第1話 無理難題

 1月10日――目をますと目の前にがいた。


「え?」


 思わず声が出る。俺が俺であることは疑いようがない。だが、もう一人のが確かにそこにはいた。はスー、スーっと静かに寝息をたてながら深い眠りについている。

 夢だろうか。ゆっくり辺りを見渡すと生活感のない無機質な世界へやが広がっている。家具家電と言える物はベッドとテレビくらいしかないし、どこもかしこも白一色で少し居心地が悪い。おまけに変なニオイがする。消毒液のような何とも言えない臭気が鼻腔を刺激するのだ。


「なんか病院みたいなとこだな……」


 そう呟いた瞬間、俺の右半身に稲妻のような激痛が走った。


「イッ……」


 苦痛に顔をしかめながら右半身に視線を移す。しかしそこには何の異常も見られなかった。それどころか先ほどの痛みが嘘のように引いている。


「何なんだよこれ……」


 悪態をつきながら目の前にいるに視線を戻すと、ようやく全てを理解した。の体は包帯でぐるぐる巻きにされていて、隙間からはいくつもの謎の管が伸びている。


「そうだった……」


 ――俺は交通事故に遭ったのだ。


「そうか……俺、死んだんだ」

『いや、まだじゃよ?』

「ッンナ‼︎」


 驚きのあまり変な声がでた。


『ッンナ‼︎』

「ちょっ……真似しないでください。というか誰ですか?」


 声は聞こえるものの、姿は見えない。


『わしは神様じゃ。天界からお前の頭に直接語りかけておる』

「神様? 天界? 直接頭に?」


 状況が全く飲み込めない。神様だって?

 一体全体こいつは何を言っているんだ。


『とりあえず天界へ来い。な?』

「天界? ちょっと面白そうだけど……じゃなくて、この状況は何ですか」

『来ればわかるぞ。それに天女もおるからして』

「天女? 行きます! 行かせてください!」

『よしよし。それじゃ早速……ホイッと』


 突然、目の前が真っ暗になったかと思うと、すぐにあり得ない光景が視界に飛び込んできた。


「え? 何ここ」

『天界じゃ』

「嘘つけーい。おんぼろアパートの一室じゃねーか。え? くっさ。は?」

『神にもランクと言うのかあってじゃな……』


 そこには髪はぼさぼさで上下ジャージ姿の、俗に言う干物女がベッドに腰掛けていた。辺り一面には脱ぎっぱなしの服が散らかっていて足の踏み場がない。


『よく来たな。『ッンナ‼︎』よ』

「いや、ホントそれやめろ」

『では名は何と申すのじゃ』

「……多田野日記タダノニツキ

『ニツキか』

「で? 干物女おまえは?」

『我輩は神様じゃ。名前はまだないがの』

「パクリの神様か?」

『そんな神はおらんわ』

「じゃぁ何の神様だよ」


『…………じゃ』


「ん?」

『だーかーら、わしは小説コンテストの神様じゃ』

「は? そんな神いるの?」

『おるじゃろここに。さっ、ニツキよ、とっとと小説を書くのじゃ』

「はぁ?」


 神様と名乗る干物女におんぼろアパートに召喚されたかと思うと小説を書けだと?


「俺、小説とか書いた事ないから」

『大丈夫じゃ。あんなものノリじゃ』

「いや、お前が言うなよ」

『どうしても書かぬか?』

「書くわけないでしょう」


『では、お前は死ぬことになる』


「はぁぁあっ!?」

『ニツキ、お前はあの交通事故で死ぬ運命じゃった』

「し、死ぬ運命? でも俺はこうして今も……」

『今のお主は魂じゃ』

「魂……?」

『事故直前にわしの目に留まり、衝突をギリギリまで緩めたんじゃが肉体から魂が抜け出るのを抑えるまでには至らんかった。肉体と魂の結びつきは刻一刻と弱まっていく。リミットはわしの力が及ぶ小説コンテストの締切、2月1日じゃ』

「そんな……」

『生き返るには、わしの試練をクリアして神の祝福を受ける他ない。時期も良かった。ちょうど小説コンテストが開催されておるからの。候補者を探しておったのじゃ。お主ツイとるぞ』



