俺はまさしの口を塞ごうと焦った。「ブチョウノバーカ」を今やられたら一巻の終わりだ!
「ーーブチョウハシゴトガデキル」
多分、三秒くらい時が止まった。
その沈黙を破るようにまさしは再びしゃべった。
「ブチョウノキビシサハアイノムチ。ブチョウノタメ二ガンバル。ブチョウノオカゲデス」
次から次へと紡がれる、決して口にしたことも思ったこともない部長に対するお世辞。俺は驚いてまさしの顔を見つめた。
すると突然、部長は笑い出した。
「はっはっは! 飼い主が日頃口にしていることを覚えてしまったというわけだな! これは照れるな!」
そして、ちらっと加山さんの顔を見た。加山さんは何故か満里奈ばかり見ていたが。
ひとしきり加山さんの目を気にして笑った部長ははっとして腕時計を見た。
「しまった! あのジジイは時間にうるさい!」
そう叫ぶと、焦った様子で接待ゴルフへと向かっていった。まさしは後ろを向くと、用を足した後のようにしっしと後ろ足を蹴り上げた。
「えっと、じゃあ俺もこれで」
俺は加山さんにそう告げると、満里奈の肩を軽く押してさっさとこの場を立ち去ろうとした。が、くいっと袖を引かれた。
加山さんがこちらを上目遣いで見ながら瞳を潤ませていた。
「あの、高林くん、このあと、暇?」
いや、どう見ても暇じゃないだろ、と思ったが「いや、これから満里奈と飯食いに行くんで」と答える。すると加山さんはきょとんとした。
「高林くん、叔母さんのこと呼び捨てにするのね。駄目よ、若く見えても目元の皺から見て三十歳くらいでしょ? 目上の人には……」
満里奈の目元には笑い皺がある。俺はかわいいと思っているが、満里奈は気にしている。俺はおそるおそる満里奈のほうを見た。
「りょういち! こんな女ほっといていこっ!」
満里奈は突然俺の腕に腕を絡めた。加勢するように、まさしは俺たちの周りをわふわふ言いながら駆け回った。
呆然とする俺を無視して満里奈は続ける。
「ごめんなさーい。あたしたち、このあとデートなんですう!」
「え?」
加山さんが固まった。「わう!」とまさしが加勢した。加山さんは唇を震わせた。
「え、だって、叔母さんとデートとか。近親相か……」
「いや、血は繋がってな」「二人の禁断の愛は誰にも止められないんですー!」
叫ぶ満里奈の声に、俺の補足は消されてしまった。
加山さんはよろめいた。
「信じられない……。高林くんがそんな人だったなんて……」
「いや、そんな人っていうか、血」「りょういちはそんな人なんですー!」「わう!」「あなたと違って、あたしはりょういちの全てを知ってますからー!」「わうん!」
「全て……」
加山さんはスマホを取り出した。
「やだわ……。職場のグループラインで皆にこのことを報告しなきゃ……」
「え、待っ」「結婚式には職場総出で来てくださいねー!」「わう! わう!」
満里奈に腕を、まさしにズボンの裾を引っ張られ、俺はその場を立ち去ることになった。
「俺、明日から仕事行けねえよ……」
引っ張られて連れられた公園のベンチ。俺は頭を抱えた。
「行かなくていいよ! あんな会社やめちゃいなよ。実はずっと思ってた!」
「いや、お前、簡単に言うけどな」
「だって最近りょーちゃんおかしいもん。元気ないし! 会社のせいだよ!」
「まあ会社大変ではあるけどな。社会はそんなに甘くな……」
「ヤメチマエ」
はっとして顔を上げる。そこでは、まさしが眉間に皺を寄せて真剣な顔をしていた。
「でも……」
「リョウイチ」
まさしはゆっくりと口を開いた。その声はまさしじいちゃんにそっくりだった。
「アノ会社ハ駄目ダ。人間ハ思考ヲ奪ワレタラ終ワリダ」
今までの言葉よりもはっきりと明朗な声で、まさしはそう断言した。
「でも、仕事しないと生きていけないし……」
「生キル生キナイ以前二、アソコデ仕事シテタラオマエガ壊レル」
俺は項垂れた。
俺も少しは思っていた。このままではダメだ、と。でも、考えようとすると頭に靄がかかってしまう。
誰かにそばに。話を聞いて欲しい。そう思って、人面犬ショップの扉を叩いたことを思い出す。
そばに。願わくばまさしじいちゃんにそばに。そして檄を入れて欲しかった。俺が壊れないように。
