第22話 バイタリティの差
タバコを吸えば、煙が心臓を冷たく撫でてくれるような気がした。藤堂の光に揺さぶられた気持ちも、カンナの影に揺さぶられた心も、何もかも靄の中。感情はなおも鮮明な色をしたままで、ただそれを、頭が認識することはない。絵画は確かに瞳の中にある。だが精々絵であるという認識が限界だ。
思えば、すっかりタバコを吸うことも減った。禁煙には酷い苦しみが伴うとも聞くが、彼はニコチンに好かれていないのか、吸ったり吸わなかったりということが容易に出来た。
何となく、カンナの前で吸おうという気はあまり湧かなかった。それはきっと、美羽が煙を苦手としていたから、かは知らないが、自分の中に、そして自分の外に理由があるのは明白だった。
社員が一人入ってきて、どさっと腰を落ち着けると、慣れた手つきで火を点けた。もう片方の手でスマホを弄りはじめたが、その様はどこかとても美しかった。
別段彼女は美人というわけではなかった。ただ、タバコがよく似合っていた。吐き出す煙が、彼女のファッションに映った。カイのように、吸って吐き出しているだけとは大違いだった。
彼女はカイなどまるで気にせず、いつものようにくつろいでいたが、その様が彼にまた息苦しさを覚えさせた。自分以外のほとんどの命は、当人がどう思っているにせよ、命を全うしている、そんな感覚をもう長いこと培ってきたせいで、見る人見る人に後ろ指を指されるような感覚を日常的に感じてしまう。
そうなってしまったら、軽く鼻で笑って、その場を離れるのだ。感情をその場に置き去りにするイメージで、元凶を視界から外す。大人らしい賢い生き方だといつからか信じるようになったそれは、確実に彼を蝕んでいたのだが、そのことを自覚してなお、他の方法を見つけようとするほどの自己愛も随分昔に失っていた。
戻ると、藤堂が大きく伸びをしていた。どうやら、一段落ついたらしい。
「肩凝り凝りですよ、目もしょぼしょぼするし。私もタバコ休憩しようかな」
「藤堂さんも吸うんですか」
「ううん、吸わないですけど、吸ったら疲れ取れるかなって」
「やめといた方が良いですよ。お金払って病気の可能性買いつづけるようなもんですから」
「なら赤間さんもやめときましょうよ」
「俺にとっては今の疲れを取る方がずっと大事ですから」
カイは椅子に腰を下ろした。今の疲れの原因から目をそらすべく、部屋を出た時のままのモニターに視線をやった。打ちかけのスクリプトの最後で、カーソルが点滅している。
「もっと身体に良いことして取った方が良いですって」
「例えば?」
「例えば……アロマとかですね」
「俺に合いそうな奴にしてもらっても?」
「合いますよ! 赤間さんにアロマ!」
いったいどんな顔をしてそんなふざけたことを言えるのかと、思わず彼は藤堂を見てしまった。彼女は彼の方をしっかり向いていたから、視線が等距離でぶつかるのは必然だった。
「本当です。だって赤間さん、そんなに綺麗な顔してるんですから。お洒落なことするの、きっと似合います」
彼女の放った言葉の一箇所だけが、尖った心の端に引っかかった。その単語自体は、今日初めて言われたわけでもないけれど、藤堂の喉を通って出てくるとは思わなかった。光の中を歩いているように見える人が、影の中を歩いているような自分を褒めるだなんて、気味の悪いことのように思えた。
それからも藤堂はカイを遥かに凌ぐ速度で仕事を進めながら(藤堂のキータッチは深いのか、タイピングの音がやけに響いて仕事をしている感じを演出した)、職場ではしないような他愛のない会話をたくさん投げかけてきた。カイは東にも感じるように静かに仕事をさせてほしかったが、そうも言い出せずその全てに付き合った。
思っていたよりずっと早く一日目の仕事を終えた二人を前にして、精神年齢の若々しい女社長は歓喜の声を上げた。
「まさかこんなに手早く仕事してくれちゃうなんて、本当感激ー! まとめてうちに雇っちゃいたいくらい!」
明らかに違う職種だろう、とカイは思っていたが、藤堂は「じゃあその内お世話になるかもしれませんね」なんて気の利いた返事ができていて、彼は改めて彼女の対人スキルの高さを感じた。
会社を出て宿泊先のホテルへ向かう電車に乗ると、ようやくカイはまともな呼吸が出来たような気がした。
「疲れましたね」
それは藤堂も同じだったのか、眉はハの字型に下がっていた。
「あの秘書の人、真崎さんって言いましたっけ、時々こっちの様子を確認しに来てましたけど、あれが結構プレッシャーで、一回コーヒーのカップ倒しちゃったんですよ。幸い中身は空だったので無事でしたけど、あの鋭い視線に見つめられながらの仕事は、正直しんどいです」
カイはうんうんと聞いてはいたが、その視線とやらは全く気付いておらず、藤堂の視線の広さに驚くばかりだった。あれほどの速度で仕事を為すのだから、てっきり画面に集中しているかと思っていたのに、そんなところまで意識が向いていたとは。彼も同じ会社の人間のはずなのに、まるで違う世界の住人のように思うばかりだ。
「ま、今日の所は済んだわけですし、赤間さん、ここからパーッと、食べて飲んで、ストレス発散しましょうね!」
疲れましたね、とは何なのか、とカイは突っ込みたくてならなかった。彼はすぐにでもベッドに倒れ込みたかった。
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