第12話 後ろを見たまま吊り橋へ

 空っぽなテレビを見つめること、それが苦痛に戻った。

 最初、カイは信じられなかった。つまらないテレビと共に年を取っていくこと、それが彼の日常だったはずなのに、今の彼は心の底から番組の虚しさに一人前に腹を立てていた。それだけ命に張りが生まれていた。

 一人になった部屋には、彼女の匂いが残っている気がした。鼻の利きは悪い方だったが、そんな錯覚が激しくあった。

 カンナは着替えのと、使った食材を買い足したいからと家に戻った。もう来るな、という言葉は彼の口からは出なかった。それどころか、そう思う気持ちさえ、もうほとんど湧きはしなかった。あっさりLINNEまで登録してしまった。

 むしろ、帰った彼女がまた母親に何かされるのではないかという危惧の方が強かった。

 静かになった部屋を見回しても、昨日までと何ら変化は見られない。朝食を用意した以外では、彼女はカイの言いつけをきちんと守っていたらしい。

 彼はソファに深く腰掛けた。全身を預けて天井を見つめる。

 既にカンナとは始まってしまった。彼女との間には、関係を示すための特別な言葉は何ら必要がないことはよく分かっていた。お互い、そういうのを求めているわけではないのだ。自分をこの世に繋ぎ止めるだけの理由、それが生まれればもう十分。

 彼の心は脱皮したての海老のようだった。ちょっとした衝撃で致命的なダメージを受けかねない一方で、新鮮な気持ちで身体中を満たしていた。

 ブーッとローテーブルの上に置いていたスマホが震える。手帳型ケースのフタをめくると、LINNEの通知が表示されていた。通知をタップしてロックを解除すると、「着替え終わった! 今から買い出しいってくるね」というメッセージと不細工なウサギがピースするスタンプが見えた。何ともまあ、不細工なウサギだった。視力が悪い人が眼鏡を忘れた時にするような、顔の中心にシワを寄せたような感じ。スタンプに触れると、「眼鏡を忘れたウサギ2」の購入画面が表示された。

「当たってんのかよ」

 声を出して笑ってしまった。それもまた、いつ以来のことだったろう、自分でも信じられず、カイは一瞬ぽかんとしてしまった。この心理状態を、人はきっと、楽しいと形容する。しかもその感情は、本心からではなく付き合ってきた幾多の相手たちとの間で設けたものよりはずっと重く、それでいて心を押し潰すほど重くもない、その昔、美羽ともまだ浅い頃に感じていたような程よい質量をしていた。

 彼は床に座ったまま、頭だけをソファにもたせかけた。

 この状況を素直に受け止めること、それは罪なのだろうかとどこかで考えだした気持ちは、自分を正当化しようとしている――彼を見つめる無感動なもう一人の彼は、ひどく冷静に分析結果を述べた。もう一人は是非までは決して口にしない。ただ黙って後ろ指を指すだけ。

 今度こそは上手く行くかもしれないとは、何度も思ってきたことだった。どこからどう見たって美羽の要素をカケラも持たない人と、本気でやり直せると信じたこともあった。けれど、美羽なら、美羽ならと考える時間が増えすぎるだけだった。恋の痛みを麻酔のようにして鈍らせるために次の恋に浸る。繰り返せば繰り返すほど麻酔の効きは悪くなって、始まりの希望は鈍い輝きしか放たなくなる。

 当たり前だった。この世に美羽は一人しかいない。美羽に固執する以上、彼は決して幸せにはなれない。だとしても、もう彼女はカイのものにはならない。諦めて、消し去ろうとしても、触れた唇に、出させた喘ぎ声に、腕に収まった頭に、彼を縛って止まない彼女が顔を覗かせる。永遠の呪いだと思った。

 だが、カンナは彼に全く違うアプローチをさせた。美羽に瓜二つの彼女は、彼の中で歪みながら膨れ上がった情動を引き出させようとしながら、同時に有り得たかもしれない別の日を幻視させてくれるのだ。

 ポンと新しいスタンプが送られてくる。

〝既読無視はダメウサ!〟

 眼鏡を忘れたウサギは、渋さの極まった顔をして両腕でバッテンを作りながらそう言ってきた。

「語尾がウサって、おい、冗談だろ」

 また自然なこぼれ笑いが出た。

 今度は、きっと違う。こんなこと、あれ以来一度もなかったのだから。彼は愚かな男子らしく、性懲りもなくまたギャンブルに手を出した。

 ついに持てる全てを賭けてしまったなんてことは、思考を半分以上放棄していた彼には分かるはずがなかった。

 美羽に重ねすぎるということが示すのは、彼を完膚なきまでに叩きのめしたはずのあの日を、もう一度訪れさせる危険を孕んでいるということ。

〝ついでに今日の夕飯に使えそうなものも適当に買ってくれ。建て替えで構わないから〟

 ボロボロの吊り橋に、カイはその一歩を踏み出してしまった。

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