タツコの部屋

石橋清孝

第1話 90歳のバースデー

 タツコは、ステージのバックでリハーサルの打ち合わせをしていた。突如、スタジオの照明が暗くなり、遠くから「ハッピーバースデー」という歌声が聞こえてきた。彼女は驚きの表情を浮かべて周りを見渡すと、スタッフたちが大きなバースデーケーキを持って近づいてきていた。


「タツコさん、おめでとうございます!」ディレクターが笑顔で言った。


 タツコは感極まって、言葉を失っていた。ケーキには90のろうそくが立てられ、キラキラと輝いていた。


「こんなに長く、テレビの世界で皆さんと一緒に過ごせるなんて思ってもいませんでした」タツコは、涙を流しながら言った。「本当にありがとう」


 スタッフたちは拍手を送り、一人一人がタツコに祝福の言葉を伝えた。長いキャリアの中で、彼女は多くの苦しい時期も経験してきたが、スタッフと共に乗り越えてきた。この瞬間は、その集大成のようだった。


「さあ、90歳の誕生日を祝っても、まだまだ現役ですよ!」アシスタントが、笑いながら言った。


「そうだね、これからも元気に頑張らなきゃ!」タツコは、にっこりと笑って答えた。スタッフたちとの絆が、彼女のテレビ人生を支えていることを、この日彼女は強く感じた。



 スタジオの照明が強く、真ん中に設えられたテーブルの上には、水の入ったグラスと、それぞれのゲストの名前が刻印された名札が置かれていた。タツコはゲストを笑顔で迎え入れ、いつものように落ち着いた雰囲気を持ってトークを始めた。


「さて、今日はとても素晴らしいゲストを、お迎えしています」


 ゲストは若手の映画監督、松下純一。彼の作品は、青春の輝きや人間の感情を繊細に描くことで知られていた。


「松下さん、初めてのご出演ありがとうございます」


「いえ、こちらこそ。タツコさんに会えるなんて光栄です」松下は、少し緊張した様子で答えた。


 トークは、松下の作品の裏話や彼の映画への情熱について進められていった。タツコは鋭い質問を投げかけることで、松下から、これまで語られることのなかったエピソードを引き出した。


「タツコさん。失礼ですが、あなたは本当に90歳なんですか?」突然、松下が驚きの声を上げた。


「ええ、本当に90歳ですよ」タツコは、微笑んで答えた。


「私の世代への理解。その鋭い質問力。本当に凄いとしか、言いようがありません」


「歳を重ねると、経験と知識が増えますから」タツコは、にっこりと笑った。「でも、松下さんのような新しい才能に触れることが、私を若々しく保ってくれているのかもしれませんね」


 スタジオは温かい雰囲気に包まれ、二人のトークは終始和やかに進んだ。



 タツコは次の質問を投げかけようとした瞬間、頭の中が真っ白になった。彼女が、これまで数えきれないほどの放送をこなしてきた中で、このような経験は初めてだった。言葉が見つからず、しばしの沈黙がスタジオを包んでしまった。


 松下はタツコの表情に違和感を感じ、心配そうに「タツコさん、大丈夫ですか?」と声をかけた。


 タツコは深呼吸をし、何とか自分を落ち着かせようとした。そして、笑顔を作りながら「ごめんなさい。少し考えがまとまらなくて……」と答えた。


 スタッフたちは慌ててカメラの切り替えを行い、CMに切り替えた。スタジオが一時的にオフエアとなり、心配するスタッフたちが、タツコに駆け寄った。


「大丈夫ですか、タツコさん」


「ええ、すみません。突然のことで驚きました」タツコは、申し訳なさそうに答えた。


 何分かの休憩を取った後、タツコは再びカメラの前に座った。番組が再開されると、彼女は視聴者に向かって「申し訳ございません。ちょっと頭が真っ白になってしまいました」と率直に謝罪した。


 この日の放送後、彼女の健康を気遣う声が上がるようになった。



 スタジオからの退場後、タツコは控え室へと向かった。彼女の歩みは普段よりも重く、少し疲れた様子であった。控え室のドアが閉まると、その背後で静かなため息がこぼれた。


 マネージャーの真希は、慎重に声をかけた。「タツコさん、大丈夫ですよ」


 タツコはソファに深く腰を下ろし、うつむいた。「こんなこと、初めてだわ……」


 真希はタツコの隣に座り、優しく手を握った。「生放送では、予測できないことがたくさんありますよね。今日のこと、気にしないでくださいね?」


 タツコは苦笑いをした。「あなたは、いつもそうやって私を励ましてくれるね。でも、今回は自分でも驚いたわ」


 真希は、心からの言葉で答えた。「タツコさんは、これまで数え切れないほどの放送を成功させてきました。たった一度のハプニングで、タツコさんの価値は下がりません」


 タツコは、真希の瞳を見つめた。その瞳は誠実で、心からの言葉を伝えていた。「ありがとう、真希」彼女は深く息を吸って、再び立ち上がった。「もう大丈夫。次からは気をつける!」


 真希は、微笑みながらうなずいた。「さすがタツコさん。私たちが、いつでも応援してますからね?」


 二人は、控え室を後にした。



 レストランの個室。シャンデリアの光が柔らかくテーブルを照らし、フォークとナイフがゆっくりと動く音が聞こえる。タツコはワイングラスを手に、遠くを見つめていた。


「あのね、真希。私も本当は、もう歳を取りたくないって思うの」彼女の声は、少し哀しげだった。「若かった頃に戻れるなら……」


 真希は彼女の言葉を静かに聞きながら、サラダを口に運んだ。そして、少し考えた後に、明るい声で話し始めた。「タツコさん。不老不死の伝説って、ご存知ですか?」


 タツコは、興味津々に真希を見つめた。「何それ?」


「古代の伝説や神話には、不老不死のエリクサーや聖なる泉、不死鳥のような存在が描かれているんです。それらは、永遠の命や若さを求める、人々の夢を反映していると言われています」


 タツコは、興味津々に聞き入った。「ほんとに、そんなものが存在するのかしら?」


 真希は、にっこりと笑った。「それは、誰にも分かりません。でも、その伝説や物語が生まれる背景には、人々の歳を取ることへの恐れや、過去の良い時期に戻りたいという願望があるんだと思います」


 タツコは、考え込んだ。「本当に不老不死になれるのなら、誰もがなりたいでしょうね」


 真希は、うなずいた。「でも、もしそれが可能だとして、本当にそれが幸せなのか、分からないですよね……」


 二人はしばらく黙って、それぞれの考えに沈んだ。そして、タツコは深く息を吸い込み、笑顔で言った。「まあ、不老不死になってもならなくても、この瞬間を大切に生きることに変わりはないわ」


「さすがタツコさん。尊敬します」と、真希は優しく笑った。

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