猿のお宿
まにゅあ
第1話
冬の寒い夜のこと。
宿の露天風呂に入っている男に、背後から声がかかった。
「いい湯ですね」
振り返った男は目を見張る。そこにいたのは人ではなく、一頭の猿だった。赤褐色の毛をした猿で、同じ檜の湯船に浸かってこちらを見つめている。
男は声の主を探して辺りを見回すが、露天風呂に入っている人は自分だけである。
幻聴とは……、精神的に相当参っているらしい。
男はため息をつく。
「何かお悩みのようですね」
……幻聴ではなかった。声の主は目の前の猿だ。声に合わせて口が動いていた。
男はひどく困惑しつつも、猿に問う。
「喋れるのですか?」
「もちろんですとも」
猿ははっきりと頷いて、
「私でよければ、お悩みを聞かせてもらえませんか?」
猿の礼儀正しい物言いに、男の警戒心が薄れる。
悩みを打ち明けたいと思いつつも、周りの目を気にして、これまで誰にも相談できなかった。
だけど、猿になら――。
男は閉ざしていた口をゆっくりと開いた。
「実は、妻との関係に悩んでいまして……。結婚して今年で十年になるのですが、会話もめっきり減ってしまって、家にいるとどうにも居心地悪く感じてしまうのです。今日もこうして一人で外泊して、妻とはできるだけ顔を合わせないようにしています。妻も私と一緒にいるのが嫌なのか、私と距離をとるようにしているようで……。最近では離婚を考えるべきではと真剣に悩んでいる次第です」
「そうなのですね。とてもつらかったでしょう」
「ええ。結婚したばかりの頃は共通の趣味もあって、話題に事欠かなかったのですが」
「共通のご趣味とは何だったのですか?」
「お茶をたてることです」
「素晴らしいご趣味ですね」
「ありがとうございます。妻とは大学の茶道部で出会いまして。よく二人きりでお茶をたてたものでした。けれど、社会人になって互いに仕事が忙しくなってからは、自然とお茶をたてることから遠ざかってしまいました」
猿は一度頷いてから、
「お忙しいとは存じますが、今度お二人でお茶をたてる時間をとってみてはいかがでしょうか?」
男は顎に手を添えて、
「……なるほど。妻との関係から逃げることばかりで、そのようなことを考えたこともありませんでした。――これから妻に電話をして、話をしてみます」
男は立ち上がって猿に礼を言い、露天風呂を後にした。
「ふぅ、人間の相手はやっぱ疲れるわ」
男を見送った猿は、誰もいない露天風呂で独り言ちる。
「せやけど、救ってもらった恩もあるし、もうちょい頑張るとしよか」
猿は行き倒れていたところを、この宿の女将に助けられた。女将の宿は経営難に陥っているようで、猿は恩返しをしようと考えたのだ。
「俺が、この宿を人気の宿にしちゃる」
猿に悩みを聞いてもらえる宿――間違いなく人気が出るやろ。
猿は自分のアイデアに酔いしれながら、誰もいない露天風呂で満天の星を見上げる。
「それに、ここの温泉は気持ちええからな」
猿は肩まで温泉に浸かりながら、思わず声を漏らす。
「ああ、極楽、極楽」
一時間後、露天風呂の掃除にやってきた女将が、のぼせている猿を発見した。
助けられた猿は益々の恩を感じ、宿が繁盛するようになっても、女将のそばを離れることは決してなかったと言う。
猿のお宿 まにゅあ @novel_no_bell
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