 ――締切までに小説を書かないと死ぬ。



 いきなり(自称)神の宣告を受けた俺は動揺を隠せなかった。一つ大きく深呼吸をする。とりあえず落ち着け俺、そして冷静に現状を分析するんだ。まず、俺は一度も小説を書いたことがない。そして締切は2月1日。今日は1月10日だから……期間は約3週間だ。


「ちなみに締切以外に何か条件はあるんですか?」

『小説として成り立っていること。オリジナルであること。そして10万字以上であることじゃ』

「10ま……」


 俺は言葉を失った。オリジナルなのは当然として、10万字だと? 10万字なんて無理に決まってる。こっちはド素人なんだぞ。1日に書き上げなければいけない文字数を計算し、頭がクラクラした。俺は国語ができないから理系に進んだ口なのだ。


「無理だ。出来っこない」

『やってみるまで分からんぞ?』

「無理だよ! 締切はあと3週間。1日1万字なら10日間で済むが、5千字なら20日間だ。ド素人に1日5千字も文字を書けると思うか? そもそもストーリーも考えてない。校正もしないといけない……」

『ならばこのまま死を待つか?』

「…………別に」


 ――死んだっていい。



 心の中でそう叫んだ。この29年間自分の苦しみを隠して、虚勢を張って生きてきた。でも、この世界に俺の居場所はなかった。誰の役に立つわけでもない単純作業を繰り返し、それで得た対価で毎日をダラダラと過ごしているだけだ。俺がいなくなっても誰も困らない。


 親ですら俺のことを疎ましく思っている。親は俺をずっとストレスのはけ口にしてきた。褒められたことなんて一度もないし、バカだのアホだの、俺の自尊心を削りに削って育ててきた。才能のないお前には勉強しかないと言い続けた。親の言う通りにたくさん勉強し、そこそこいい大学に進学し、いい会社に就職してもちっとも嬉しくなかった。むしろ苦しみが積もる一方だった。

 俺はただ、親に対等な1人の人間として見て欲しかった。望むものはそれだけだったのに。



「やっぱり書けない。この世に未練もない」

『本当に良いのか?』


 いいに決まってる。俺は誰からも必要とされていない。



『これでもか?』



 干物女かみさまが指をパチンッと鳴らすと、俺の目の前に小さな鏡が現れた。そこにはあの病室が映っている。



「ニツキーー! お願い……お願いだから死なないで」


 母さんが俺の手を握りしめながら泣き崩れていた。その瞳からは純粋な子どもへの愛が溢れている。


「なんでだよ……」


 母さんのこんな顔見たことなかった。俺があんたのせいでどんだけ苦労したと思ってる。何で今更そんな顔出来るんだよ。何でそんな悲しそうなんだよ。


「こんな時だけずるいよ……死んでせいせいするんじゃないのかよ! 俺の事ちゃんと見てくれたことなんて一度もないくせに!」


 ぐちゃぐちゃに掻き乱されて溢れた感情が頬を濡らした。


『その言葉にならない感情を直接伝えてやってはどうじゃ?』

「……」

『大丈夫。お主ならできる。わしの勘じゃ』

「神の勘?」

『そうじゃ。お主は見所がある。才能がある』

「才能? こんな俺に才能なんてある訳がないだろ」

『いや、ある。お主は『人の痛み』がわかる。それは才能じゃ。そういう奴は初めは躓き苦しむが、いつかは報われる。神はお主らをちゃんと見とるぞ。大丈夫じゃ。な?』


 一点の曇りの無い眼と穏やかな笑みが俺を優しく包み込んだ。なぜだろう、胸の辺りがじんわりと温かくなった気がする。これも神の力なのだろうか。


 そうだな。どうせ死ぬんなら最後くらい、


「わかったわかった。やるよ、やってやる」

『そうかそうか! 死ぬ気でやるのじゃぞ!』

「ああ、じゃないと本当に死んじまうからな」

『よし。じゃ、これを言わんとちょっとばかし決まりが悪いんでな』



 干物女は姿勢を正し、改まってこう言った。



『お前にチャンスをやろう。死ぬしめきり前に小説を書き上げ、コンテストに出すのじゃ』



 ――こうして俺の命を賭けた執筆たたかいが始まった。

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