幸せ代行人
白兎
第1話
もう死にたい……。
僕は学校の屋上から身を投げようと、フェンスをよじ登っていた。その時、
「ねえ、死ぬの?」
澄んだ声が僕に話しかけてきた。振り返ると、黒いスーツを着崩した若い男が立っていた。少し長めの柔らかそうな髪が風に
「関係ないでしょ」
僕は答えたが、人に見られながら身を投げるのも、何だか気乗りがしない。
「今はやめた」
僕はそう言って、男の横を通り抜けようとした時、
「ねえ、幸せになりたくない?」
男は笑みを浮かべて言った。
「……」
僕が無視して行こうとしたら、腕を掴まれ、
「ここにおいでよ。幸せになりたいならね」
と、手の中に紙を渡された。名刺ぐらいの大きさだが、名前は書いていない。その紙は一瞬、きらりと光ったように見えた。
「要らない」
僕はその紙をその場に捨てて、階段を降りていった。男は僕を追いかけてはこなかった。一体何者なのだろう? 学校の関係者でもなさそうだ。勝手に侵入してきたのなら、不審者として通報するべきか? まあ、僕には関係ないから放っておこう。
「ただいま」
家に帰ると母がいて、いつものように夕ご飯の支度をしていた。
「おかえりなさい」
母の声を背中で聞いて自室へ行き、カバンを置くと、ベッドへ横になった。
学校は地獄だ。学校は地獄だ。学校は地獄だ。でも、行きたくないなんて言えない。母に心配を掛けたくはない。あいつら、みんな死ねばいい。
宿題、やらないと。と思い立ち。机へ向かうと、名刺くらいの紙が一枚置かれていた。それは一瞬、きらりと光った。
「なんで?」
思わず言葉が口をついて出た。妖しげな男から貰って、すぐに捨てた物がここにある。不気味すぎて、すぐにごみ箱に捨てた。
宿題を済ませ、夕食を終えて風呂に入り就寝。何事もなく朝を迎えた。
机の上には、あの紙がある。それに気付くと、また、きらりと光った。
「薄気味悪いな」
今度はそれをちぎって、ごみ箱に捨てた。朝食を済ませ、身支度をして登校。母は学校で僕の身に何が起きているかなんて知らない。知らなくていい。ただ、昨日は限界がきてしまったかのように、屋上へと足が向いていた。僕が死ねば、母は悲しむだろう。何があったか知りたがるだろう。真実を知って、更に悲しむだろう。母には幸せに生きていて欲しい。そう思った時、「幸せになりたくない?」という、男の声を思い出した。でも、あの紙はちぎって捨てた。ここにおいでよと言っていた。あの紙にはその場所が書かれていたのだろう。
「幸せになれるわけがない。あいつらがいるんだから」
僕はそう呟いて、制服のポケットに手を突っ込んだ。指に何かが触れた。紙のような感触で、まさかと思って取り出してみた。
「やっぱり、おかしい」
ちぎってごみ箱に捨てたはずの紙が手の中にある。しかも、元の形で。それはまた、きらりと光った。訳が分からなかった。一度は死のうとしたんだ。死を覚悟できるくらいなら、多少、おかしなことに怯えることもないと奮い立ち、その紙を見ると、そこにはこう書かれていた。
『幸せ代行人 住所……』
人の名前はないが、住所が記されている。ここから遠くはない。歩いて行ける距離だ。学校へ行くのをやめて、その場所へ行ってみることにした。
「ここかな?」
よくある雑居ビルの一室に『幸せ代行人』の事務所はあった。扉をノックしようとした時、ガチャリと扉が開いて、
「いらっしゃい。待っていたよ。君が来ることは分かっていた。さあ、入って」
と笑顔で僕を迎え入れたのは、昨日会った若い男だった。
「失礼します」
僕は一応、挨拶をして入った。簡素な事務所には彼一人だけしかいなかった。
「さあ、座って。幸せになるために、ここへ来たんでしょ?」
男はにっこりと笑みを浮かべた。
「この紙、ちぎって捨てたのに、元に戻っていた」
僕はそう言って、あの紙をテーブルに置いた。
「それは君がそう望んだからだろうね」
と男は答えた。
「は? 僕が望んだから、ちぎれた紙が元に戻ったと言うんですか?」
「そうだよ」
「そんなわけがない。そんなのはおかしい」
僕がそう言うと、男は笑ってこう言った。
「おかしなこと、不思議なことが、この世の中にはたくさんあるよ。私には人の考えや行動の方が不思議に思うよ」
と、意味の分からない事を言った。
「それよりね。大事なことだよ。君が幸せになりたいか答えるのは」
「は?」
「だからね。君は幸せになりたい? さあ、答えて」
「幸せになりたいと願えば、誰でも幸せになれるんだったら、不幸な奴はいないだろう」
「私は、それを望む者の手伝いをしている。君には幸せになる権利がある。権利の行使は自分にしか出来ない。幸せになりたいと望まなければ、幸せにはなれない。君がどんな思いをしてきたかなんて、私には興味はない。けれど思い出してごらん、辛かった日々を。君は今までのように、このまま過ごしていくのかい?」
男に言われて、今まで自分が受けた数々の仕打ちが頭をよぎった。
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