「リョウイチ、マサシガココニイタラ、同ジコトヲ言ッタト思ウゾ」
俺は息を飲んだ。
「え。なんでまさしがまさしじいちゃんのこと……」
おかしいとは思っていた。まさしじいちゃんとそっくりの顔、そっくりの声。俺を見つけたら喜んでくれたその態度。そして、部長を前にした時の口から出まかせの適当すぎるおべっか。
俺はまさしの顔を見つめた。
「まさし、お前もしかして……」
まさしは無言で頷いた。
そうだ、認めなければいけない。あの時まさしじいちゃんは死んだんだ。そして、このまさしは……
「お前、まさしじいちゃんの生まれ変わ」「マサシヲ助ケタノハ、コノオレダカラナ!」
まさしは胸を張った。
「……は?」
まさしの話はこうだ。
雪山で遭難しているまさしじいちゃんを発見し、自分の住み処で介抱した。まさしとじいちゃんは意気投合したそうだ。そしてまさしじいちゃんは元気になっが、どうやら記憶を失ってしまっていたらしい。
「記憶なぞなくても、これから記憶を作ればいいだけのこと! 今日からは新しい俺! 新生まさし!」
まさしじいちゃんはそう豪語したが「だが、なんか守ってやらなきゃならん子がいた気がするんだよな……」と考え込んでいたという。
そこでまさしは一肌脱ぐことにした。わざと人面犬ショップの周りをうろつき保護してもらう。まさしじいちゃんの匂いに近い人間の匂いを辿ってショップを転々としていたらしい。
「転々トシスギテ土地勘ガナクナッテイタガ思イ出シタゾ。マサシノ居場所ヲ教エテヤルカラナ!」
次の土曜日。まさしと満里奈と電車に乗ってまさしじいちゃんが遭難した山に向かった。空は気持ちのいい五月晴れだ。
「ヨカッタ。コレデオレモ安心シテ山二帰レルトイウモノ」
まさしが安心したように尻尾を振る。
「え? まさし山に帰っちゃうのー? 今まで通りりょーちゃんとこにいればいいじゃん」
満里奈は目を丸くした。俺もまさしが山に帰るとは初耳だったので驚いた。
「そうだよ。一緒に暮らそうぜ」
まさしは眉を下げた。
「オレハ人間デ言ウト七十近ク。今サラ人間ノ中デハ暮ラセン」
「えー、そんなー」
満里奈が不満そうに呟いた。
「一緒にいようよー、せっかく仲良くなれたんだしー」
満里奈がまさしを撫でる。まさしは瞑想するように目を閉じた。
もしかしたら。
俺は思った。
動物は自分の死ぬ時には身を隠すという。
ーーまさしも俺たちに自分の死を見られたくないのでは。
俺を悲しませたくないということもあるかもしれない。まさしじいちゃんを失って憔悴した俺を見てきたまさしだから。
これが、七十年近く野生で生きてきたまさしのポリシーなのかもしれない。
まさしはゆっくりと目を開いた。
「ーーヨシ! ナラリョウイチノ所デオ世話ニナルカ!」
「えっ!」
「やったー!」
思わず驚きの声を上げてしまった俺を、まさしと満里奈が半目でみつめた。俺は弁解した。
「いや、そうじゃなく。まさしは長年野生で生きてきたから、嫌なのかなって」
まさしはにっと笑った。
「ソンナコトカ。マア長年ト言ッテモ長イ人面犬生カラ見タラ大シタコトナイ! オレナドヒヨッコ!」
「え、でも人間で言うと七十近くって」
「人面犬ハ人間デ言ウト五百歳クライマデ生キル!」
「それ、人間で言うと、って言わないんじゃ」
「わーい、まさしー! これからもよろしくね」
満里奈が喜んでまさしに飛びついた。
それを見ていたら、俺もなんだか心が軽くなってきた。
「オ、ソノ笑顔ダ」
まさしがグッジョブとでも言うように手を上げた。
俺は車窓から近づいてきた山を見つめた。
まさしじいちゃんに会ったら何から話そう。あと、あのショップにお礼にも行きたい。
心が弾んでくる。
「リョウイチ。駅弁ハナイノカ」
「いや、短いローカル線にそんなたいそうなもの
は」
「次の駅でなんか食べてこうよー!」
皆と一緒なら。
また元気を取り戻せる気がした。
まさしと一緒! ~はじめての人面犬~ 山川陽実子 @kamesanpo
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