第13話 彼女は接頭辞になって
「なあ、どう思うよ」
「何が」
「藤堂さんだよ」
カイはキーボードを叩いたままで返事した。隣の席の
「トードー? 誰だよ」
正しく書いたはずの関数がエラーを吐き出してきたせいで、カイは集中を切らして回転椅子を引いた。東はとっくの昔にパソコンから距離を取っていたらしく、ちょうど彼の顔が隣にあった。
「おいおい、朝礼聞いてなかったのかよ。今日新しく来た人だよ。めちゃくちゃ美人の。挨拶してただろ?」
カイは黒目を上瞼の方に近づけた。そういえばそんなこともあったかもしれない、と考えるのが精一杯だった。決して器用ではないカイは、(今回の場合は正確にはそういう関係にはなっていないが)恋人が出来たりすると他人にはあまり意識が向かなくなるところがあった。対人関係に目立って影響が出るというわけでもないのだが、落ち着くまではかなり身の回りの出来事に関心がいかない。
「これだからモテる奴はダメなんだよ。朝から噂で持ちきりなのによ、まるで気にも止めてないの。何だ興味がないのかと思ったら、いつの間にかしっぽりしてやんの」
勝手に話しかけられて、勝手に貶されて、やはり東は苦手だと感じた。言葉の端々に品が無いのも、あまり好かなかった。アルコールの入った場面なら別に構わなくも思うのだが、素面でそういうことを言われると、どうにも引っかかりを覚えてしまう。
「こういう時に限って、お前恋人切らしてんだろ、おいおい、やめてくれよな、俺には今月中にお前があの子を抱いてる予感がするぜ……」
頭が痛くなってきた、とか言って東は席を立つと、どう見ても休憩室の方に向かっていった。あれで仕事が出来るというのだから、世の中はとんだ欠陥品だな、とカイは思ってしまった。ニコチンを吸うと、今以上に淀みなく話し出すのだろうという悪寒がして、カイは小さく溜め息を吐いた。
案の定、東のお喋りはお昼休みを迎えるまで延々と続いて、今朝のカイの仕事の出来は芳しくなかった。だが、東はと言うともういくつもタスクをこなしていて、せめて席替えだけでも上申しようかと思うほどだった。
「ウザすぎる……」
公園のベンチにどっかり腰掛けて、首が痛むのも構わずに体重を全て預けた。今日はまだ気温も高めで、心身に悪いオフィスにいるよりもここでお昼を取る方がよっぽど有意義に時間を過ごせそうだった。
コンビニで適当に選んだメニューは中々すぐに食欲をそそるわけでもなく、彼はしばらくのったりと動く雲を見つめていた。
「あの」
彼はだるそうに身体を起こすと、声のした方に視線を向けた。随分と綺麗な顔立ちの女性だった。どことなく見覚えがある気がしたが、誰かは分からなかった。あまり関わらない部署の人かもしれない。
「隣、座っても良いですか?」
「どうぞ……」
恥じらいつつもそそくさと彼の隣に腰掛ける彼女。ああ、俺のこと好きなのか、とカイはあっさり感じた。これまでも何度かあったパターンだったせいで、彼にはそれが過ぎた自意識だという認識がない。
「せっかくだから外でお昼食べようと思ったは良いんですけど、来たばっかりで上手く場所見つけられなくて、やっとあったと思ったらベンチがここしかなくて……」
まずは相手にこれがたまたまだと印象付ける言い訳をして、抱いている恋心を見えにくくする。お決まりのやり方だな、と思ってはみたものの、「来たばっかり」というところにカイは引っかかりを覚えてしまった。
「あ、もしかして藤堂さん?」
言ってから、それはないよな、と思ってしまった。向こうからしたら、一応挨拶はしたはずなのだから。朝礼を全く聞いていないということがバレバレだ。
「はい、えっと……ごめんなさい、私、まだ皆さんの名前、覚えられてなくて……」
謝るのか、と彼は面食らった。初日なんて、彼は直属の上司の名前を覚えるので精一杯だったというのに。
「赤間です。そんなに意識しなくても、すぐに覚えられますよ」
彼女はスカートの裾を手で押さえながらベンチに腰を下ろした。細かな所作には品の良さがうかがえる。
ガサガサとコンビニのレジ袋から彼女が出したのは、まさかのカイが選んだのと同じサンドイッチだった。
そのまま食べはじめるのを見ると、急に身体は空腹感を覚えはじめた。だが、同じのをそそくさと出すのも憚られて、
「藤堂さんもサンドイッチなんですね」
向こうが同じのを選んでしまった、という空気をわざわざ作ってみせてから、ないがしろにしていた自分のを出した。具まで一緒というのは、さすがに向こうも気にしないだろう。
「ついつい選んじゃうんですよね」
彼女はしっかりと飲み込んで、口の端についたタレを人差し指で拭ってから答えた。さっと指をおしぼりで拭く様を見ながら、カイは美羽の几帳面な性格のことを思った。
美羽はどこにだって顔を出す。あるいは爪の形、あるいは話し方、あるいはアクセサリーの系統。まるで、彼女が無数の女性に分裂して息づいているような。
「赤間さんも好きなんですか? サンドイッチ」
「いや、俺はたまたま」
それらは全て、ありふれた要素の一つずつでしかないと思うのに、彼はどうしてもその頭に〝美羽の〟という接頭辞を付けずにはいられなかった。
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